職員の方は現在何名くらいいらっしゃるのですか。
今は私を含めて5名ですね。あとパート職員として店舗・送迎・給食に3名の方にお願いしています。去年2人退職してしまい、2名抜けたところはなかなか厳しいのでパート職員で補強はしていますが、仕事量が多く大変です。それを職員たちは並々ならぬ努力で回してくれています。凄いと思いますよ。尊敬しています。
今は立派な建物もあって、だいぶ復興も進み再建されたというイメージがありますが、ここまで来るのに大変だったことはどんなことですか。
大変だったのはもう震災そのものですね。あとはそこから頑張るしかないのでね。
印象に残っているという点では、被災地と被災地ではないところとのギャップです。
私は鳥取から女川の障害者就労支援事業所の立ち上げのために来ていたのですけど、立ち上げとそれを軌道にのせる、長くても1年~2年というめどを立て、鳥取へ帰る予定でした。
そんな矢先に震災がありました。
きらら女川の復旧まで2年がかかってしまったわけですが、その間に事業の立て直しのために奔走しました。ただ指をくわえて待っていたのでは、これまでの取引先も失います。一日も早く製造・供給せねばなりません。事業所を再建するためには仕事を失うわけにはいかないからです。ただ女川では当分の間は何も始めることができない被災状況でした。そこで地の利を活かし鳥取に新たに事業所を設置する決断をし、2011年6月には供給を開始しました。鳥取の事業所でも私と一緒に働きたいと言ってくれる障害のある仲間たちが集まってくれました。いままで経験したこともない忙しさに不満を漏らす方もありました。私は、事業所の再建を見据えながら、被災地女川と鳥取とを行き来していました。女川では集まる場所もなく、仲間たちとは月に1回、隣接する石巻市のイオンにあるレストランで近況報告をしあいました。ただ、家も、行く場所も、仕事も失った彼たちに「鳥取は忙しい」という言葉だけは呑み込み、少しずつ頑張っているよと伝え、待たせて申し訳ない気持ちで一杯でした。
いよいよ再建のとき、女川でやりかけたことを一から始めるために私はまた女川に向かうわけですが、鳥取の障害のある仲間たちやご家族からは「自分たちはどうなるのか、行かないでほしい」と言われたときには、被災地と被災地でないところの大きな隔たりを感じました。私は、「震災はまだ終わってないです」と説明するしかありませんでした。
当然、鳥取の事業所はそのまま今も継続しており、多くの仲間たちが働いてくれています。