週替わりにJDFの支援員さんが来て、だんだん打ち解けていくうちに、利用者さんって、自分の体験したことしか伝えられないので、自分の体験をそのまま彼らに話していくんですね。
その中に成長を感じるんです。まったく同じ話を別の人にしているんだけど、先週と違う伝え方してるなとか。
それは、障害があろうがなかろうが経験なんです。
震災っていう見えない傷を負っている中で、しゃべることで浄化されたり、自分の中で受容が深まるっていうことですかね。
例えば、未だにひきずっている感があると思うんですけど、多くの女性の利用者さんが震災後、持ち物が多いんです。自分がでかけてる中で地震がくるのが不安で。我々はそれを見てまだ続いているんだなって思っているんですが。家が流されて自分の宝物がなくなったので。
ただ、話しているうちに自分のうちや大事なものがなくなったんだっていう実感を、毎週違う人だけど他の人に話すことで納得していって。
最初は受け入れられなかった状態がだんだん話すのが続いて、かつ毎週人が変わるから、話せたことによって落とし込んでいって成長できたんですよ。あったこと自体はなかったことにはもちろんできないんですけど。
異性と写真撮るのが好きな利用者の方が、最初は自分で声かけられなかったんですけど、自分で声かけてみて写真を撮るっていう作業を、だんだん繰り返していくことで、できてくるっていう成長もありました。
おそらく利用者さんにとって、お互いやり取りしていく中で勉強しあうというすごい貴重な経験だったなと思いますね、震災後の人との関わりというのは。
被災した障害者就労支援事業所等が集る連絡会議をきっかけに、障害のある人のアートを社会に発信する「エイブルアート・カンパニー(現:エイブル・アート・ジャパン)」と繋がって、「のぞみ」の熱意を感じ取って下さり、紙漉きと南三陸のシンボルを組み合わせて何かやろうということになりました。
南三陸にまたモアイが来ることもあって、利用者さんたちにイラストを描いてもらって、その中で1人の利用者さんのモアイの絵を選んでもらい、それを商品化しようということで動き出しました。それで、まずはタオルを作って下さって。そこからとんとん拍子に進んでいきました。
ただ、モアイグッズは副産物的な売り上げにはなるので、今後、新アイテムを展開していかないと下火になってくるとは思うんですね。
世の中はシビアですが、個人的には綺麗事かもしれないけど、障害を持った方々が作った素敵なものが、いろんな方々に関わってできているんだってことを、後追いで一般の方に聞かせたいなっていう思いがあるんです。
商品が良くて、お金払って下さって、後から「あ、これそういうところで作ったの!?」って知ってもらうというのが理想的。そういう物づくりをしたいなって思っています。
利用者さんは、認められるっていうことに慣れていない方々多いので、こういった物づくりを通すことによって、障害者の方々への誤解や我々も周知できていない部分など、困っていることは意外とちょっとだけなんだよっていうことを広めたいですね。
障害っていう言葉だけが独り歩きして、「大変」ってなるんですよね。
どうしてもなかなか知られていない部分があるなっていうのが課題です。そのためにも紙製品で売り上げをあげられたらいいなと、もがいているところです。
今後も、のぞみに関わってくれた方々への感謝を忘れずに、利用者さんと共により成長していきたいなと思います。
熊井さん:利用するメンバーが変わったというのもありますが、リーダーシップをとってくれるようになりました。愛ちゃんが二十歳だったのが、今度26歳になりますから。
私と前所長が目指したのは、家に居る障害のある方が、毎日通える場所にしようということです。
震災前後から、支援学校卒業の方が入ってこられるようになりました。そうすると、ベテランの方と若い子になって、バランスがとても良いんです。うちに来られる方は、障害の重い子が多いんですけれど、結構育っていくんですよね。自傷行為なんかする子も、上(リーダー)になってみたりとか。
案外、寝てばっかりいてサボっていた子もいたのに、わからないものですね。
尚子さん:んー、それほど感じないですね。
熊井さん:彼女は以前、普通のOLさんでした。25歳で血管の病気を患って。それから10年ほど経って、こちら(事業所)に来られるようになったんです。
「織音」に来る前の10年は、誰とも会いたくないという感じだったそうです。でも、お友達がやっぱり出たほうがいいって言って、うち(織音)をすごく薦めてくれたようでした。いやいやここに来たみたいですけどね。
熊井さん:そうですよね。
この震災がきっかけで、いろんな方が彼女にインタビューをしに来てくださいました。それで、人との関わりにも強くなったようです。写真などに写ってもぜんぜん平気のようで、変わられたのかなと思います。
尚子さんのお父さんとお母さんも歳をとられてきたので、彼女には自立を後押ししています。ショートステイできるようにするなどの一歩を、今、踏み出そうとしている状態です。
小山さんの生活で、震災前と震災後で変わったことは何ですか?
震災前は、見えにくくて聞こえにくい状況でも普通に家族と一緒に生活できていたものが、震災後は自宅だけでなく、見えにくくても感覚で動けていた地域環境そのものを失い本当に動けなくなったというのが一番大きかったです。避難所を出た後も1年くらいは新しい環境で動けなくて。
その後、このままではよくないと思って、インターネットで「視覚障害者と仕事」というキーワードを検索してみました。当時はまだ携帯電話の画面も見えていたんです。すると、仙台市中途視覚障害者支援センターが最初に出てきました。私が学生時代、仙台に4年間住んでいた所の近くだったので、行ってみることにしたんです。そこでは、現在の視力ならば障害者手帳の等級がもっと上がること、白杖の申請もできることなど、たくさんのことを教えてもらいました。
その後、白杖歩行訓練も、パソコンの職業訓練も受けましたし、それで点字訓練も行くようになりました。点字訓練に通うようになってからは視覚障害の仲間の情報が直接入るようになりました。
宮城県視覚障害者情報センターからは視覚障害者に関する情報をどんどん紹介してもらったり、直接当事者からも話を聞いたりすることができました。情報が自分に入るようになったのが大きくて、少しずつ前に進むための気持ちの面も含めて、先のことも考えながら、今やることとか、必要なものを考えたりできるようになりました。これは大きかったですね。
それから、点字訓練に半年くらい通いましたが、私の場合は難聴で、視覚障害者は耳が聞こえますので、視覚障害者の方と同じ場では、話のスピードについていけなかったり、話している内容がわからなかったりするんですね。当時は補聴器もしていなくて、今よりもかなり聞き取りが悪く、情報が入りにくかったんです。そのため、断片的に入る聞き取れている単語で聞き取れているフリをしたこともありました。
それで、宮城にも目と耳の両方が不自由な盲ろう者がいて、「みやぎ盲ろう児・者友の会」(以下:「友の会」)という当事者団体があるということを視覚障害者情報センターの職員から紹介してもらいました。自分は盲ろう者なんだなとその時初めてわかりました。交流会に参加してみたら、盲ろう者を支援する通訳介助員さんが私についてくれました。音声通訳だったんですが、それを受けることで今までどれだけ聞こえていなかったか、情報が入っていなかったかを感じました。その音声通訳のありがたさと、快適さとそれによってずいぶん明るくなったというか。
他にも盲導犬の体験もしました。盲導犬は私は使ってないですけど、それでもいろんな情報が繋がっていきました。あと、盲ろうの仲間とも出逢い、自分が聞こえていなくても、見えていなくても、コミュニケーション方法はいくつもあるということを知りました。
たとえば、同じ難聴という障害でも、補聴器を使用し、静かな場所で近くの会話ならできる盲ろう者もいれば、音としては入るけれど言葉としては聞き取れない人もいます。それで、指文字が使える盲ろう者と何とか直接、コミュニケーションがとりたいと思い、まずは指文字五十音を覚えました。「おはようございます(実際に指文字で示して)」とこれくらいの速さで伝えられるようになって。手話も少し、単語を少しずつ覚えています。あとは指点字というコミュニケーション方法も習いました。今も練習しています。いろんなコミュニケーション方法を知り、同じ盲ろうの障害がある仲間がいることも知り、一緒に活動をするようになって、今その活動を主体として私も社会に参加できていますし、ゆくゆくは自立をして、自立といっても一人でできること、できないことがあるので、社会や仲間、地域、いろんな繋がりのある方との支援も協力も得ながら生活していけるように、いろいろ考えながら活動を続けています。
震災がきっかけですごく生活が変わったんですね。
変わりました。生活環境は二転三転しているので、「新しい家に入って良かったね」と言われることもありますが、私は困っていることもあるんです。環境認知はまた0からのスタートなので大変です。それでも、「友の会」の活動を通して、盲ろうになって動けなくなっていた自分が、研修会で学ぶ場所があって東京に行ったり、全国大会では神戸や静岡にも行ったりすることができています。少し前なら有り得ないと思うようなことができているんです。全国の仲間、支援者の方と出会って、今交流ができていたり、情報交換したり。県外からも講師に呼ばれることがあったので、ものすごく自分の世界が広がりました。外に出て情報を一つ得たことがきっかけで繋がっていったんです。視覚障害者は情報障害とも言われます、もちろん盲ろう者もそうですが。あれもこれもなんでできないんだ?とか、マイナス思考になるだけではなくて、私は何か具体的に解決方法やできること、できないことを考え、説明できるようになっていきたいです。こういう風に考えられるようになったのも「友の会」の活動や、いろんな方のおかげですね。
普段、地域で盲ろう者など障害のある方を見かけた時、困っていそうな時、どのように声をかけたり、支援をしたらいいのでしょうか?
視覚障害者や盲ろう者はいきなり声をかけられるとびっくりします。なので、静かにポンポンと肩をたたいてから、声をかけていただきたいです。それから、「私はこういう者ですが、今お困りですか?何かお手伝いは必要ですか?」とか言っていただけるとよいと思います。相手の状況を把握してからしてほしいことをサポートしてあげるというのが一番よいかなと思います。盲ろう者は耳も不自由なので、コミュニケーション方法の確認も必要です。盲ろう者については社会的な周知というか理解というか、まだまだできていないと感じていて、私もその周知や啓発のために活動しています。あとは情報保障の手段も音声、接近手話、触手話、筆記、手のひら書き、指点字など、いろいろあります。通訳・介助の支援を受けてわかったことですが、状況説明と言って、今、〇〇さんがこんな表情をしていますとか、ここにこういうものがあってどんな状況ですなど、こういったことを伝えてもらうだけでも、盲ろう者もみなさんと同じように考えて動ける場合もあります。
最後に視覚障害の方について知ってほしいこと、お知らせしたいことはありますか?
一概に視覚障害者といっても情報にも環境にも地域格差や個人差が大きいと感じています。住んでいる地域によって、公共交通機関にも差がありますし。また視覚障害単独の方であれば、音声による情報保障がいろいろあります。私は使えないのですが、スマートフォンやタブレット端末を音声だけで自由に使いこなしている方もたくさんいます。ですが、そういう方法も知らない方もたくさんいらっしゃいます。反対に、そういった情報にたどりついても必要性を感じない人もいるとは思いますが。あと点字についても、「視覚障害者イコール点字ができる人」と思っている方もたくさんいると思うのですが、点字ユーザーは視覚障害者のうち1割程度です。同じように「聴覚障害者イコール手話」と思われがちですけど、手話ができる人は聴覚障害者全体の1割から2割程度です。
そうなんですか?思っていたより少ないんですね。
それから、白杖を持っていれば視覚障害だと認識できると思うのですが、その時の声のかけ方、サポートの仕方など、そういったことも含めて視覚障害者が必要とすることを知っていただきたいです。様々な専門機関がたくさんあるので、連携しながら広く情報を出し合って、視覚障害者、聴覚障害者、盲ろう者への理解、周知をお願いしたいですね。必要な時に必要な支援を受けられるようになるといいなと思います。
松原さんご自身は今も復興に向けて突っ走っているというご心境でしょうか?
突っ走っている気はないんですが止まると後退すると思っています。女川に障害者の働ける場をつくり、きちんと機能させていくことがそもそもの私に与えられた使命で、それだけを捉えれば達成感はあります。
基本的にきらら女川の事業所自体は地域の特性上、これ以上規模を拡大する必要は無いように思っています。
ただ、事業(仕事)の拡大は常に考えています。作業の効率、作業の改善、製品の品質向上、今の工賃をもっと上げていくためにはどうすればよいのか等、段取りや経済的なこと。
突っ走るわけでは無く、ある程度勝算を見込んで、まわりの協力を得ながらやってみる。万が一うまくいかないことがあったときは、速やかに撤退の方法を模索する。損害が大きくならないような工夫をすれば良いことだと思っています。
これまでも、その工夫の積み重ねなのかもしれません。
未来に向けて、きらら女川が目指しているものはどんなことですか?
それは、きらら女川の方針を次世代に引き継いでいくということです。
そのためには職員たちに対し、次の二つのことをしっかり伝えていかなければと思います。
私たちの仕事は、言うまでもなく障害者への就労支援です。
一つ目は、 自分の仕事に対する責任と厳しい目を養う。民間企業では当たり前のことです。
二つ目は、利用者のスキルを向上させるための努力を惜しまない。
私から伝え、そして伝え続けていってほしいと思います。できることを増やしていくのは、本人にとっても事業所にとっても喜ばしいことです。
まずは、我々職員がやって見せます。本人の努力と職員の根気でできるようになります。
「もう手伝わなくても大丈夫です」と職員が邪魔にされるくらいが理想ですね。