建物脇に押し寄せる津波(3月11日撮影)
【あの日】
津波警報を聞いて利用者も職員もすぐに車に乗り込みました。避難所の市役所に到着すると、既に8,000人近い市民が押し寄せていて居場所が確保出来ず、その日は車で一夜を明かしました。翌日からはグループホームの建物に移り、利用者とそのご家族の避難所にすることに決めました。職員は生活支援と環境整備に追われ大変な労力を要しましたが、誰一人として怪我をすることもなく、全員無事にご家族の元に帰すことが出来たことは本当にありがたいことでした。津波は、建物の中の排水溝や壁の繋ぎ目など、あらゆる隙間から浸水していました。建物は残りましたが、内装と床の全面張替が必要でした。
一週間後(3月16日撮影)
【井戸水の塩分濃度】
畑は、瓦礫を撤去した後も近くの総合病院から流れついた注射針が無数に刺さった状態でした。人の手で取り除くのは危険なので、10tトラックで80台、計800tの土を入れ替えました。「生きた土」にするためには肥料も必要でしたが、被災地の事情でなかなか手に入りませんでした。農耕作業を本格的にスタート出来たのは震災から1年半後です。しかし、井戸水の塩分が強く種類によっては枯れてしまうので、内陸からトラックで水を調達して使うことになりました。塩の濃度は若干の下降を見せていますが、震災から3年経った今も幼い苗には使えません。ある程度成長すれば井戸水でも耐えられることもわかり、トラックで運んで来た水と使い分けながら試行錯誤の農耕作業が続いています。
水の入った500ℓのポリタンク
【お礼】
震災翌日には、我が身一つで駆けつけた緊急支援団体の姿がありました。現在も、井戸の掘削支援の団体が滞在されています。多くの方々の援助とご支援に支えられて今日があると思っています。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
【これから】
塩害の問題はありますが、少ない水で育つ根菜を中心に工夫しながら活動しようと考えています。地元の学校給食や地元駅前のスーパーに納品することも決まりました。利用者と共に販売する機会を少しずつ増やしながら社会参加を目指します。