事業所内に居た時に地震が発生!!
みんなにテーブルの下に入るよう指示と声掛けを行いましたが、揺れがすごくテーブルが床を移動し、棚などの倒壊による怪我の危険を感じました。地震の状況を見ながら玄関を開け、外に出るよう指示をしながら外で利用者を待ちました。
同法人の施設が近くにあるのでそちらに行き、今後の対応を検討しました。その後、利用者・職員の「安心・安全」を考え、気仙沼市の指定避難所である気仙沼市総合体育館に、施設内にあった毛布数枚と菓子パンを持って公用車にて避難しました。避難先は、停電により明かりがない状況でした。畳敷きの部屋で一般の方も避難してきたので徐々に人が増え、利用者の把握が難しくなる事、情緒が不安定になり皆さんに迷惑をかける事を考え、特別に部屋を用意してもらいました。この時まで、利用者のご家族とは連絡が取れず、安否確認も取れないままでしたが、ご家族からの連絡をここで待つしかありませんでした。震災当日の19時から翌日9時までを避難所の気仙沼市総合体育館で過ごし、その後は施設に戻りました。
私自身、家族と再会したのは5日後。母の死を確認したのはDNA鑑定にて1年半後の事でした。
翌日より施設を避難所としました
翌日より当施設を避難所として開ける事にしました。利用者、そのご家族、職員、他施設利用者もおりました。再開するに当たり、気仙沼市より指定の避難所にしていただくのに数日かかりましたが、利用者が全員無事だったことはとてもうれしい事でした。
震災以前と比べ生産活動は同じように進めていますが、気仙沼市内での売上は減少しています。利用者への工賃支給が生活の励みになるようホームページを開設してからは、全国から注文を頂く様になり、全国組織の団体や企業との関わりが多くなっています。また、震災の影響で職を失った障害を持った方を受け入れた事もあり、利用者人数は増えました。以前は余震があると不安になる利用者が多かったが、時間とともに落ち着きを取り戻し心から笑えるようになっている様に感じます。
あの時、一番必要だと思ったものは・・・
福祉避難所と障害者を理解している人の支援及び、日常生活用品、食料、ガソリンなど
あの時を振り返って、一番考える事は・・・
障害者を受け入れる避難所と障害者を支援できるスタッフ
今、一番伝えたいこと
何をどのようにしていいか分からない時、色々と支援をしていただいた各団体に感謝致します。