相互理解

自分たちの役割とは

不動産屋には偏見を受けましたが、でも世の中の人って本当はとっても優しいのも一方で感じています。それは避難所にいて感じました。
皆さん、「障害とは?」って知らないだけで、例えば施設のスタッフが間に入って説明すると皆さんに普通に、「そうなんだー」と自然に受け止めてくれます。私たちは障害や病気のことを知識としてまだ知らない人に、つなぐコーディネーター的な役割もあるかと思います。
避難所生活でそれを体感しました。万が一の時にサポートを受けるためにも、利用者さんに障害があることを部屋の人に伝えてよいかをお聞きし、同意を得た上でお伝えしました。
薬を飲んでいるとき「あのお兄ちゃんどこが悪いの?」って聞かれたことがあります。気になっていたようです。「精神科にかかってて薬飲んでるんだよ」って答えると「そうは見えないね、わかんないね」って。
そういう風にうまく間に入ってお話すれば、安心感を持ってお互い、相手も知ろうとしてくれるんですよね。そして見守りまでして下さいました。それっていいですよね。相互理解ですね。知ることは大切。

心ない言葉

避難所でなにか問題があると疑われるのは障害者。

かよ子さん:障害をもっている人が過ごしてる場所とは知らない人が地域にいっぱいいました。
だから、なんでここ(事業所の作業室)だけ特別扱いされてるんだろうって不思議がられていて、そこからトイレで問題があったりとか、ルール上、きちんとやってない人を見つけると、「こんな風にしたの、くじらのしっぽさんの人たちじゃないんですか?」って言われたりもしてました。
色々なマイナスな言葉を聞いて利用者さんが嫌な思いをするのも嫌だったので、たまたまうちで別棟の作業場にトイレもあったし。あっちに歩いていくのひどいけど、夜も誰か付き添って行って使おうねと話し対応してました。でも、そうしているうちに、周りの方々もみなさん(利用者)の事を少しずつ、わかってくれました。

何かきっかけがあったとか?

かよ子さん:きっかけは、(避難所である)館内の運営をするのにルールを決める、朝に全体で行われる避難所ミーティングでした。みんなで使うところだから、ルール決めすることになったんです。私たちも、くじらのしっぽとしてそこに参加しました。私たち掃除などやれること、みんなと同じことできるっていう意思表示をして、一般の方と一緒に行うようになった結果、偏見とか、誤解も無くなっていきました。
でも、「普通にしゃべれるんだ」って言われますよ。障害を知らない人にはそう言われて、ほんとにびっくりしますよ。
障害を持っている人は、すべて助けが無いと生活できないというイメージを持っている人が多くいることがわかりました。
例えば、「順番だから並んでって言うと、一般の人と一緒に並んで待てるんだ」という理解から始まって、(避難所に)救援物資来たら、分担する係りの人足りないから手伝いの声を掛けられることもありました。例えば職員と利用者、ペアで行って手伝ったりするうちに、少しずつ理解してくれてる人たちも居たので、その人たちから、声を掛けて貰ったりして、徐々に偏見も無くなっていったことが嬉しかったですね。

避難所で

当日の夜はひまわりで過ごしたのでしょうか?

いえ、近くのケーウェーブ(気仙沼市総合体育館)にみんなで避難しました。商品のクッキーを持って。ケーウェーブは高台にあるので、何かあったらそこにという意識はありました。すでに多くの人が避難していましたね。

 

ケーウェーブには暖がとれるようなものはありましたか?

ないです。毛布のようなものもありませんでした。最初はみなさんと同じ広い場所にいたのですが、利用者さんにとってはいつもと違う場所、状況、ご両親にも会えない状況で、多動的な行動がどうしても出てしまって。避難している方みんなが不安な状況の中で、自分のペースが保てない利用者さんがその場にいづらくなってしまって。お手洗いにいってもすごく冷たい目で見られてしまって。誰が悪いわけではないんですが、避難している方すべてがもう限界の状態で。でもうちの利用者さんはなかなか現実を受け入れられないものですから、トイレに行けば大きな声も出るし、楽しいわけでもないのに飛び跳ねてしまう。なので、健常の方と同じ場所にいるのは難しいということで、ケーウェーブの事務員の方に事情を説明して別の部屋を貸して欲しいとお願いしたんです。けれど、なかなか理解してもらえなかったですね。でも他に人に迷惑がかかるからと説得して、どうにか会議室をお借りすることができました。その晩はそこで職員、利用者さんが「の」の字になってクッキーを食べながら過ごしました。でも、次の日にはもうそこに居れる状況ではなくなったので、ひまわりに戻ってきました。

意識の変化

震災前は地震に対する備えはしていたのでしょうか?

特別な備えはありませんでした。防災グッズはローソクと懐中電灯だけでした。震災後はラジオを準備しました。車のラジオは携帯できないので、携帯ラジオと電池、それと利用者さんの電話番号など連絡先が分かるリストを各送迎車に積みました。それと携帯電話の充電器ですね。

 

震災の前と後では心境的変化はありましたか?

利用者さんのご家族はあったと思います。一瞬にして奪われる命を目の当たりにし、自分がいなくなったらこの子はどうなるんだろう?と具体的に考えるようになったようです。兄弟でもいればいいんですが、必ずしも皆そうではない。そうなったときに誰が面倒を見るのだろう?と。ですので、子供名義の貯金をされる方だったり、区分認定を貰って入所施設に入れるようにと、いまから短期入所の訓練をされる方だったり。とにかく自分がいなくなった時の事を現実的に考えるようになったようです。

 

最後に健常の方々に知ってほしいこと、訴えたいことはありますか?

いま、ひまわりではパンやクッキーを作ってますが、これは人と繋がる為のツールだと思っているんです。物を売ることで声をかける、障害を持ったひまわりの子たちが笑顔で配達をする、それを見て障害を持っていてもこんなに明るく笑えるんだということを知っていただく。職員も家族もだれもいなくなった時、一度でも顔を見た方ってSOSを出しやすいと思うんですよ。知っている方を増やしていく。障害を持っていてもこの気仙沼という地域で暮らしていく基盤を作ってあげたい。それが甘い香りのするクッキーだったり、香ばしい香りのするパンだったり。そうやって美味しいものを通していろんな人とつながっていく。金銭だけでなく自分がこれから生きていく、そういう輪を広げてくれたらなと思っています。今では気仙沼市内の企業さんであったりとか、行政機関であったりとか、17か所に訪問させていただいてます。そこで、ダウン症って何?自閉症って何?ということ以前に、ひまわりの利用者さんはいつも笑っているよね、楽しそうだよねって存在を知っていただく。私はそういった活動を通して障害に対する偏見を取り除いてあげたいと思っています。こんなにも屈託なく一生懸命頑張っているんですよ、笑っているんですよってたくさんの人に知っていただくためのツールがクッキーやパンなんだと思っています。ひとりでは絶対に生きていけない方々、でも誰かの手助けが少しでもあれば輝けるんですよ。笑えるんですよ。知らないと掛けられない声も知っていれば掛けられる。

 

コミュニケーションが大事で、それが防災にもつながっていきますよね。

私は防災にはそれが一番大事だと思います。ろうそくや電気も大事ですが、人に助けてと言えること、それと何があっても安心して集まれる場所がある、それが一番防災に繋がると思います。

 

再建に向けて苦しかったこと

職員の方は現在何名くらいいらっしゃるのですか。

今は私を含めて5名ですね。あとパート職員として店舗・送迎・給食に3名の方にお願いしています。去年2人退職してしまい、2名抜けたところはなかなか厳しいのでパート職員で補強はしていますが、仕事量が多く大変です。それを職員たちは並々ならぬ努力で回してくれています。凄いと思いますよ。尊敬しています。

今は立派な建物もあって、だいぶ復興も進み再建されたというイメージがありますが、ここまで来るのに大変だったことはどんなことですか。

大変だったのはもう震災そのものですね。あとはそこから頑張るしかないのでね。

印象に残っているという点では、被災地と被災地ではないところとのギャップです。

私は鳥取から女川の障害者就労支援事業所の立ち上げのために来ていたのですけど、立ち上げとそれを軌道にのせる、長くても1年~2年というめどを立て、鳥取へ帰る予定でした。

そんな矢先に震災がありました。

きらら女川の復旧まで2年がかかってしまったわけですが、その間に事業の立て直しのために奔走しました。ただ指をくわえて待っていたのでは、これまでの取引先も失います。一日も早く製造・供給せねばなりません。事業所を再建するためには仕事を失うわけにはいかないからです。ただ女川では当分の間は何も始めることができない被災状況でした。そこで地の利を活かし鳥取に新たに事業所を設置する決断をし、2011年6月には供給を開始しました。鳥取の事業所でも私と一緒に働きたいと言ってくれる障害のある仲間たちが集まってくれました。いままで経験したこともない忙しさに不満を漏らす方もありました。私は、事業所の再建を見据えながら、被災地女川と鳥取とを行き来していました。女川では集まる場所もなく、仲間たちとは月に1回、隣接する石巻市のイオンにあるレストランで近況報告をしあいました。ただ、家も、行く場所も、仕事も失った彼たちに「鳥取は忙しい」という言葉だけは呑み込み、少しずつ頑張っているよと伝え、待たせて申し訳ない気持ちで一杯でした。

いよいよ再建のとき、女川でやりかけたことを一から始めるために私はまた女川に向かうわけですが、鳥取の障害のある仲間たちやご家族からは「自分たちはどうなるのか、行かないでほしい」と言われたときには、被災地と被災地でないところの大きな隔たりを感じました。私は、「震災はまだ終わってないです」と説明するしかありませんでした。

当然、鳥取の事業所はそのまま今も継続しており、多くの仲間たちが働いてくれています。

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