利用者12名、職員3名が施設内で作業中に地震発生!!
すぐにテーブルの下に潜るように指示を行い揺れが治まるのを待ちました。次第に揺れが強くなり、玄関にあった下駄箱が倒れ、潜っていた会議テーブルも倒れそうになり、利用者にテーブルの脚を持つように声掛けしました。天井からは白い粉が落ちてきて埋め込み式のエアコン落下の危険もありました。
また、停電になり電話も不通に・・・携帯電話もまったく繋がりませんでした。
近くの同法人内の特養「桜花」から救助要請
施設から300mほど離れたところにある同法人内特養「桜花」(定員:29人)(法人本部併設)より事務員が駆けつけ救助の要請があり、2施設の利用者・職員が合流しました。「6mの津波がくるぞ!!」と近所の人に言われ、直ぐにカーラジオで情報を収集し、避難することを決断しました。まずは、優先的に特養利用者(車いす)を車に乗せ、15時45分頃ショートステイ含む38名の特養利用者乗車完了し多賀城市役所へ避難を開始しました。
徒歩にて避難開始
移動する車輌がないため、利用者11名は職員2名とともに徒歩にて多賀城市役所方面へ避難を開始しました。近隣の様子は液状化現象により地面から水が吹き出し、道路は割れたガラスや落下した屋根瓦が散乱していました。また停電により信号機が機能せず、避難車両で大渋滞が起こっていました。
消防団から「川から離れろー!!」とものすごい怒声が・・・
徒歩での避難を始めて20分後、多賀城市役所まで残り300mの場所で川沿いにいた消防団から津波襲来の情報を聞き、私たちは今渡ってきた歩道橋に引き返しました。数分後国道45号線仙台方面より津波が押し寄せてきました。はじめはゆっくりと迫ってきた津波はやがてものすごい勢いになり、渋滞中の車は次々と流され、目の前で水没していきました。
私たちがいた歩道橋の上には100人近くの人が避難してきました
津波襲来から30分後、水深は2mぐらいになりました。急に空が暗くなり、雪が降り始め寒かった事を覚えています。雪は約一時間激しく降り続け頭が真っ白になるほどでした。その後、天気は回復し、きれいな夕焼けが見えました。橋のたもとに消防の車が見え、「大丈夫ですかー!!」と、懸命に話かけてくれました。しかし、第2波、第3波と次々と津波が押し寄せていたため、救助はなかなかきませんでした。
100人以上が避難している歩道橋の上で、何度も何度も繰り返す余震により倒壊するかもしれないと思い怖かったです。他の方とも協力し、なるべく重心の低い階段部分に人を集め、危険を回避しました。22時ごろようやく本部職員と電話が繋がり、今の状況を伝えることが出来ました。電気が消えた街並みは真っ暗で夜になり気温も下がり始め、歩道橋に避難した人たちは身を寄せ合って寒さをしのぎました。
深夜0時30分 救助開始
ようやく救助のボートがきました。お年寄り、子供、女性から救助され、混乱もなくみな順番を待ちました。しかし、その後消防から連絡があり、重傷者救助の優先順位があるために救助は一時中断しました。携帯電話の電池も底を尽き、連絡手段は途絶えました。その後、私たちが救助されたのは深夜の3時30分頃です。水深は70cmぐらいまでは下がっていましたが、水はとても冷たかったです。
利用者は職員の指示をよく聞いて行動してくれました
時より、混乱する様子もありましたが、概ね職員の指示をきちんと聞いて行動してくれました。数名の利用者は、特養利用者の乗車避難の為に積極的に手伝ってくれました。避難所である小学校に向かっている最中に、先に避難していた職員に発見され多賀城市文化センターに行きました。利用者の一人が足の痛みを訴え、救急車で病院に搬送されました。
この時点では、施設外就労の塩釜港運送の清掃メンバー5名と理研食品作業メンバー6人の安否は不明のままでした。
避難する時、乗車する車がありませんでした。結果として避難渋滞が発生していた為、徒歩での避難で歩道橋に登ることができたので難を逃れましたが、場所によっては高台が見つからずに津波から逃れられなかった状況も考えられました。その時、持っていたのは利用者名簿のみでした。
避難所では水不足、薬不足に困りました
多賀城市文化センターで3日間、近隣施設にて約10日間、合計2週間程度の避難生活でした。多賀城市文化センターでは認知症高齢者と同室での避難生活だった為、控室を貸しても貰ったが3日後には「出て行ってほしい」と言われ路頭に迷いました。たまたま避難所で居合わせた近隣の施設が避難所として施設を提供してくれたので、とても助かりました。
避難所では、みな疲れ切った様子でした。水が不足していたこともあり、利用者も水を飲まなくなり体調管理を維持する上でも水分摂取を何度も声掛けしました。また、服用が必要な利用者もいて薬が不足し困りました。
利用者のご家族とは訪問や電話により連絡がとれた方から引き渡しを行いました。他の職員は特養高齢者の利用者のおむつ交換に苦悩していました。避難していた人も多かったので、さくらんぼの利用者は居場所が狭く体育座りで横になれるスペースはありませんでした。
私自身、家族とは電話・メールにて連絡を取り続けるも繋がらず、そのまま充電もなくなりそのままとなりました。3月12日の夜に一度安否確認のために自宅へ戻りました。
4月1日に事業所を再開しました
利用者の日中活動の居場所確保と利用者の心身の状況把握の為にも再開が必要だと思いました。3月28日には多賀城市から借り受けた老人福祉センターでの開所準備を行い4月1日の再開にこぎ着けました。しかし、今まで日中活動で行ってきた作業が全くなくなってしまいました。何が出来るかスタッフと何度も考えました。他にもガソリン不足の為に利用者の送迎が継続できるかどうかの問題もありました。また、借り受けた老人福祉センターの借用条件で8時半から17時までしか活動できず、職員の事務作業が制限され車の中で会議や事務処理を行いました。
※4月1日から「多賀城市老人福祉センター」にて再開
4月7日の夜に大きな余震が発生し、再びライフラインが止まり辛かったです。職員も車を流された為、通勤にも苦慮しました。
平成23年12月26日から多賀城市内にあるソニー仙台内「みやぎ復興パーク」で活動を始めました。多賀城市から一時的に借り受けていた老人福祉センターの使用期限が延長できなくなり、現在の場所を新聞で知り申請しました。
※12月26日からソニー仙台内「みやぎ復興パーク」で活動
委託先の企業も被災したため、作業が無くなってしまいました
震災前は主に委託作業のよる活動でした。委託先の企業も被災した為、作業はすべてなくなってしまいました。その後、新規作業を模索しながら現在の製品づくりをはじめ、多くの方々のアドバイスやご支援を頂きながら現在に至っています。今は全体の40%程度が震災後の新規作業です。
しかし、事業所は再開できましたが、 利用者の人数が減りました。以前に比べ工賃が下がってしまったことの理由の一つです。精神状態については通常時は安定していると思われますが、地震のたびに震災を思い出し、以前より危機感は強くなる傾向にあります。
ネットワークやつながりの大切さをとても感じています
施設周辺の住宅も被災をしたために、「お互いがんばりましょう」とたくさんの方に励まされました。施設としてもいつか地域へ恩返しをしたいと思っています。被害が大きく自力での再建が困難だった為、各種団体や企業に施設の現状を大きく訴えかけてきました。それにより同じように被災し再開した企業から新規で作業を委託してもらうなど全国から大きな支援を受けながら今の施設があります。
あの時、一番必要だと思ったものは「情報」です
防災無線が聞こえなかったためラジオ(電池式)がほしかった。しかし、施設自体が流されてしまったので備えていても意味がなかったかもしれません。
あの時を振り返って、一番考える事は・・・
施設近辺の土地勘がないと危ないということ。(避難場所、渋滞時の抜け道等)避難誘導を行う職員が地域を知りつくすことが必須だと思います。「まず逃げる」=「安全」ではない場合もあります。待機して助かるケースもあり、津波到達時間と避難時間を見極めることが大事。また避難中も様々な想定の元、対応できるよう「冷静な心」の準備が必要だと思います。
今、一番伝えたいこと
震災後すべてを失いました。しかし、「とにかく何でもがんばろう!」という気持ちを持てた事が利用者にも伝わり、共に歩んできました。多くの方々のご支援や励ましの声を頂き、めげずに歩んできた結果2年後には元の工賃額に戻すことができたこと、危険への意識は以前より高くなり、いざという時には互いに協力し合えるようになったこと、失ったものは大きかったけれど得たものもさらに大きいと思っております。情報に載らず支援が行き渡らず埋没してしまう危険性もあるので、正直に大変な時は声を大にして各方面に訴えかけることが大切だと思います。
行政への支援策の要望としては福祉避難所へのバックアップと強化です。行政は法に基づいての対応になる為、今回のような大規模な震災へは対応できない事が多すぎます。その為、障害者、高齢者、子どもを結果的に守れず救えないこともあります。避難所においても一般の人たちと同じ扱いの為、結果的に避難所にいられないなど、様々な理由で避難所にいられない人たちへの配慮が無いのが現実でした。その為にも「福祉避難所」の設置が必須。福祉職員は他の業種の人たちよりも人に対してケアができる人材として有効に活用し、ボランティアなどのサポートスタッフと共に安心して避難できる空間を作ることが本来の「福祉避難所」の役割だと思います。実際に幼子を抱えている母親や出産間近の妊婦さんが避難所に入れず寒いロビーにいたケースもありました。私も避難所でできる限り困っていそうな人たちに声をかけました。災害弱者優先としながらも、いざという時に福祉は二の次三の次となりがちです。きちんと優先的に配慮してもらえるように担当職員を配置してもらい自治体には強く訴えかけることが必要です。また、行政は意見が強い一般住民の対応に振り回されてしまいがち。言葉をうまく表現できない方たちの為にも我々は代弁者としてきちんと意見を述べ、彼らを守るための行動が何よりも必要。その為にも各機関や各施設と常時ネットワークを構築しておくことが大切です。行政が何でもしてくれるとは限りません。あてにならない時にはいち早く信頼できる隣人を頼りましょう!瞬時の発想の切り替えが大切です!
震災から3年が過ぎようとしておりますが、私たちの施設はまだ再建出来ておりません。一日も早く自分たちの作業所が再建できる日まで、これからもめげずに時には笑いながら歩んで行きたいと思います。震災で亡くなられた多くの人たちの無念さを私たちは生涯心に刻み、新しい未来を歩んでいます。このような震災が起こらないことを心より願います。最後になりましたが作業所を運営の皆さんは借地借用での事業所は復興支援補助の対象外(施設備品のみ対象)ですので、自前での運営が望ましいです。