再建

モノ作りとさくらんぼ1

当時は仙台港界隈にある企業から作業を請けていたものの、企業の方も被災されて仕事が全部なくなっちゃって。建物はなくなるわ作業はなくなるわ、利用者さん達は無事だったけど職がなくなってしまって。

なんとか利用者さんの作業を育てていかないといけないと思い、駐車場清掃とかをやってつなぎながら、いろんな方の紹介から「モノ作り」をやってみようと、ト音記号のクリップやキーホルダーを作りはじめました。

もともとは清掃委託とかがメインでモノ作りはやってなかったんだけど、何しろ委託先も被災して再建できておらず。苦境の中ではあったけど、収入がないことはもちろん、何より作業がないのがつらいことなので、だったらモノ作りをして少しでも買ってもらえれば売り上げになって、利用者さんの工賃につながるなと。

プライド

 利用者さんは特に落ち込んだりはしてなかった。けど唯一、さくらんぼの看板に対しての意識が高かったみたいで。建物なくなっちゃったけどまた頑張ろうねっていう思いは、利用者さんの中に強くありました。だからそれがなくなるってことは。かなりプライドがあったんでしょうね。会社が倒産するのと同じような思いというか。彼らには、いつか同じ場所でさくらんぼが再建できるっていう夢があったんですよね。

決断、そしてこれから

震災の翌月多賀城市より老人福祉センターを借り再開ができ、9月までのところをなんとかお願いして12月まで延長してもらい、たまたま新聞記事を見つけて年末に引っ越し、翌1月からソニー(現在・ソニー㈱仙台テクノロジーセンター内 復興パーク)内に移転しました。
当初は1,2年で別の所を見つけて再建できるという見込みだったんですけど、なかなか移転する先の土地が見つからなくて。もともとあった場所も考えましたが、またこんな同じ目に遭ったらと思うと…。これからはもう安心できる所、津波が来ない所と思ったが故、移転先を探すことがかなり難航したんですね。
6月にさくらんぼ及び桜花が更地になったのも再建か解体かの判断を慌てて迫られるような状況で。大きい決断ではあったけど同じ場所での再建はしないと決断したんです。

何もかもなくなったけど皆一緒だったから、不思議と不安はなかった。一歩一歩頑張ろうと思えたんです。我々は好きでこの仕事(福祉)をやってるんだから。施設を支えていかなきゃいけないと。利用者さんの声を代弁していかなきゃならない。伝えることで繋がるというか。

復興と伝承

県内を見ると、復興は進んでいますという状況とまだまだですっていう状況とで混沌としてるのではと思います。沿岸部の住民は、まだまだだと感じているのが多いんじゃないのかな。どこを復興のゴールとするのか。県外から来た人が見たらどこが被害あった所でどこが無事だった所なのかわからないし。復興したのかもともとそうだったのかが。場所を知ることでの共鳴が生まれたり。
あの震災から6年…過去の出来事として終わったことなのかなと思う時もあります。これからは伝承していくこと、何を残していくのかが一番大切であり難しいことだと思います。

「震災の何を忘れちゃいけないのか」
「震災の悲惨さなのか」
「助け合うこと」
「そして後世に何を残し伝えていくのか」

最後に震災を振り返り、たくさんの感謝を糧に先が見えない中でも歩んで行く強さは培えたような気がしています。再建できる日まで…これからも歩んでいきたいと思います。

工房再建へ向けて

3月30日に、来ることができる利用者さん・スタッフで1回集まり、工房の現状報告をしました。その時期にはもう皆さん新聞などで荒浜の情報を知っていました。
荒浜の状況をある程度把握していたこともあってか、「工房はもう基礎しかなく全て流れた」ということを伝えると、「あ、そっか」って、それ以上の多くの言葉はありませんでした。
あとは利用者さん報告として、畑もやってたので農地も浸かり使えないこと、近所の方々も亡くなったこと、手芸の製品や材料等も全て失ったことを伝えました。
まず現状を報告することがスタートと考えました。事業所は利用者さんが主体となる場所なので、運営する事業所だけの意向ではなく一方的に再建をするっていう考え方はなかったです。
だからこそ、「なんの後ろ盾もないこと、スタッフも2人なること、今再建する資金もないこと」をお話した上で「どこに作るかも何も決まってないけど、工房を再建しますか?」と利用者さんにお聞きしました。
すると、皆さん「工房作ろう」「工房は必要だ」と言ってくれました。
その気持ちを受けて、「工房を再建する」と、行政と法人に報告し、動き始めました。
利用者さんと一緒に歩んでいくことが大切と思っていましたから。

再開へ向けた動き

 畠山と再開場所を入谷地区(南三陸町の山あいの地区名)で探そうって話をして。当てがあったわけじゃないんですけどね。
 利用者さんのその後の安否確認と再開場所探しをしようと言って、一旦3月18日に解散しました。
 畠山と活動を再開したのが3月22日ですね。法人内の車が無事だったのでそれを足にして。ありがたかったのが、気仙沼市が早い段階で法人内の車を各一台緊急車両的に扱ってくれて。優先的にガソリン入れていいですよっていう。
 朝集まって、畠山と合流して車を使って各避難所の利用者さんのところを回ったりするっていう感じでした。
 その中で3月の末には活動を再開する場所が見つかったんです。
 今も含めて言える事というか、ずっと我々は困りごとも含めて、その都度その都度、紙に書いていたわけじゃないですけど、プレハブがどうしても手に入らないとかも含めて訴えることを用意していたんです。
 プレハブも、仮設住宅を建てるラッシュの中で、レンタルとはいえ入手する段取りもできたので、今思えばスムーズだったのかなというのもありますね。
 ただ、利用者さんにしてみてば長かったと思います。一日一日が。我々は簡単に早かったって言っちゃいますけど、避難所にいた方にとっては、長かったと思いますね。
 ただ、4月の半ば位だったかな?利用者さんがバラバラな中で、こちらから提案したことがあって。避難所で入浴ができなかったので、集れる職員で利用者さんを集めて、週2~3回程度、登米市長沼の日帰り入浴の温泉に行こうと。お風呂入ってご飯食べたって感じかな。全員ではないんですけど。
 主に避難所生活の方とかに、そのようなことを4月、5月はやっていましたね。とにかく集る場所がなかったので、入谷地区で再開するまではそれを続けていましたね。全員均々ではないんですけど、そういうの通して集れてはいましたね。

これからへの思い

まだプレハブでの運営なので、本設と言いますか、ちゃんとした箱物ができてはじめて復興って言えるんじゃないかと思うんですね。だから、それができる平成31年春が我々にとっての岐路なんだろうなって思います。
でも、建って終わりじゃないですから。そこからがまた一歩一歩なので。これまで出会ってきた方も含めて、偉大なというか大きい財産なので大切にしていきたいです。
震災時に来てくれたJDFの方が今後10年間来ますって話をしてくれて、それもすごいなぁって思うんですよ。だからそういったことも忘れないことも大事だし。
その活動の行動力ですよね、自分だったらできないなって思ってしまう。やっぱり今のことで目いっぱいになってくるんで。我々もふところ広くなりたいなと。有限実行というかね、そういう風になりたいですね。
いろんな方々の影響を受けて、良い経験というか、悪い方向には行っていないんじゃないかなって思います。

仮設での生活

その後5月に仮設住宅に移られて困ったこと、反対に引っ越してきて良かったことはありますか。

初めは仮設ができていいかなと思いましたが、壁や屋根に断熱効果が無かったので、夏は暑いし冬は寒いしでそれが一番大変でした。また、近隣の人たちとコミュニケーションが取れなかったのが困りました。閖上に居た時は、周りの健常者の方が私達とのコミュニケーション方法はこれ、という風に覚えていてくれていたので、簡単な身振り手振りや筆談でコミュニケーションが取れたけれど、仮設住宅ではそういったことがなかなかうまくいかなかったですね。

あとは、当時は色々な役所での手続きをする際に、手話通訳者もいなかったので細かい書類の書き方が把握できずに大変でした。でも3か月が過ぎる頃になって全国からボランティア通訳の方が仮設住宅に来てくれたのでとても感謝しています。

 

震災に遭って災害に対しての備えはどうしていますか。

過去に津波などの経験が何回かあれば防災準備もしていたと思いましたが…。今は海から離れているので安心はしていますが、防災準備はしています。

震災後の心境

今はだいぶ復興も進んで風景も変わりましたが、閖上地区に戻りたいと思いますか。

来年3月でここが閉まるので、閖上に戻るか災害公営住宅に移るかどうかと、息子と相談したんですが、また地震があった時に津波が来るかもしれないし、お父さんは耳が聞こえないから心配だから閖上に戻るのはダメだと止められました。閖上は生まれ育ったところだし、慣れ親しんだところなのですが、息子から言われてやっぱりだめだなぁと思い、戻らないと決めました。今後また地震があった時に、地盤沈下とかひび割れとか、新しい家を建てても壊れてしまう心配もあるので、閖上に戻って生活するのは諦めました。

 

震災前と後で心境の変化や生きがいみたいなことで感じるものはありますか。

今も全国で地震が発生しているので、また日本のどこかで同じような地震があるかもしれないという、この先の心配はありますね。イラストを描くのが趣味なので、今回の大震災の教訓を孫に代々受け継いでもらって伝えたいと思ったので、震災の記録をイラストを交えてファイルにまとめたものを作りました。

 

このファイルはどこかで見てもらったり展示したりしたことはありますか。

大阪、徳島、東京、神戸方面などからも貸してほしいという依頼はありました。

この先、南海トラフ地震などが想定されていて心配なので、そういった時の為の備えになればいいなと思います。

2年間のブランク

事業所の再開を考えたのはいつ頃なのでしょうか?

被災直後はそんな余裕はなくて、まずは利用者の安否確認でした。次に、利用者のこれから先のこと。事業所の再開という以前に「みんなで生きること」に向き合うときでもありました。ただ、このままでは終われない。自分たちのやってきたことを「無かったことにしましょう」という考えはありませんでした。

利用者さんを見捨てるわけにもいかないですよね。

できることをしないのが見捨てるということだと思います。諦めないで小さいことを積み上げていった結果が今に繋がっているのかなと思っています。

事業所の再開まで2年間のブランクがあったそうですが。

はい、本当にこれはもう人それぞれの震災ですから一言で同じようには語れないところはありますよね。事業所の建物が建ったのは2年後でしたが、それでも女川での建物の新設第一号だったんです。それだけ女川は大変な状況だったということです。

再稼働

震災の2年後に事業所を再開されたということですが、当初の利用者さんの様子はどうでしたか?

再開が決まったときに「ずっと待っていた」「長かった」と初めて本音が聞こえました。今まで我慢してくれていたのです。かえって私のことを心配してくれていたくらいです。

皆さん、希望に満ちあふれその嬉しさは言葉に表せないくらい大きかったと思います。

しかしながら、きらら女川は女川町での建設第一号というくらいに、地域の皆さんや企業の方々が再建に苦労をされていた中なので、手放しで喜ぶことには抵抗を感じていました。

衣食住が整っている人とそうでない人との差がある中で、第一号で建設ができるということに気兼ねがあったのですね。

私自身、避難所生活をしている間、行く場所や仕事がない辛さを痛切に体感しました。働けるなら一生働きたいとも思いました。利用者たちも同じ気持ちだったと思います。

仕事をスタートしたときに、とにかく仕事ができること自体が嬉しく、楽しく、一生懸命に取り組み、あっという間に仕上げてしまいます。もっと何かできるんじゃないかと仕事に対しては今もすごく貪欲ですね。

職員さんや利用者さんのモチベーションを高く維持できている理由はなんでしょうか。

仕事があるということですね。就労支援事業で一番しんどいのが仕事の創出ですね。でもこの仕事を生み出すのは職員の役目です。「就労支援」という名前が付いている以上考えていかなければいけないことです。

 

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