当直明けで自宅にいました
当時は当直明けだったので、自宅で寝ていました。地震直後に家族と家の外へ避難をしてラジオとネットで情報収集行い、近所の方々の確認を行っていました。地震の大きさと直後の停電、それに天候の悪化もあったのですぐに避難をしました。妻の母が頑なに避難を拒んだので困りましたが、情報も混乱しており正確な情報を得るのも苦労しました。
自身は比較的冷静でした
自宅の状態確認を行い、高台ではなく自宅で過ごしていました。家族は私の行動を見て落ち着いていました。避難所となった近所の気仙沼市率松岩小・中学校や気仙沼市総合体育館などでは半数程パニック状態で受け入れる側も判断出来ないほど状態がひどかったと聞いています。
施設の状況は
私が、施設にたどり着いたのは震災後4日程経った後でした。気仙沼地域特有のトンネルが多い地域なのに、トンネルが閉鎖されていたため唐桑地域にたどり着けない状態でした。また、岩手県高田市方面には1週間以上行けない状態が続いていました。(山道を自衛隊が封鎖していたため)
施設の方は落ち着いていた様です。ただ、やはりご家族との連絡はほとんど取れず、近所にお住いのご家族は直接施設に様子を見に来ました。当施設が2か月程ですが、同法人内のグループホームの避難所となりました。しかしライフラインが止まっていた事の影響は大きく、特に衛生面などの環境は良かったとは言えないものでした。
離れている身内となかなか連絡が取れませんでした
妻の兄夫婦とは3日後に再会をし、私の実家(岩手県)とは4日後に再会できました。岩手県一関市内でやっと携帯電話が使用できる状態でしたので、直接会いに行くしか方法がありませんでした。また、一関市内では数箇所で気仙沼地域に行く車両規制を行っており、気仙沼に戻れない方が多かったと警察関係者より聞いています。
事業所の再開
当施設は入所施設だったので震災当時から継続して支援を行っていました。しかし、通常の支援業務に戻るのに半年程かかりました。その中で職員の精神的な状態が悪くなって来たことが一番困りました。
私は、その後転勤で「ワークショップひまわり」に移動しました。活動内容についての大きな変化はありませんが、利用者は現在も地震に過剰な反応を示します。震災前と比べて所在確認や声掛けをするようになりました。また、ほかの企業や団体の方々とも交流も増えました。
あの時を振り返って・・・
震災に遭い、携帯照明や保存食、ガソリン、石油ストーブといった物の備えがあればよかったと思います。また、今振り返ると、利用者だけで無く支援員のケアや子供に対してのケアが出来なかったことについて考えます。
>今、一番伝えたいこと
市民に対しての支援を現在でも続けてくださってとても有難いと思う反面、それにより支援をしてもらうことが当たり前だと思っている人達がいる事が恥ずかしいです。
私自身の生活は支援を頂くことが殆ど無い状態でしたので、支援をされていた方々が被災地でも家が残っていた人達の生活にも目を向けてくれる事が今後の災害対応にも必要ではないかと考えております。(支援の格差が、支援をしてもらう事が当たり前という感覚になるのではないかと考えています)
また、実際に被災地で支援をしてくれた方々の精神的なケアも必要ではないかと考えております。