段ボールの組仕切作業中に地震発生!!
地震発生直後、建物後部の広い空地(一部駐車場)に利用者を誘導し、建物に近づかず落ち着いて動かないよう指示を出しました。
避難した空き地に液状化現象が見られました
津波警報発令される前、避難した空き地に液状化現象が見られたので、他の職員と適当な避難所がないか打合せを行いました。津波警報発令と同時に約300m程離れた同法人内特別養護老人ホーム「桜花」(定員:29人)に利用者と共に特養利用者の救助に向かいました。震災発生時は驚いて動けない利用者も数名いたが、室内のものが落下してくるので大声で声掛けし、手をつかんで外に避難させました。職員の声掛けで落ち着きを取戻し避難できました。近隣住民もほぼ全員が外に避難している状況でした。
「10mの津波が到来する」との情報が・・・
利用者の個人情報を持ち、徒歩にて避難を開始しました。携帯電話がすぐ繋がらなくなり、利用者の家族に連絡が取れなくなりました。大津波警報発令により、避難する車で道路があふれ、移動も大変でした。避難途中に津波が迫ってきたので、急遽国道45号線八幡歩道橋の上に登り、救助されるまで13時間利用者・職員と共に過ごしました。利用者のみなさんは、声掛けを行ったことにより比較的落ち着いていました。しかし、女性の利用者もいたためにトイレに困りました。雪の降る厳寒の中の13時間、声を掛けながらお互いを励まし、職員も利用者も身を寄せ合い暖をとりました。
その後、救助され多賀城市文化センターへ避難しました
避難所では、さくらんぼ用に部屋を与えてもらいました。利用者も比較的落ち着いていたが、「いつ家に帰れるのか」不安を口にする者もいました。また最初の内は、食料がないので困りました。
利用者のご家族とは、持っていた名簿を基に、職員が手分けして徒歩、もしくは車で訪問し、無事であることを連絡しました。避難所までご家族が迎えに来たケースもありました。避難生活の中で、利用者の仲間意識や助け合う気持ちが高まったように思いました。プールに水汲みに行ってトイレの水をまかなうなど、積極的に避難所での仕事にも協力してくれました。
自宅も津波で全壊でした
電話が通じず、徒歩30分程度の距離に自宅があったが、利用者の安全を第一と考え自宅に戻ったのは4日後でした。
4月1日に事業所を再開しました。しかし今も避難中のようなものです
グループホーム利用者もいたため支援を継続する法人の意向で再開を決意し、多賀城市老人福祉センターの一部を借りて再開しました。しかし、間借りだった事、この老人福祉センターを利用するお年寄りも居た事などもあり気を遣いました。また、今まで行ってきた作業がすべてなくなってしまった事が一番困りました。
多賀城市老人福祉センターは6か月間との期限がありました。この期限までに、新しい施設の建築もできず、多賀城市の他の物件への移転という希望も叶わずに、自分たちで次の活動場所を探すしかありませんでした。平成23年12月26日から多賀城市内にあるソニー仙台内「みやぎ復興パーク」で活動を始めました。ここも期限付きです。まだ新しい施設の再建の目途は立っていません。
震災後、新たなつながりができました
現在、利用者の精神状態は落ち着いています。地域のみなさんも特に心掛けて下さる方も多くなり、絆は強くなったと感じます。また、多種多様な団体とも関わりが出来ました。
あの時、一番必要だと思ったものは「通信手段」です
誰もが感じた事と思いますが、緊急時にあらゆる通信網が遮断され、なすすべもありませんでした。また、災害時の持出袋(食料・医薬品等)があればよかったと思います。
あの時を振り返って、一番考える事は・・・
人は自然には勝てないものだからせめて「心の備え」をしておくという事です。
今、一番伝えたいこと
多くの支援を頂き、ただただ感謝…
皆様、いつか来る大きな災害に備えましょう!