さくらんぼは全壊したんです。悲惨でした。ある日突然ですから。特養・桜花は大規模半壊といっても全壊と変わりませんでした。建物が残っているだけで電気系統は水没でダメになり、車が何台も建物に突っ込み全く使い物になりませんでした。だけど被害は大規模半壊です。使用できない建物=全壊ではないのです。
当時老人介護施設の方も平成22年7月にオープンしたばかりで、3.11で特養(特別養護老人施設・桜花)が被災し、解体期限が迫り2012年6月には取り壊されました。障害者のグループホームは2箇所被災して廃止しました。
障害者自立支援施設のさくらんぼと、特別養護老人施設の桜花は二つともあまり離れてなかったんで一緒に避難したんです。
ちょうどあの時は、帰る時間帯でした。帰りの会をやる準備するために、荷物などを持ってる時に地震がきたんですよ。だから、全員同じ場所に揃ってはいなかったんですよ。
別室に更衣室みたいなところがあって、そっちにいた方もいらっしゃいました。でも、大体の方が集まっていたので、あれだけの揺れが来てもすぐ机の下に入ってとかの指示はできたんですよ。
ただ、やっぱりすごい揺れだったので、机の中に入りきれない方もいて。私は近くにいたので中に押してやって、その方の頭を抱えながらでしたが、とにかくその時は冷静に見れてはいたんですよね。
小川さん:はい。パン作りをしていました。
小川さん:だいたい4,5人くらいですかね。
小川さん:揺れも強かったので、みんなは台車にしがみついてた人とかいたし、職員の腕をつかんで一緒に外に避難したりといった様子でしたね。
小川さん:動けなくなった利用者さんと一緒に、すぐ逃げました。
小川さん:無かったですね。
小川さん:物が落ちてたり、書類が下に散らばってたりしてました。
震災当日の揺れ始めた時、さくら学園の隣にある塩釜市の地域支援活動センター「藻塩の里」で利用者さんが、てんかんの発作を起こしたということで呼ばれて、ちょうど介抱していたところだったんですね。私、当時「さくら学園」と両方の管理を兼務してまして。
畳の部屋に皆で運び、布団に横にして様子を見ながら介抱をしていた時でした。
和室からはみんなの様子が目に入らない、廊下を出ないと見えないような所だったので。おそらく皆、キャァって悲鳴を上げたりしながら、職員が落ち着いて「机の下に潜って!」というような指示を出していたと思います。
私はそれを聞きながら、横にしている利用者さんの隣にあった卓球台がもの凄い揺れで倒れかかってきそうだったので、利用者さんに手を置きながら卓球台を支え、大きな声で、机の下に潜るよう指示を出していたような覚えがあります。それからさくら学園の利用者さん達の安否を、揺れが納まった時点ですぐ確認に行きました。
さくら学園では、作業室で作業していた人達にも机の下に隠れて身の安全を守ってもらい、揺れ始めた時には重い備品が机の上から勢いよく転げ落ちてたせいで誰かがぶつかりそうだったというような報告を受けました。怪我がなくて本当に良かったです。
熊井さん:利用者さんのご家族等に、携帯で連絡していました。それでたまたま、愛ちゃんの持っていた携帯がお母さんとつながりまして、連絡を取ることができました。お母さんが愛ちゃんの無事を知って、とても喜ばれたのね。
愛さん:はい。
熊井さん:うちの(旧)施設から、愛さんのご自宅までは歩くとだいたい30分ぐらいだったと思います。揺れが落ち着いたその後、お父さんが瓦礫を越えて、愛さんを迎えに来ました。(利用者の中で)一番最初でした。
また、当日は調理実習をしていたこともあり、お米や食べかけのものを温め直しながら食べていました。そんなに食べ物に困ったわけではありませんでした。
尚子さん:自分のベストを作っていて、ちょうど終わったところでした。
ー怪我とかはなかったですか?
尚子さん:ないです。
熊井さん:地震のとき、尚子さんは階段のところにいました。施設のある部屋から出て、階段の付近を通って行った向こう側がトイレでした。
尚子さん:手を洗っているところでした。石鹸がついたまま、廊下に出たんです。
熊井さん:施設の部屋の中に居た人には、机の下に潜らせたりしました。地震が終わった後に、しょうこさんが居ないと気づきました。それで、ドアを開けたら、(同じ建物内の会社員の)女性の方と、階段のところにいました。それを見てヒヤッとしました。尚子さんが階段の付近に居て転落しなかったのは、その方と一緒だったからです。
今野さん:地震の時は一般就労していたケーキ屋の工場にいました。すごい揺れたので、外の駐車場に避難したんですよね。その時、雪も降ってきました。
社長とか他の職員とそこにいました。
工場の中はかなり揺れたせいで物が落ちていました。重かったオーブンも1センチずれたし、卵割るときのボールとか、色んな材料が落ちて全部だめになっちゃったんです。
揺れがおさまったあとに、家族が心配になったから電話してみたけど、連絡が取れなかった。
東日本大震災当日、立身さんはどちらにいらっしゃったのですか?
石巻市北上町十三浜の自宅にいました。自宅でマッサージの仕事をしていたので。
地震発生時、どのようなことを考えられましたか?
考えたというか、地震の大きさはすごいなと思って。普通とちょっと違うかなと思って。今までは地震があっても仏壇とか棚から物が落ちたことは無かったんですよ。でも、物が落ちる音がして。これは後片付けが大変だなと思いました。外に出ると家がミシミシと音がしているのが分かりました。そんな状況なので、「うわー、これは大変なことだぞ」と思いました。落ち着いた頃、お世話になっていた市の社会福祉協議会(以下、社協)の方が車で来てくれたんですよ。「避難するよ」って。とりあえず、ウィンドブレーカーとか、折りたたみの白杖などを持って、高台にある北上中学校に車で避難しました。
被災当日、松田さんはどちらで何をされていましたか?
鹿折地区にある職場の方にいました。水産関係の会社で働いておりました。全部で5工場くらいがありましたが全部つぶれてしまって、今は規模縮小による統合ということで自分も解雇ということになりました。
会社での業務内容はどういったものでしたか?
出荷、包装、組立て等を行っていました。
お勤めはどれくらいの年数だったんですか?
長かったです。11年間でした。
お住まいは当時気仙沼でしたか?
鹿折の県営住宅に住んでいました。山の上ですね。
揺れ始めた14時46分は、ちょっといつもと違うような感じはしたでしょうか?
そうですね。仕事中でしたので、みんなと一緒にまず会社の前の広場に集合して、部長が点呼確認して全員いることがわかって、それが100人くらいいたんですけども、それが終わってから全員で部長の後について避難しました。
会社は低い土地にあったんですか?
そうです。目の前の駐車場に停まっていた車が揺れで波打っていました。何だかめまいがするような感じで、テーブルの下に隠れるとか、そういうのも無理で、立ったまま「いつもと違う、おかしい、揺れが強い」と思いました。その時は、津波が来るというふうにはわからなかったので、まあサイレンとかも聞こえませんので。二階の天井が落ちてくるんじゃないか、つぶれてくるんじゃないかっていう不安から、すぐ部屋を出たいと思いました。窓の外では配管が壊れて、水が噴き出ているのが見えました。本当に「あー、どうしよう」と思いましたが、部長に「今外に出てはだめだ、とにかく大事なもの、貴重品を持って、準備しなさい」と言われ、待機していました。その後、避難をしました。建物がつぶれるんじゃないかっていうことだけが心配で、とにかく逃げることができて安心していました。揺れが収まった頃に自宅に戻ろうと思ったのですが、会社の同僚が15時ちょうどくらいに「危ないから戻ってはだめだ。ここで待っていた方がいい」と声を掛けてくれました。私はなんでだろうと思っていました。まだ津波が来るイメージが無かったので。その理由がわかったのが15時30分くらいです。実際の津波を目の前にして「あ、津波が来たからか。だからここにいろって言ったのか」と理解しました。そのあとは同僚と一緒に流れていく津波を眺めていました。大きな船が海の方からすごいスピードで流れてくるのが見えて、どこまで行くんだろうと思いながら見ていました。他にもいろんなものが流れてきて、家がその形のまま流れてきたり、車も流れてきて。「きっと会社も車もダメだろうな」と思って、みんなで足が震えてきて、帰れないっていうことがわかりました。
部長さんと皆さんが避難した場所は、高台だったということですね?
そうです。狭い道なので、車は通れません。そこをみんなで歩いて逃げました。会社からだいたい5~10分くらいの距離です。
当時の会社では、津波を想定した避難訓練などはありましたか?
いえ、なかったです。
では、ここが避難場所だと決まっていたわけではないんですね?
はい、初めて行きました。部長が他の上司とも相談して、あそこの山に逃げようと決めたそうです。その時に食べ物も準備して、リュックに入れていきました。
食べ物は何を持ったんですか?
缶詰です。缶詰を作る会社でしたので、それを持っていきました。
松田さんのお住まいの地域では、津波を想定した避難訓練はありましたか?
それもなかったです。
では、避難のための知識などはあったわけではないんですね?
わからなかったんです、本当に。何も考えてませんでした。今と昔では、地震があってからでは、本当に意識が変わっていると思います。
東日本大震災当日、渡辺さんはどちらで何をされていましたか。
揺れが来た時は、夫婦で名取市閖上の自宅に居ました。当時は70歳で定年退職していたので仕事はしていませんでしたので。
避難はどのようにされましたか。
当時は避難情報というのが全くなかったし、耳が聞こえないから自分たちだけに情報が無いのかなと思っていたけれど、近隣の健常者の人も分からない状況だったので、実際に避難するのかどうかというのも判断できていませんでした。
ご自宅は海からどの位の距離がありましたか。
800メートルくらいですかね。名取市閖上の日和山まで3,4分くらいのところです。
津波が来ることは想像していましたか。
考えてなかったです。
生まれも育ちも閖上でしたが、これまでは地震が発生しても津波はありませんでした。親からも津波の話は言われたことが無かったので今回は本当に初めてでした。地域での避難訓練や、地震に関する知識や情報などというのもなかったです。
そんな中、どういう状況で危ないと感じて避難しようと思ったのですか。
やはりこれまでの地震とは違って大きかったし、その後も何度も揺れが来たのでもしかしたら津波が来るかもと…。地域の住民はどうしているのか、近くの田んぼの方へ様子を見に行ったりしていました。隣の人にも避難しようよと促したのだけれど、なかなか行動する感じではなかったですね。話をしているうちにも揺れが来ていて、そのうちに近くに住んでいる兄が安否確認に来たのです。避難しているだろうと思いながら念の為と見に来てみたら、まだ私達が家に居たのでビックリしたみたいで、それで津波が来るからすぐに避難するようにと言われて。
震災の当日、2時46分に小山さんはどちらにいらっしゃいましたか?
一人で自宅の離れの2階の部屋にいて、テレビを観ていました。そこにあの揺れが来ました。もうハンパない揺れだったので、このまま建物ごと自分もダメになると思いました。
やっぱり、いつもの地震とは違うと思いました?
もう一気にガタガタが来たので。身動きが取れない。咄嗟に動いたのが良かったんですけど、5歩も歩けば部屋の入口のドアの壁のあるところに入れたので。そこでの時間は本当に長かったです。
2階から1階までの避難というのはどのようにされたんですか?
自宅ですので感覚も慣れています。今より視力がもう少しありましたので、2階から庭に出て行くのはできました。
地震の瞬間、津波という意識はありましたか?
はい。私の場合はもともと地域が昭和の津波、チリ地震津波が来た地域で、小学校の頃から避難訓練は地震と津波のセットで行われていました。それと、2日前にも地震がありましたよね。その地震でも1mくらいの、船がひっくり返りそうな津波が来たと聞いていたので、間違いないなと。5、6mくらいのは間違いなく来るなと直感しました。ですが、15、6mを超える津波が来て自宅が流されるとは思いませんでした。
被害状況についてお聞きしたいのですが、建物は全部流されてしまったということですか?
自宅も納屋も土台を残して全壊流失しました。
ご家族はご無事でしたか?
家族は、それぞれ出勤していて、それぞれの場所で被災しましたが、無事でした。それが何よりでした。みんなそれぞれが流されたと思っていたので。震災発生直後から携帯電話もつながらず、直接、会うまで数日から一週間、安否が確認できないという状況でした。地元に入る情報は悲観的な情報が多く、家族の目撃情報が遠くから歩いて地元に戻った知人から聞いても、具体的な状況がわからず、直接会って、はじめて安心した、あのときの思いは忘れられません。
当時の被害状況から教えていただけますか?
当時は鹿折(ししおり)地区(漁船の共徳丸が打ち上げられた場所)に「ワークショップふれあい(以下、ふれあい)」という新しい事業所が4月1日に開設する予定だったんです。この地区にはパン屋がなかったものですから、じゃあ自分達がってことで、頑張ろうって事になって。もうあとは開店するだけという時に地震があり、津波がきました。気仙沼は火の海になったのですが、火元がふれあいの向かいのプロパンガスだったらしく、このあたりは燃え方が酷かったんです。鎮火しても熱くてすぐには近づけず、建物があった地区に入れたのはしばらくしてからでした。幸いにも利用者さんと職員に犠牲者はいなかったんですが、ご家族が亡くなった方はいました。水も電気もない状態で、心が折れかけていました。
3月11日震災発生時はどんな状況でしたか。
この日は事業拡大のため、新拠点へ引越し作業をしていた日なんですね。午前中から引越しを開始していたので、ほぼ大きな荷物は運び終わったところでした。
その前の年に事業所を立ち上げ、障害者の福祉的就労の現場が無かった地域だったのであっという間に需要が膨らんできました。もう少し事業も町の中心部へ打って出ようと新拠点開設の計画を立てました。ほんとにドアを開けると目の前は海という沿岸部にあった「きらら女川」はこれまで利用者が作業していた場所も、引越し先の新拠点もその日のうちに津波で失いました。
足が悪くなったのは、小さい頃からなんですか?
もともと、小さい頃からですね。もうそれこそ発病したのが1歳かそこらへんくらいで、やっと病気が見つかったのが小学校2年生の時です。SMAって、脊髄性筋萎縮症っていうだんだん筋肉が衰えていくっていう国の難病指定になっている病気なんですよ。20歳ころまでは歩いてたんですけど、一回転んで怪我してから、危ないっていうんで車いすに乗ってからは立てなくなっちゃって。
そうなんですね。3.11当日はどこで何をされていましたか?
デイサービスにいたんです。石巻や矢本、東松島の方が来る障害者のデイサービスなんですよ。自宅から車で5分くらいの所です。住所でいうと東松島の赤井地区。みやぎ東部循環器科っていう病院のすぐ横です。
けっこうそこの津波は1メートルくらい来たんですよ。デイサービスだからバリアフリーになってるんで、低いんですよ。道路と同じ高さなんで。いつも15時になると終わりなんですけど、その時はちょうど卓球バレーやってたんです。ただ、その日は私ちょっとできなかったんで、リラックスモードに入ってたんですよ。「もう少しで帰れるなー」なんて思いながら、ちょっとウトウトして。そうしたら一斉に携帯が鳴り出して、揺れて。
石巻西高の所に老人ホームがあるんですけど、最初はそこに避難しようって話になったんですけど、車を用意したりなんかしてるうちに外から「津波きたよ」って声がして。しようがないから、デイサービスの所長が東部循環器科の方に走って行って「避難してもいいか」って言うのを聞いてきて。そこから東部循環器科に全員避難したんです。30~40人くらいですかね。避難の前からそこの駐車場に津波が来てるんですよ。道路に波が来て、そこを職員が一人ひとり運んで、東部循環器科の建物の中に入れて。少し建物自体が高くなっているので、車いすも10台くらいあるのを全部運んで、歩ける人は歩くっていう感じで。
車いすは持ち上げて運んだんですか?
そうですね、3、4人くらいで水の上まで。人を載せたまま。
その時の津波の高さはどれくらいだったんですか?
まださらっと、職員の靴がちょっと浸かるくらいです。何も来てなければ車いすでも行けたんですけど、水も増えてきていたんで。
時間はどのくらいだったか覚えていますか。
石巻の方って、けっこう遅かったんですよね。定川(じょうかわ)っていう45号線沿いの川が決壊して、その水が来たんですね。15時過ぎくらいかなぁ。
その間職員さんが避難をどこにしようかという話し合いがあったんですね。
あっという間ですからね。情報を得るっていう手段もほとんど無かったんで。
その時点でラジオなどは聞けていましたか?
ラジオは無かったですけど、その時はまだ携帯電話が使えていたんで、震度いくらとか、大津波警報が出されたとか、福島で7メートルっていうのは私覚えてるんですよ。ただ、宮城県沖がどうのこうのっていうのは全然わかんなかったですね。
情報収集は基本的には携帯電話ですかね。
でしたね。ただ、職員の人が車のラジオを聞いてたかもしれないですけど、どっちかというともうみんなパニックになってたんで。倒れる人なんかはいなかったんですけどね。本当は私なんて通常は外に出る時はベルトしてるんですよ、体支えるのに。ちょっと揺れたってバタンと倒れちゃうので。その時はリラックスモードに入ってたからやってなかったから、自分の体を支えるのが精いっぱいだったんですよ。そしたら後から聞いたら「飛川さんのことは職員さんが支えてたんだよ、後ろで」って。だから何とかなったんだって気づきました。
すごい揺れでしたもんね。
すごい揺れだったですね、もし一人でいたら完全に倒れてたでしょうね。
地震が起きた瞬間、ご自身は津波のことについて直感されましたか。
津波…何日か前の地震でも津波がありましたよね、だから「あんなもんだろうな」っていうのはありましたけど。「ここまでは来ないだろうな」って。海がまず見えないんで。地図で見ると直線で1キロも無いんですけどね、海からは。ただ、異常な揺れだったんで「何かはあるよな」とは思いましたけど「津波はここまで絶対来ないよな」っていうのはありましたね。
過去に津波の経験がある地域なんですか、この辺りは。
ないですね、うちのおふくろの実家がここからすぐ近くなんですけど、それこそチリ地震津波だってこっちまで来ないし。石巻って津波って本当に川の近く、北上川の周りとか。そういう所ならあるってくらいは聞いてましたけど。市場でもカゴとかが流されるっていう感じしか想像してませんからね。
やはり内陸ではイメージしにくいところですよね。
そうですね。全く津波ってなかったですね、私の頭の中では。すぐそこのデイサービスも川がすぐ横なんですけどね。
その川から水が来たと言うのは、最初にその川に津波が来てたんでしょうね。
そして私たちが東部循環器科にみんな避難して1階にいたんですよ。でも私らが避難したその待合室がガラス張りで、外が見えてたんです。そしたら45号線を水が流れて車も木も流れてっていうのを見てたんですよ。「ここ危ないんじゃない?」ってなって、2階に移ることになったんですが、エレベーターが停電でもう動かないんですよ。それで一人ひとり担架で運ばれて、歩けない人は2階まで上げてもらいました。で、1室借りてビニールシートを引いてみんな寝てるっていう状態で。毛布とかはいっぱいあったんで、一人ひとりに掛けてもらって。暖房は何も無くて。でしたけど、私はあんまり寒いって気はしなかったんですよね。結構狭いところにぎゅうぎゅうに詰められてたんで。下が床で硬いからあちこちで「あー痛い」なんて聞こえてましたけど、それどころじゃないよなっていう感じでした。
病院も停電していたんですか?
してましたね。おそらく人口呼吸器の方のための補助電源なんかはあったんでしょうけど。
東部循環器科には避難されて、何日間かいらしたんですか?
いや、その一晩だけですね。結局、次の日からすぐに病院を使うってことで。やっぱり相当数の患者さんが来るだろうということで、朝明るくなってから移動することになりました。夜のうちに、職員が車を何台か津波が来ないところに持って行ったみたいなんですよ。いざというときの為に。2台くらい残ってたのかな。その車で、最初に行く予定だった老人ホームに行ったんですけど、そこに着くまでがいつもの道路が走れないんで、瓦礫をかき分けていくような感じで。丸太がすごかったからね。線路の上まで。近くの貯木場の木が流れてきて。
船も流れてきているし、デイサービスには車が1台突き刺さってました。
どれくらいの高さの津波がきたんですか。
聞いた話だと、デイサービスの方で1mくらいは津波が上がったそうです。立ってる人なら上半身は出てたでしょうけど、車いすの人はもう駄目だったでしょうね。
老人ホームに到着してからのことを教えてください。
老人ホームの方に着いたものの、朝の時点で携帯がつながらなくなっていて、自宅がどうなっているかもわかりませんでした。震災当日の朝、角田に勤めている弟がいつもは電車通勤なのがたまたま車で出勤していたんです。金曜日で遅くなるかもしれなからということで。で、地震直後に角田を出たけども、帰ってきたのが12日の朝でした。一度家に寄って、病院まで上着や飲み薬を老人ホームまで持ってきてくれました。矢本の石巻西高近くで「ここから先は車が入れない」と言われて、車を置いて、そこから水の中を歩いて家まできたんです。
ちなみにお母様は当日どちらに。
最初、私を迎えにくるとこだったんですよ。だけど「津波がきた」っていうので車で引き返して、近所に津波が来たことを叫びながら家まで戻ってきて、近所のある一軒の家にみんなでまとまって避難してたんですよ。