4月開所予定だった活動場所に行っていました
今まで、ワークショップひまわりの分場として活動していた場所が老朽化と利用者の増加により手狭になったために、近くの縫製工場を改築し活動場所を移し就労継続支援事業B型とし(「ワークショップふれあい」)開所する予定でした。建物内の改築も終わり、着々と引っ越しの準備が進んでいる時でした。
私は4月から赴任予定で、震災2か月ほど前から、新しい活動場所に利用者を連れて行き作業を行ったり、今後の問題点の洗い出しを行ったりしていました。
利用者と共に作業中に地震発生!!
金曜日の午後で作業を利用者と共に行っていました。地震の発生後すぐに作業机の下へ利用者を誘導、その後強い揺れの中、扉や窓を開けにまわり、その時に転んだり頭をぶつけたりしました。利用者の皆さんには「これは緊急事態である。」と最初にはっきりと伝えました。何度か揺れが戻ることがあったので、どこで治まったのか今でも記憶が飛んでいます。
3mの津波と言っていた緊急無線が6mに変わりました
当時、施設外就労で何かあった時は、「事業所に連絡を入れてからの行動」という取り決めがありましたが、既に停電していた為に固定電話は繋がらず頼みの携帯電話も繋がらず、色々と判断が遅れました。しかし、一緒だった年上の同僚が、周辺の地理に明るく、「6mの津波」の無線を聞き「ここまで到達してくる」と言いました。それを聞き避難する事に決め、みんなで送迎車3台に便乗し、事業所に戻ることにしました。その時は、直ぐに戻るつもりで現地の建物の鍵と利用者の荷物以外はほとんど置いてきました。避難する時の利用者の様子は、1~2名を除き比較的普通に見えました。しかし、1名はパニックを起こしてしまい、トイレで大泣きし逃げる直前まで出てきませんでした。
避難の準備をしながら、周囲を見たときには、周辺のみなさんも強い揺れに驚いて外に出ていたり、危険と気付いて避難の為に車を取りに行ったりする人達の姿を見ました。
避難所は寒くて眠れませんでした
一旦、事業所に戻りました。しかし、事業所室内もエアコンの部品が垂れ下がり、色々な物が床に散乱していました。その後、気仙沼市総合体育館に職員と利用者と一緒に行き、一晩だけ利用しましたが、とても寒く眠られませんでした。その後、また事業所に戻りました。この時、利用者のご家族とはほとんど連絡が取れずにいました。
私自身は、事業所と自宅が比較的近かったので、自宅確認のために一旦戻ることが出来ました。
4月上旬に事業所を再開しました
しかし、今まで行っていた作業が、ほとんど出来なくなっていました。毎日、利用者とどのように過ごしたら良いのか悩みました。また、仕事を頂いていた協力会社のうち何件かは工場や建物が被災した為に、今までの仕事が無くなってしまいました。震災後の利用者のみなさんは、小さな揺れにも過敏に反応する方が増えたような気がします。
※津波の後に発生した火災によって、全てが焼失
※4月開所予定で準備をしていました
あの時、一番必要だと思ったものは・・・
100V電源を必要としないストーブ、懐中電灯各種、予備の電池、キャンプ用のランタン、2000Wクラスの発電機など
あの時を振り返って、一番考える事は・・・
追いつめられると、みんな周りの事まで気を配る余裕がなくなる
今、一番伝えたいこと
ひとたび今回のような震災が起きると、我々の仕事柄、利用者対応優先にならざるを得ません。事前にその事は、家族や身内に知らせておくべきだったと感じました。