順番が前後しますが、地震の直後に感じた脅威というか、心配事はどのようなものでしたか?
連絡が取れないっていうのが、一番困ったことでしたね。たまたまご家族に大きな被害がなく、翌日には全員引き渡しができましたが、もしかしたら、建物が倒壊したり怪我されたり、最悪お亡くなりになったりとか、後から思うとすごくそういうこともあり得る状況で、そうなったときに連絡取れない、でも利用者さんは一緒にいるっていうので、そこから先の対応というので考える部分はありましたね。とにかく一緒にいるしかないとは思うんですけど。情報が入ってこない、連絡が取れない恐怖っていうのはありましたね。
当時の情報取得手段というと、携帯とラジオですかね。
そうですね、ただ携帯電話は連絡用で使っていたため、充電も切れちゃって、充電する手段もなくなって、近くの公衆電話も長蛇の列でした。
それ以外のがけ崩れや道路の陥没、火災とか、そういった心配はありませんでしたか?
そうですね、そういったものはあまり考えなかったという感じですかね。まぁ、どこがどうなっているか本当に情報として何もわからなかったので。行き当たりばったりじゃないですけど、自分たちが自宅に帰る時も、その場で判断してルートや対応を決めて。
本部を立てて、対応や情報を収集して時系列で対応したことを書いていったりはしていたんですけど、結局スタッフがちりぢりになっちゃうと携帯もつながらないんで、そこでのやり取りはその場での判断になる部分も多くあったので、すごく責任を感じるという、そういう怖さもありましたね。
誰しもあんな災害初めてですから、やることなすこと全部初めてですからね。でも避難に関しては、訓練の成果が出たというところですかね。
そうですね。
法人全体として、避難訓練は年6回というのが定められているんですか?
各施設によって違いますね。年3回のところもあれば6回のところもあって。
当時の施設長さんが防災意識の高い方だったとか?
後は施設の状況や利用者の障害の程度に合わせてという感じで。防火管理者を設けて、避難訓練の計画を立てて…という決まりもあるので、それに則って計画を立てたんだと思います。
こぶしさんで防災グッズなどの備えはありましたか?
地震に備えてということで、防災ずきんはありました。避難訓練の時にはそれをかぶって避難するということをしていました。さすがにかぶってから避難とまではいきませんでしたが、駐車場に移動する前に職員が全員分の防災ずきんを持って、みなさんにかぶっていただいていました。あとはラジオだとか、必要になるものは、避難訓練の時に持ち出すものだとかもあったので、それに沿ってということですね。
利用者さんがパニックになるということもよく聞きましたが、割と皆さん冷静だったんですね。避難訓練は今も2カ月に1回くらいのペースで続いていますか?
今は年に3回ですね。火災・地震・総合と1回ずつやっています。
現在も乾パンやタオルのような備えはありますか?
備蓄品という形で、備蓄水やアルファ米、ガスコンロ・ガスボンベなど、一通りそろっています。あとは、電力の問題があるので、ソーラーでの蓄電ができるシステムを入れました。全館分を賄うことはできないけど、事務室コンセント分とか、照明分とか、最低限の電力を確保している感じです。3日間はそれで一部分だけでも稼働できる体制になっています。
震災時に備えていたものの中で、これのおかげで助かったというものはなんでしょうか?
防寒のためのものが役立ちましたね。まさかあんなに雪が降るとは思わなかったんですけど、でもいつ起きるかわからないと思うと、準備がいりますね。食べ物は緊張で意外と空腹にならなかったし、ある程度は我慢もできるので。寒さはそうはいきませんからね。
今まで2年近く取材をしてきた中で、ここまで事前に準備ができていたパターンはなかったですね。当時の記録がきちんとまとまっているというのは、ほとんど見たことがないですね。
こちらには備蓄品のリストなどもあります。
これらのリストや対応記録などは、のちに職員さんで振り返ってまとめたんですか?
本部にまとめて報告を上げなければいけなかったので、当時の施設長や主任が情報をまとめました。当時の職員が研修事業としてまとめた資料もありますので、ご覧ください。
避難が完了して、以前の事業所が使えなくなったので、拠点を転々としながら、1か月は利用者さんに自宅待機をしてもらってその間に活動できる拠点を調整した記録なんかも載っていると思います。市民センターやコミュニティセンター、仙台市にも掛け合って、そこで許可いただいた場所に集まって日中活動できる場所を開けましょうというところで各ご家庭にもサービス再開のお知らせなどをしていました。仮の場所なので、数か月後には立ち退かないといけないところもあって、その間に八木山市民センターをお借りして、そこを改築してそこに1年半くらい。そして、その間に今の場所の用地を仙台市からお借りして、建物を建てて、こちらに引っ越して、という状況でした。久しぶりにこれを見ると…懐かしいな(笑)
資料の中に「BCPの策定」というのが見えたんですが、こちらも震災前からやってらしたんですか?
いや、これは震災後ですね。事業継続計画ということで、震災もあって、ここを休所なく利用していただくためにということと、福祉避難所としても他の地域の方を受け入れてっていうケースもあるので、そこも含めてできるようにっていうので各施設でやっているところですね。現在の常務理事にこれらの内容に明るい者がおりまして、施設ごとに準備をしています。
もし今後同じようなことがあった際に、これは必要だと思うものはありますか?
一番はやはり通信だったので、震災時でもつながる手段は強化しておいた方がいいと思いますね。また、何をするにも電力が必要になるので、そちらの準備も。あとすごく困ったのは、ガソリンとかですよね。電力・燃料というのすごく困ったので。例えばガソリンとかも、ストックしておけるものがあって、震災時にも優先して受けられるものを法人として契約しているガソリン業者もあります。
それは震災などをにらんでの準備ということですね。
そうですね。
それはBCPに入っているんですか。
いや、これは周辺環境・周辺地域の資源のピックアップといったところでしょうかね。
後は、張り紙をして掲示をしたもの、それに気づかない、分からないということがあったので、必ずここをチェックしてくださいというようなものの周知を徹底していく必要があると思いますね。あと、こぶしでやっているのが、震災時の対応の時にここで基本的に待つか、ご家庭が迎えに来るか、迎えに来るが難しいので、こぶしの体制が整えばご自宅に送ってほしいか、各ご家庭と確認をしていて、同じ書面をご家庭とこぶしで一部ずつ保管して、基本的には何か大災害があったときに書面をもとに行動を決めるという風にはしています。毎年の面談時に、内容の更新確認をしています。