施設内で活動中に地震発生!!
揺れが治まって、まず利用者の安否確認、安全な場所への誘導、施設内の設備確認、二次被害を防ぐためガスなどの元栓、ブレーカーの遮断をしました。その後、利用者・職員の安全確保のために、指定避難所の荒浜小学校に避難することを決めました。
避難に際しての準備(防災・救急用品の準備、処方箋の持ち出し等)をし、工房の玄関に避難先の掲示をしました。利用者の皆さんは、地震の激しさにとても驚いてはいたが、大きな混乱は見られませんでした。しかし、その後の行動をどうするのか気にされていたので職員から指示を出しました。
工房は住宅街にあった為、近所の皆さんは道路に出ていました。地域にその時間いらっしゃった方は、お年寄り、小さな子どもがいる世帯(母親)がほとんどで、若い世代は見られませんでした。道路や建物には何も異常がなく、日常が残っていました。町内の方が自転車で避難の声がけをし、町内の防災無線、消防ヘリコプターから避難指示が出ていました。
団体行動で避難することを決断しました
利用者の方は、通所するのに自動車やバイクを使用する方が多くいましたが、個人個人で逃げるのではなく団体行動をとって逃げることをお伝えし、避難しました。バイクの方はヘルメットだけ携帯してもらい、安全確保に努めました。
結果、工房全体で避難したことが命運を決めました。個人での避難の場合、事業所に戻ったり、逆に海を見にいったりと生命のリスクが考えられました。また、個人の判断の場合、集団心理効果によって危機意識が減ることもあり、自主避難がスムーズにいかないことも想定されました。
しかしながら施設の自動車で全員が避難した為、利用者、職員の通所の足であるバイクや自動車は津波に奪われることになりました。
急遽、避難先を荒浜小から七郷小へ変更することにしました
防災リュック2個・救急バッグ1個・毛布5枚・ヘルメット・ライト・利用者名簿を持ち、徒歩や車で指定避難所へ移動しました。利用者は比較的落ち着いていましたが、次第に地震規模の大きさや津波襲来の恐れ、周囲の不穏さ、携帯電話が不通になったことにより不安が増幅し、みなさん緊迫した表情で無言になっていました。
結果的に2ヶ所の避難所に避難することになりました。
<皆さまへ>
利用者・職員の命を守るためにも、平時から避難場所の選定は地盤や津波襲来の恐れがある場所か、また、耐震対策をしているか事前に確認しておくことが大切です。どうか必ず備えてください。
私は現場の責任者としてこの避難場所の選定を誤りました。今でもこの判断ミスを後悔し、いつも思い起こすと恐怖を覚えます。そして大切な職員にこころに深くつらい体験をさせてしまいました。
地震の当日、工房にいた利用者は7名。しかし、地震発生少し前に自転車で早めに帰宅した利用者がおりました。事業所内の利用者の安否を確認した後、早めに帰った利用者のことが気にかかり、職員1名にその方の安否確認に行くよう指示を出しました。利用者が工房へ通うルートの把握を事業所では常々行っています。その情報を基にルートに沿って探しに行きました。他にみんなは町内の避難所に避難することを、その職員に伝え、利用者の安否確認の後、荒浜小学校で合流するように伝えました。
まずは町内の避難場所である荒浜小学校へ移動しました。しかし、避難者で溢れ、ラジオの情報も次第に大きく変更していきました。「10mの津波が来る」と聞き耳を疑いました。荒浜小学校は4階建ての小さな規模の学校です。10mの波?そうすると小学校の3,4階しか安全な場所は確保できないだろう。ここに集まっている避難者全員は入れるのだろうか?と考えがよぎり、避難場所の変更を考えました。4キロ先の七郷小学校が数年前に耐震工事をしているのを思いだしました。安全を考え、最終的には全体として七郷小学校に避難することにしました。早めに帰宅した利用者の安否確認に行った職員には電話を入れたが通じず、荒浜の工房玄関に「避難場所は七郷小学校に変更になった」と貼り紙をしましたが、戻ってきた職員は見ることなく、急いで荒浜小学校に向かっていました。その職員を見放したと批判されても仕方がありません。
私たちは更に安全な場所という事で荒浜小学校を離れ、4キロ先の内陸部にある七郷小学校へ移動した為に、職員を荒浜小学校に置き去りにする状態になってしまいました。本当にその職員に対して今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。その職員は津波襲来の前に荒浜小学校に入ることができ、命は助かりました。しかし、どこを探しても私達はいません。津波は小学校の2階と3階の踊り場まで達しました。校舎の中に避難した全員は助かっています。しかし目の前で津波が町をのみ込む瞬間を1人で見ることになってしまいました。どれだけ心細く、悲しくつらい想いをしたか。その状況でもその職員は町内の方と一緒に津波と戦っていました。
翌日の夕刻、職員はヘリコプターで運ばれ七郷小学校で合流し、暗い廊下での中、私たち2人は抱き合い人目をはばからず号泣しました。その職員に再会できるまで1日でしたが、とても長く苦しい不安な時間でした。
初めから最大限のリスクを考え、避難場所を決めていたらこんなつらい経験をその職員にさせなくて良かったのです。職員が津波襲来前に今回避難できた奇跡、しかし、あの時すこしの時間のズレがあったならば、その職員の命・人生を奪っていたことになります。その職員が生きてくれたからこそ、今私は生きることができています。
どうか、みなさん今の段階から地域の特性を把握し、安全な避難場所の選定・利用者、職員の命を守るための準備を行ってください。私達と同じような痛みを、誤りの判断をしないように、どうか準備をお願いします。
避難した七郷小学校は2000人あまりの人で溢れ返っていました
沿岸部から七郷小学校へ行く道は混雑しており、避難先の小学校グランドも車で埋まっていました。グランドや教室には避難した方で溢れ返っており、家族を探す方、またその日は中学校の卒業式であったため、着物姿のお母さん方がおり、とても気の毒でした。小学校には2000人程が避難しており、校舎へ入れない方は車に寝泊まりされている様子でした。
私たちは、安全確保のため校舎最上階4F教室に避難(防災用品を持って)しました。少しでも日常を感じて落ち着いてもらうため、防災用品の1つであるアメを配布しました。
余震が続いていた為、二次被害、利用者の命を守るためにも、避難してすぐに利用者の名札をガムテープで作り、誰もが目に付きやすい上着に貼り付けました。布ガムテープには「名前、血液型、所属先(みどり工房若林)、地区名(荒浜新)」と各々記載し、緊急で情報が必要になった時(怪我をした際や1人でいる時に事故、地震にまきこまれた時)にご自身を守るために行いました。「すばやい情報は命を救う」との強い思いから行いました。
震災当日の夜、利用者から日帰宅希望の声がありましたが、「帰す」選択はせず、以下の理由からもひとまず当日の夜は避難所で一緒に泊まるようにお伝えしました。
(理由)
・地震の被害や規模、インフラが機能しているか不明なこと。
・帰宅しても必ずしもご家族がいるとは限らない、いない場合ご本人が判断して動かなくてはいけないこと。
・お薬を常時服用しているため、その後の薬の確保のためにも、災害医療チームが派遣される避難所にいることが確実と考えたこと
・情報も入手しやすい。
避難所での利用者の様子
非常事態で不安も多い中、体が不自由な方のサポート等して下さり周りもよく見えていたと思います。当日の夜は家族と連絡がつかず、落ち込んだりもしていましたが、比較的落ち着いていました。しかし、やはり不安もあるのか職員のそばを離れない事が多く、まだ現実感を持てない様子でした。
震災後時間が経過するほど、症状や不眠が表面化し不安が増大していきました。しかし、避難所で何日も暮らしていく中で炊き出しや手伝いなど様々な役割を果たしてくださり、疾病と障害をあわせ持ち生きづらさを抱えながらも、それにとらわれ過ぎず、本来のご自身の「生き抜く力」を発揮していったように感じました。
ご家族との連絡について
利用者のご家族との連絡についてはご本人にお任せしました。避難所には2000人もおり人探しは困難を極めたので、避難してすぐに工房メンバーの所在(どの部屋に誰が避難しているか等)の情報を避難所玄関に掲示して探しに来られた方がすぐにわかるようにしました。探しに来られた方といち早くつながることにより、先々の支援の幅が広がり、利用者の不安も軽減することが出来ました。後に応援の職員に利用者名簿を振り分け連絡をしてもらいました。
自分たちの安否情報の発信
情報によってサポートの幅・スピードも変わってきます。まずは、どうしたら自分たちの安否を周囲に伝えられるかを考えました。利用者のご家族や法人に対して伝えることでまずはスタートできると考えました。
人を探す時は、その方がお住いの指定避難所・近所の避難所を探すと考えました。震災当日の夜に工房の全員の安否情報(荒浜小・七郷小学校にいる利用者・職員/小学校のどの部屋にいるか)を七郷小学校の正面玄関の柱に掲示しました。当日の夜からいち早く情報を発信することにより、その掲示をみて当日の未明、また翌日から職員、利用者の家族、法人職員、お世話になっている地域の方とつながることが出来ました。2000人もいる中、1部屋ごと探すのは困難を極めます。日が暮れたら人探しはできません。避難している部屋を明示することによりスムーズに事が進みました。
また、取材に入っていたメディアの方に対し、私たちの情報発信をしてほしいと懇願しましたが叶わず、その後ラジオの安否情報に投稿し、放送してもらいました。
利用者の薬の確保について
利用者がお薬を持っているか確認を急ぎました。服薬があっての日々の症状の安定を重々わかっていることから、いち早くみなさんのお薬を確保しなければならなかったからです。6名避難した利用者のうち、薬をお持ちだった方は1名のみでした。
避難所となった小学校の保健室に行きましたが災害医療チームが来る気配はありませんでした。普段から地域の社会資源を熟知していたため、避難所である小学校の近くの精神科クリニックを翌日訪問しました。偶然ドクターが来院しており、緊急で3日分の処方をしていただきお薬を入手できました。大変助かり、利用者の皆さんはお薬を入手できたことにより安心感を持てたようでした。
利用者をすぐに帰さず、避難所で一旦避難することによりそれぞれが抱えている問題(薬の有無や症状の変化)や安全に帰宅させるにはどうしたら良いかなどの情報を収集することで、確実な策を練ることができ、とても良かったと思います。避難所には震災当日偶然にも七郷地区にいた行政の栄養士、地域に所在する福祉関係者等が自然発生的に職員室に集まり、みんなで自分たちの情報提供、共有、困っている方の掘り起しを行い、色々なサポートができました。地域包括支援センターではいち早く廃用症候群(生活不活発病)を防ぐための運動のチラシを配布していました。こうした専門職の職業意識の高さがサポートに繋がっていったと感じます。
しかし、服薬していても環境的ストレスの方が上回り、従来にない症状が表出た人もあり対応に苦慮しました。災害医療チームの初動に、その後も精神科ドクターがいないことに大変困りました。
避難所ではみんなで助け合いました
避難所でのまわりのみなさんとの関係はとても良好で事業所への理解を地域の方がもっていることにより偏見にさらされることなく過ごすことができました。町内のキーパーソンである元町内会長さんと普段から顔の見える関係であり、偶然にも避難所ではその方と同じ部屋で共に過ごすことにより同室の方々とも自然に支えあいながら、利用者へのフォローもして下さって、とても感謝しています。
また利用者も支えてもらうだけではなく、ご年配の皆さんのサポートや避難所内でみんなが担うお仕事も積極的にしてくれました。事業所、また職員が日頃より地域のみなさんとお付き合いしていくことが、互いにプラスの作用を生み出すことを実感できました。
家族が食料不足の中、食べ物を作って会いに来てくれました
私自身は、津波で携帯電話が流されたため、家族への連絡はなかなか出来ませんでした。そのような場合でも、目の前の状況をひとつでも打開せねばならず、自分の事は後回しで支援に専念していました。
3月13日(日)の夜、利用者を事業所の車で送っていった帰りに、叔母の家が近くにあることを思い出し訪問したが不在だった為、玄関に貼り紙をして伝えるようにお願いしました。「七郷小学校にいます。仕事があるのでしばらく帰れません。この情報を親に伝えてください」と残し、避難所に戻りました。家に帰る暇などありませんでした。
3月14日(月) 貼り紙の内容を叔母が両親に伝えてくれ、翌日昼に私がいる避難所に両親が来てくれました。あとで聞くと、父親が懇意にしているガソリンスタンドに何度も頭を下げてガソリンを少し分けてもらったこと。目を真っ赤にした両親が部屋を訪ねてきたが、私は利用者に対する支援を思案中でゆっくり話す事なく、顔をすこし見せて支援に戻りました。戻ると私の着替えとたくさんのおにぎりとおひたしがあり、同室の町内の皆さんにも振舞ってくれていました。あの食料不足の中、作ってくれ会いにきてくれた親に感謝しながらも、仕事に忙殺されていました。
※津波によりすべてが流失
※震災一週間前に撮影した工房
再建に向け、つらい現実の中利用者が共に考え動いてくれました
財政的にも運営基盤を築くためには、狭くても不便でも住所がある拠点が必要だった事が事業所再開の理由です。3月30日、震災後初めての全員の顔合わせで利用者へ現状報告をしました。荒浜の工房が跡形もなく津波で流され、なにもかも無くなったこと。仲良くしていた近所の方々が亡くなったこと。荒浜自体が壊滅的なこと。私たちにもどる場所はないこと。酷なようだが事実を知った上で「みどり工房若林」を再建していくか、工房はみなさんにとって今後も必要かご意見をお聞きしました。
事業所の再建は運営する側の都合や希望だけではなく、主体者は利用者でありマイナスからの出発には間違いはないが「利用者が求めてこその本来の事業所」と考えたからです。みんな「工房が必要だ、再建させよう」と意見が決まり、行政・法人に利用者・職員の総意であると報告しました。
事業所の再開
震災後、利用者と顔を合わせる場所がなかった為、行政に懇願して4月19日から5月31日の短期契約でしたが、太白区障害者福祉センターの一室を間借りしました。利用者の活動は午前中のみとし午後は物件さがし、資金の調達、新工房の内装や事務機器屋さんとの打ち合わせ、取引先への挨拶、各機関との折衝などの時間に使いました。その後6月7日からは現在の工房がある場所(仙台中心部にある仙台市若林区若林にあるビルの一室)で活動を開始し、利用者は毎日通われています。資材不足などで工事が未完で壁に穴があいていたり、クロスが貼られていなかったりと雑な状況でしたが、皆さんが来られる場所が確保できました。再開するにあたり嬉しかったことは、荒浜の工房を失ったつらい現実の中、利用者さんが再建に向けて共に考え動いてくれたこと。そして事業所が本当にみなさんに必要とされ、他人事にせず皆で智恵をしぼり気遣いながら歩めたことはとても大きい原動力となりました。
対して困ったことは、物件がなかなか見つけられなかったこと。再開する際に基盤となる物件がないことには始まりません。仙台市・近隣の沿岸部にお住まいの皆さんが一気に住居を失った中、こちらのニーズに沿った物件を見つけるのは困難でした。不動産会社の障害者施設への偏見も強く「うつ病や障害者だのそんな人が通うところには貸せない」と言われ、いまだに障害者に対しての根強い偏見が社会にあることを実感したと同時に、ことさら利用者の日々のご苦労を思うと哀しみが押し寄せました。
※現在の活動場所
活動内容や利用者の変化
荒浜時は主な活動が農作業だったが、農地も津波に浸かり現在は行っていません。作業収入の大半が野菜の売り上げだったために収入源がなくなり、活動の主を手芸にシフトしました。
※工房から歩いて10分の場所にあった畑
※震災から2年。工房の基礎が残ったまま
またビルに入居したため、他のテナントに迷惑をかけぬよう請負作業の内容によっては仕事を断わらざるを得ない状況にあります。以前の工房に比べ活動スペースは格段に狭く、作業の仕方や参加の方法にも工夫が必要でした。利用者同士、周囲との距離感が近く圧迫感もあったようです。職員の業務としては何もかも一から立て直さなければならず、以前に比べ仕事量も膨大になっています。
震災後、主たる作業が無くなり、工賃が下がることを気にして退所された方もいましたが、利用者の登録人数はほぼ変わっていません。仕事においては、ありがたいことに商品の買取り・委託販売のお蔭で何とか持ち直すことができました。ただ、震災によってこれまで築いた販路は減少し、地域のお客様との接点を失った面もあり残念に思います。
利用者の精神状態については、発災から2年までは、多少の精神状態の波がありました。その後は地震に対する過敏さ、混乱、津波に対する恐怖感が顕在化してきている方々が見受けられます。時間の経過と共にようやく自分自身の気持ち、体験を振り返る時間ができてきたからではないかと思います。
地域の方々との関わり
現在の場所に移転してから新しい地域との関わりはありませんが、地域の主となる方とは繋がって情報を頂き、お世話になっております。むしろ、荒浜町内会の皆さんとの関わりが以前より強くなりました。町内の皆さんはバラバラに仮設住宅にいらっしゃいますが、工房にそれぞれ遊びに来てくださいます。工房の復興の様子を大変気にかけてくださり、利用者、職員のこころの心配までして下さいます。震災から3年になりますがお互いに支えあいながら過ごしています。震災をきっかけに福祉団体や企業様と出会う機会があり、たくさんのご支援をいただき智慧を賜りました。また関わり合いの中から新たな作業種目を生み出すことができ、利用者への支援の幅、様々な経験をすることができました。県内の被災事業所の皆さんと定期的に会う機会を頂き、こころの痛みの緩和になり、県域での横のつながりが出来たことは心強いです。
あの時、一番必要だと思ったことは・・・
①情報の発信・受信の仕方
全ての連絡手段を失い、安否情報や利用者を守るための情報を手に入れることが出来ませんでした。
また情報源であるラジオの中継局も数日後、地震で故障し、聞けなくなることもありました。このような状況の中、情報の選択を1つでも間違えるとリスクが増大していきます。あの混乱の中正しい情報が流れているとも限りません。私たちは10日間現場の職員2~3人で乗り切りました。情報発信が早めに出来ていれば応援の職員も早くにまわり、利用者や職員の心身疲労も軽減、サポート力も強化できていたはずだと考えます。
②災害時における法人内での避難場所の共有
情報発信ができなくなったため限られた人数でサポートをしていたが、マンパワー的にも限界点は感じました。町内の指定避難所は津波襲来の危険がありました。津波に限らず地震の被害で避難所として機能しないという事は大いに考えられます。従って、事業所として避難場所を1箇所に絞るのではなく近隣の安全な避難場所を最低3箇所ほど決め、法人内でどの事業所はどこに避難するか、情報共有が必要だと感じます。避難場所がすぐにわかることにより、応援が早くに回り安定した利用者支援に近づけるからです。
あの時を振り返って
利用者への支援は出来る限りの智慧で行い、無事全員を守ることはできたが職員への支援、精神的フォローが充分でなかったことに後悔が募っています。職員は支援者であると同時にもちろん被災者である。私たちの仕事は利用者への支援であるが、被災者としての職員の側面も忘れていけない課題だと思っています。感情労働と言われるこの職種はこころの疲弊がたえません。ましてや災害時の対応となれば目に映ること全てが支援につながります。それとは別にこれまでしたことのないハード面(事業所の再建)の仕事も増えます。何も手順もわからないまま問題は山積みになりました。
この震災を機に3月末で退職した職員に対して、私は何もこころの聴き取りや会う機会を作ることができませんでした。避難所での支援から離れられず、避難所を出た翌日から利用者宅への訪問や対応に追われていたからです。
言い訳かもしれませんが、そこまで当時頭が回りませんでした。「退職する/続けていく」のどちらも相当の覚悟が必要です。あの状況で辞める覚悟を伝えてくれたことは、震災にダメージを受けて相当なこころの葛藤ゆえの結論から導いたのではと考えます。とても申し訳なさそうに「こんな大変な状況なのに1人だけすみません」と話し泣いていました。
今はもう、震災時いた職員はみんな退職してしまいました。残ってくれていた職員にもこれまでの間は、再建へ向けての仕事量が膨大に増えており、だいぶ負担をかけていました。命がけであの局面を乗り越えて歯を食いしばって頑張ってくれていた職員に対して、日々どうしたらこの状況を緩和できるのか、休ませてあげられるかを考えていたが、忙殺され答えは見つかりませんでした。私たちのような小さな事業所では少ない人数で全てをしなければなりません。職員への支援、精神的ケアや休息など、これは事業所、法人内で意識的に行っていかないと難しいと考えます。職員が倒れてしまったら支援そのものが途絶します。災害後の復興への厳しい道のりは職員の心のケアによって歩幅が決るのではないかと思います。また震災がなければ今もあの職員と共に働けていたのではと考えると悔しいです。
今、一番伝えたいことは・・・
震災から3年になりますが、「みどり工房若林」はおかげさまで毎日笑顔が溢れる事業所までになりました。笑い事がたえず、事業所を3年前に失ったとは思わせない賑やかさです。あんな大きなことがあっても仲間がいて、応援して下さる方がいて、人が人を信じつながっていくことで乗り越えていくことができます。利用者の何気ない笑顔、震災を機につながった団体・企業・個人など、たくさんの愛情を持って私たちの課題や話に耳を傾けてくださり受け止めてくださいます。人は孤独では生きていけません。ましてや孤独の発想の中では建設的な意見は浮かびません。私達はたくさんの方に出逢いこころを救われ、智慧をいただき希望を見出すきっかけを頂きました。本当にほんとうに皆さんの存在が今の「みどり工房若林」を築いて下さったと思います。「みどり工房若林」利用者・職員代表致しましてこころより感謝申し上げます。
有事だけではなく平時でも、この人とのつながりは大きな力をもたらします。この関係性に優劣はなく互いを尊重しあい、素直に向きあっていくことによって人は自信が生じていきます。自分も相手も認めつつ何ができるのか、一人で抱えこまないことが現実的な希望が見え前に進めます。
災害は日本全国どこで起きても不思議ではありません。皆さまにおかれましても私たちと同様な経験をされることと思います。どうか、辛い局面に立ったとき孤独にのまれないでください。周りを見渡せば声を挙げると、きっと見守ってくださる方がいます。例え私1人でも、必ず関心を持ってお話をお聞きします。あの日から今まで現実とは思えない出来事を多々経験しましたが、今回のこのレポートを皆さんがご覧になって今後の備えや災害時に生き抜く一助になればと思い書かせていただいています。あのような同じ痛みを全国のみなさまに経験してほしくありません。今の段階から備えるべきこと、福祉避難所や災害時要援護者登録、避難所における行政職員の配置、自分たちの身を守るべきにはどんな社会資源(フォーマル・インフォーマル含め)が必要なのか、もし資源や福祉においての社会的システムが不備なようであれば、整備していけるよう一緒に声を挙げていきましょう。
また各県・市が整備している災害マニュアルをご確認ください。行政が災害時どのように動いていくのか私たちが把握することにより、現場の動きをある程度組み立てていくことができるのではないでしょうか。もちろん私たちが混乱するように行政も同じでありスムーズにはいきません。ただこの情報を知っているだけで支援の安心感はだいぶ変わってきます。精神障害の場合は精神保健福祉センターが核となってこころの健康チームや様々な動きを行っていきます。市における薬の備蓄量や薬の流通の流れなど把握していくと良いでしょう。精神障害にかかわらず、薬の確保は当事者にとって生命線です。私達職員は情報を身につけ、利用者を守らなければなりません。マニュアルが机上のものになるのであれば、現実的なことを想像して今の段階に修正していかなければなりません。想像力を活かし現実的にはどのようなことが起きるか、利用者職員で話し合うのも良いかと思います。
震災は私たちに負の遺産をもたらしましたが、ゆるぎない絆も残してくれました。利用者にとって生きる意味と人生の価値観を変えてくれたといっても良いと思います。自分の人生を余生と投げやっていた方は、今、生きていることがすでに一歩進んでいるという想いに気付きました。発病によって社会的差別を受けこころの中に根付いてしまった自己否定感、自分が存在することの意味を失いかけていた人達には生きることの意味を教えてくれたのです。家族との関係で孤絶感を余儀なくされていた人たちが、この震災でそうした想いを払拭することができたこともあります。長い間孤独の中で苦しんできた人たちは、生活基盤となる自宅での居場所を見出すことができました。世の中には自分にも出来うることがある、役割を担うことができると思い直した人もいます。集団生活の中では気付かれない役割がありますが、しかしその役割はとても重要であり、見方によっては小さな役割が積み重なって全体の中では大きな歯車となります。それがたとえ一人の笑顔であっても誰かが気持ちを救われることもあるように、結果だけが社会を構成しているのではなく、一人の存在が互いに人々を引き立たせ相互作用が生じていくものでもあるのです。
自分はひとりぼっちと思っていても、実は様々な人が自分の人生に関わっていることに気付いたのです。自己肯定できて自分の将来に想いを馳せることが出来るようになる意義はとても大きいと思います。「生きているだけで丸もうけ」と利用者さんが話していました。震災後、何気ないことにも感謝しつつ生活リズムを取り戻し、皆さん頑張って通ってらっしゃいます。皆さんの本来お持ちの力を目の当たりにしています。これからも利用者さんと支えあいながら歩んでいきます。
最後に、
皆さま、たくさんのご支援や励ましを賜りまして、ありがとうございました。お蔭様で苦境にも負けず前に進むことができました。何かしらの形で今後ご恩返しできたらと思っています。
どうか、今後も見守っていただけたら幸いです。