津波

施設の全壊と大規模半壊

さくらんぼは全壊したんです。悲惨でした。ある日突然ですから。特養・桜花は大規模半壊といっても全壊と変わりませんでした。建物が残っているだけで電気系統は水没でダメになり、車が何台も建物に突っ込み全く使い物になりませんでした。だけど被害は大規模半壊です。使用できない建物=全壊ではないのです。

当時老人介護施設の方も平成22年7月にオープンしたばかりで、3.11で特養(特別養護老人施設・桜花)が被災し、解体期限が迫り2012年6月には取り壊されました。障害者のグループホームは2箇所被災して廃止しました。
障害者自立支援施設のさくらんぼと、特別養護老人施設の桜花は二つともあまり離れてなかったんで一緒に避難したんです。

避難と救助2

 我々は砂押川沿いに避難したのだけれど、川から離れて避難してたら逆に津波に飲まれていたかもしれない。あの震災ではセオリー(理論)は役に立たなかった。「川から離れろ」という指示通りにしていたら、もしかしたら自分もこの世にいなかったかもしれないだろうなって思って。本当に右か左かが運命を分けた気がします。

津波の爪痕

利用者さんの家が津波被害にあった人は特になかったですね。その為仮設に入った人も居なかったです。
ほんと、施設だけがやられちゃったっていう。尚更、さくらんぼが早く復活してほしいっていう思いが強かったんですね。引きこもりとかもなくみんな元気にきてくれたんです。

反対に施設の被害状況は深刻で…職員の自宅が津波の被害にあったり、職員の車が流されちゃって家の中に突っ込んでたり、さくらんぼは基礎ごと2~3m流され、地中で電気とか水道管とかが断裂し全部だめになってました。どうしようかと…。

津波への意識

地震が収まった後の行動は?津波の危険性の認識は?

 津波への危険性は考えていました。しかし、認識していたものの、確実で安全な避難先などの検討に甘さがありました。
津波の危険性は予期していました。

では、すぐ避難の指示に?

 はい。そうですね。

利用者さんも、日々の訓練の賜物で指示に従ってくれて避難行動に移られた?

 そうですね。そこまではスムーズにできました。

避難場所の決定について

避難場所は小学校とのことでしたが、それは、津波とかの際にはそこに行くって決まりがあったのですか?

はい。ひとまず町内の荒浜小学校に避難しました。
震災前から工房として、避難先は、町内の指定避難所とは、決めていました。しかし津波の危険性もわかっていたので、それを考慮しての確実な避難場所はあの当時まだ検討段階でした。
荒浜の地形や津波避難に対する見解を防災に長けている方とお話したこともあり、この地域の構造上、津波が川のように押し寄せる可能性があると聞いていて。
実際、海水浴場から一本道の先の真正面にガソリンスタンドがあるんですけど、そこで津波や流れた建物などはぶつかりました。
そこでガレキがスタンドに留まり、追い打ちをかけるように次の津波が来て、波の方向が変わったと聞きます。それで、私たちの事業所がある新町2丁目のほうに波が分かれたわけですよね。
それもあってか、私たちがいた事業所の建物は津波で持っていかれてまったく何もないのかなと思うんです。ちょっと波からそれたところは家が残ってたりするんですけど。
どういう風に避難するかは、検討してましたが、津波の通り道になるであろう荒浜小学校への避難は、あの当時まだ検討段階でした。津波から逃れるために具体的にどこに避難するかまでは最終決定に至っていませんでした。

避難行動の中で

最初の避難場所までの移動は徒歩ですか?

徒歩と、車も平行して。

避難行動中の動きはどうでしたか?

工房の近くにコミュニティセンターがあったんです。その後ろに公園がありました。
公園のような広いところ、何もないところに行ったほうが安全じゃないかっていう情報も、移動避難する中、聞こえてきました。
公園に避難している方もいました。あの位の揺れだったら、建物がなくて倒れるものが何もないところの方が、安全な気がしますよね。
あの時もし、地震の発生が工房からの帰宅時間だったら、利用者さんの自己判断で公園を選ぶ危険性がありました。
個々の判断にゆだねたら、もしこっちおいでって言われたら、付いていくこともあったのではと、今考えると怖いですね。

避難時の利用者さんは何名でしたか?

当日、利用者さんは7人いました。一緒に避難したのは6人。1人は、レクリエーションで早く終わったこともあって、地震発生前に先に帰っていました。私たちは工房にいた利用者さんと一緒に避難しました。

そのあと、津波は何分くらいで来ましたか?

私たちはその後、荒浜小学校ではなく内陸の小学校に逃げたので、津波自体は見ていません。

その内陸の小学校へ逃げるという判断も、ここもまずいんじゃないかってことからですか?

そうですね。ラジオから聞いた津波の高さの情報が、あの時、時間と共に変わっていったので。
荒浜小学校に行って混乱していたのもあって。車で敷地内に入れなかったこともあり、また、小学校の周辺も渋滞していました。そういうこともあり、一旦、小学校の近くのコンビニに避難したんです。
交通量の多い県道も近くにあり、渋滞していたし、その人たちが避難する場所となれば荒浜小学校しかないと思いました。そういう流動性のある県道を走るドライバーの人達も校舎入りきれるのかなって、心配になり、一旦私たちは近くのコンビニに待機しました。
コンビニ前は県道で、目の前で渋滞も見てますし。避難場所の再検討を始めたんです。
その時に、ラジオの情報が変わって、「10メートルの津波が来る」と。10メートルだと、3,4階しか、安全な場所って確保できないですよね。なので、このままここにいるのは危険だなと判断しました。
荒浜から4キロ先に七郷小学校があるんです。そこが、数年前、工事をしていたのを思い出しました。耐震工事をしてたということで。そうしたことも含めて安全を考えて、避難先を七郷小学校に変えました。

津波が来るまで

 すごい揺れで、これまで防災教育を受けてきたこともあるので、津波が来るというのはすぐ思ったんですけど、まさかのまさかですよね。
 3月2日に、大規模災害を想定した、災害ボランティアセンターを立ち上げる訓練をしたばっかりだったので、ここにいれば雨風もしのげるし、ご飯もあるし、泊まっても2日3日かなと感覚でした。ここにいれば大丈夫っていう思い込みをしちゃったんですよね。
 地震の後、「のぞみ」の前にある広めの駐車場のところに、災害対応のために、テントを出し始めた時に、雪が降り始めて。
 「炊き出しもあるだろうし早く組まなきゃね」なんてやり取りしていたら、地域のみなさんもぞろぞろ避難してきたんですよ。

津波の襲来

テントを組み始めてから20分くらい過ぎたと思うんですけど、誰かが「津波だ!!」って言って。海のほうを見たら、電信柱がポキポキ折れていくし土煙があがっていくし。
まだその時点では、ここが避難所だからここまでは来ないよねって思っていて、少し傍観していたんですよね。初めて見る光景だったので愕然としたというか。
でも、様相が変わってきたんですよね。今まで煙だけだったのが海面が見え初めて。火災で燃えてる家は流れてきてるし、ここもやばいぞって直感で思った。
一般の人や車も駐車場に沢山来ていて、「のぞみ」の車ももう出せなくて。とりあえず自分の持ち場なので「のぞみ」に戻ろうとしたら、名指しで、外に避難していたベッドで寝ている方を助けてって指示されて。名指しで指示されるとやらなきゃ!って思うんです。津波が来ているので悩んでいる暇もないので。津波が迫り来るの見ながら、ベッドの方を安全な場所へお連れしようとしていました。
恐怖だったけど、助けなきゃって思いで逃げていたら、さらに弱視のおじいさんも託されて。その方も介助しながらなので、移動がどうしても遅くなってしまう中で、駐車場の裏の山に向かって避難しようとしました。その時には駐車場のほうまで津波があふれかけてる状態でした。
私が津波だって気づいてから15分あるかないかでここまで来て。私は結局津波に飲まれたけどなんとか裏山に流れ着いて。そこから10分弱かそのくらいで波がザーっと引いて助かりました。

「のぞみ」のみんなと合流

裏山付近で救助活動に参加した後、「のぞみ」のことが気になったので、戻ったんです。「のぞみ」に人が残ってないといいなと思って。瓦礫の山だったんですけど、中に入って一部屋ずつ声かけて確認しました。もう誰もいないような状態でした。
その後、裏山にある志津川高校の昇降口に向かったら、ちょうど畠山(のぞみ職員)がいて、状況を聞いて。
「みんなずぶ濡れだけど、生物室にいる」「1人は(のぞみ内で)亡くなっているの確認したんだけど、他の利用者さんや自分たちの命のこともあるのでとりあえず引き揚げてきた」「1人、見つからないんだ」と報告を受けました。
暗くもなってきてるので、とにかく今残った面々をサポートしようという話をして高校の生物室に行きました。
生物室には「のぞみ」の利用者さんと職員と、他の一般の方もいて。30人くらい入れる部屋でした。

津波からの避難

誰かがラジオを点けたので、津波警報が発令されたことに関しては割と早く入ってきましたね。
サイレンが鳴り始めたのでこれはただならぬ雰囲気だということになり、そしてラジオからもそういう情報が入ってきて。ここは沿岸部でもあるし、このままここに居ない方がいいだろうなと。あまり迷いなくすぐに避難しなきゃいけないということで。
避難場所は車で行くと2~3分位の杉の入小学校に行きました。高い所にとにかく上げるということを常に考えているので、斜向かいにあった、坂を登って一段高くなっているスーパーの敷地までまず上がりました。スーパーの屋上から上の道に出れるので、そこを目指してまずは皆をピストンで移動させようということで。
歩ける方は歩いて行ってもらい、歩くのがちょっと遅いと思われる方は車で二往復くらいして、その間、車が渋滞などでもし止まってしまったらすぐ捨てる、だけど動いていれば車の方が早いから、動いてる間に、公用車と一部職員の車を使って全員をまずはスーパーの屋上まで連れて行くことができました。
指示を出した後、私は最後の車に乗るようにして、屋上で落ち合うということで。歩きのメンバーも屋上まで上がってもらって、だったと思います。
30分かからずにそこまでは辿り着き、しばらく「じゃあ、どうしよう…」とはなりましたね。全員が車には乗っていなかったですし、もの凄く寒い日だったわけで、あの日は。これはやはり、どこか屋根・壁がある所に行った方がいいだろうということで。避難場所が杉の入小学校というのは認識しているので。
スーパーからは平らに、300、400メートル位歩くんですが、歩きの方はそのまま歩き、車の方は車で行きました。受け入れてくれるかどうかとか、他の人が避難してるかとかそういうことはよくわからないままにまず杉の入小学校まで行きました。

避難した3日間

海に近かった「織音」の建物は、大きな津波に飲み込まれてしまいます。しかし利用者や職員全員で建物の上階に避難し、みんな無事に乗り切ることができました。

当時、利用者さんは何名いらっしゃったんですか?

熊井さん:利用者は8名くらいです。その中には、支援学校を卒業した男の子が一人、小学校6年生の女の子がお母さんと一緒に遊びに来ていました。その人数で、一週間ビル(以前施設があった)に避難していました。たまたま、スタッフは全員いました。
(揺れが収まってから、)一度違う場所に避難するために車に乗せたところで、一人の利用者がトイレに行きたいと言い出しました。それで、(事業所があった)ビルに戻ることにしました。その時、近くに住んでいたビルのオーナーさんが、うちのトイレを使っていいよって、言ってくださったので、うちのスタッフ数名とその利用者と一緒にオーナーさんのお宅に行きました。
その間に津波が来たので、日曜まで(当時3月11日は金曜日)スタッフたちとその利用者は、オーナーさんのお宅にお世話になっていました。
オーナーさんのお宅は建てたばかりなのに、一階がだめになってしまいました。津波が来る前だったので、スタッフたちは靴を脱いでお宅に入ったため、靴をだめにしてしまいました。

夜は道の駅で

愛さんの自宅は津波で一階が被害に遭いました。

熊井さん:震災後、私と前所長が、愛ちゃんのお宅を家庭訪問しました。私は愛さんがご自宅の二階で寝られているか、心配で聞きました。そうしたら、やはり余震が怖いと言っていました。夜は上品(じょうぼん)の郷という道の駅に言って、自家用車のセダンの中で過ごされていたそうです。
それを聞いて、愛ちゃんたち家族が入れる、福祉避難所(障害者の方、家族が生活された)の部屋を貸してもらえないかと、(他の社会福祉法人)祥心会に交渉しました。そしたら、一つ空いていました。

その当時、車の中でお父さんたちとは、どんな話をしましたか?

愛さん:被災された人たちのこととかです。

熊井さん:お掃除してましたね。

愛さん:はい!

熊井さん:昼間はお家に帰ってきて、お掃除してました。

地震発生

東日本大震災当日、立身さんはどちらにいらっしゃったのですか?

石巻市北上町十三浜の自宅にいました。自宅でマッサージの仕事をしていたので。

 

地震発生時、どのようなことを考えられましたか?

考えたというか、地震の大きさはすごいなと思って。普通とちょっと違うかなと思って。今までは地震があっても仏壇とか棚から物が落ちたことは無かったんですよ。でも、物が落ちる音がして。これは後片付けが大変だなと思いました。外に出ると家がミシミシと音がしているのが分かりました。そんな状況なので、「うわー、これは大変なことだぞ」と思いました。落ち着いた頃、お世話になっていた市の社会福祉協議会(以下、社協)の方が車で来てくれたんですよ。「避難するよ」って。とりあえず、ウィンドブレーカーとか、折りたたみの白杖などを持って、高台にある北上中学校に車で避難しました。

津波、避難

そのとき、津波がくるという意識はありましたか?

ない。全然ない。揺れでびっくりしてたんだよね。やっぱり、後片付けのことで頭がいっぱいなんじゃないですかね、恐らく。避難所で誰かが「家が流されている」と言ってて。「家が流されるってどういうことなの?」と思って。何か変な感覚になってね。そのときはもう津波が来てたんだよね。私には見えないから。偶然、避難が早かったというか、社協の人が来てくれてね。来てくれなかったら多分ここにはいなかったでしょう。

 

立身さんのご自宅は海沿いだったのでしょうか?

十三浜なんですけど、ちょっと海からは離れていたんです。以前からラジオなどで宮城県沖地震は必ず起きるとやっていたし、地震は来るんだろうなと思ってました。しかし、あの辺りは川幅が600mほどで、堤防の高さも約8mあります。なので少々の津波が来ても大丈夫という感覚でした。津波の経験は親の代でもない。しかし、海に近い地域ではそういう経験がある。家が山の中腹にあったり、1階を倉庫にして住まいは2階だったり。手すりがない階段があってね。何でかなと聞いてみたら昔津波にやられたと。家にいた人は波にさらわれたらしい。お年寄りの話ですが。たまたまその人は外出中で助かったと。何が何だか分からなかったと。今回だってそうだよね。

 

同じ沿岸部でも集落によって津波に対する意識は違うんですね。

違う。うちの方はそういう津波の感覚ってのはないと思う。だから犠牲者が多かったんです。

 

立身さんのご自宅は流失はしなかったのでしょうか?

流失はしませんでしたが、一階部分は柱を残して流されました。ガレキが片付いた頃に家に行ってみたんですが、柱があってよく残っていたなと。水で浮いたようなんですけど、ガレキが流失を止めた格好でした。

地震発生

被災当日、松田さんはどちらで何をされていましたか?

鹿折地区にある職場の方にいました。水産関係の会社で働いておりました。全部で5工場くらいがありましたが全部つぶれてしまって、今は規模縮小による統合ということで自分も解雇ということになりました。

 

会社での業務内容はどういったものでしたか?

出荷、包装、組立て等を行っていました。

 

お勤めはどれくらいの年数だったんですか?

長かったです。11年間でした。

 

お住まいは当時気仙沼でしたか?

鹿折の県営住宅に住んでいました。山の上ですね。

 

揺れ始めた14時46分は、ちょっといつもと違うような感じはしたでしょうか?

そうですね。仕事中でしたので、みんなと一緒にまず会社の前の広場に集合して、部長が点呼確認して全員いることがわかって、それが100人くらいいたんですけども、それが終わってから全員で部長の後について避難しました。

 

会社は低い土地にあったんですか?

そうです。目の前の駐車場に停まっていた車が揺れで波打っていました。何だかめまいがするような感じで、テーブルの下に隠れるとか、そういうのも無理で、立ったまま「いつもと違う、おかしい、揺れが強い」と思いました。その時は、津波が来るというふうにはわからなかったので、まあサイレンとかも聞こえませんので。二階の天井が落ちてくるんじゃないか、つぶれてくるんじゃないかっていう不安から、すぐ部屋を出たいと思いました。窓の外では配管が壊れて、水が噴き出ているのが見えました。本当に「あー、どうしよう」と思いましたが、部長に「今外に出てはだめだ、とにかく大事なもの、貴重品を持って、準備しなさい」と言われ、待機していました。その後、避難をしました。建物がつぶれるんじゃないかっていうことだけが心配で、とにかく逃げることができて安心していました。揺れが収まった頃に自宅に戻ろうと思ったのですが、会社の同僚が15時ちょうどくらいに「危ないから戻ってはだめだ。ここで待っていた方がいい」と声を掛けてくれました。私はなんでだろうと思っていました。まだ津波が来るイメージが無かったので。その理由がわかったのが15時30分くらいです。実際の津波を目の前にして「あ、津波が来たからか。だからここにいろって言ったのか」と理解しました。そのあとは同僚と一緒に流れていく津波を眺めていました。大きな船が海の方からすごいスピードで流れてくるのが見えて、どこまで行くんだろうと思いながら見ていました。他にもいろんなものが流れてきて、家がその形のまま流れてきたり、車も流れてきて。「きっと会社も車もダメだろうな」と思って、みんなで足が震えてきて、帰れないっていうことがわかりました。

 

部長さんと皆さんが避難した場所は、高台だったということですね?

そうです。狭い道なので、車は通れません。そこをみんなで歩いて逃げました。会社からだいたい5~10分くらいの距離です。

 

当時の会社では、津波を想定した避難訓練などはありましたか?

いえ、なかったです。

 

では、ここが避難場所だと決まっていたわけではないんですね?

はい、初めて行きました。部長が他の上司とも相談して、あそこの山に逃げようと決めたそうです。その時に食べ物も準備して、リュックに入れていきました。

 

食べ物は何を持ったんですか?

缶詰です。缶詰を作る会社でしたので、それを持っていきました。

 

松田さんのお住まいの地域では、津波を想定した避難訓練はありましたか?

それもなかったです。

 

では、避難のための知識などはあったわけではないんですね?

わからなかったんです、本当に。何も考えてませんでした。今と昔では、地震があってからでは、本当に意識が変わっていると思います。

地震発生

東日本大震災当日、渡辺さんはどちらで何をされていましたか。

揺れが来た時は、夫婦で名取市閖上の自宅に居ました。当時は70歳で定年退職していたので仕事はしていませんでしたので。

 

避難はどのようにされましたか。

当時は避難情報というのが全くなかったし、耳が聞こえないから自分たちだけに情報が無いのかなと思っていたけれど、近隣の健常者の人も分からない状況だったので、実際に避難するのかどうかというのも判断できていませんでした。

 

ご自宅は海からどの位の距離がありましたか。

800メートルくらいですかね。名取市閖上の日和山まで3,4分くらいのところです。

 

津波が来ることは想像していましたか。

考えてなかったです。

生まれも育ちも閖上でしたが、これまでは地震が発生しても津波はありませんでした。親からも津波の話は言われたことが無かったので今回は本当に初めてでした。地域での避難訓練や、地震に関する知識や情報などというのもなかったです。

 

そんな中、どういう状況で危ないと感じて避難しようと思ったのですか。

やはりこれまでの地震とは違って大きかったし、その後も何度も揺れが来たのでもしかしたら津波が来るかもと…。地域の住民はどうしているのか、近くの田んぼの方へ様子を見に行ったりしていました。隣の人にも避難しようよと促したのだけれど、なかなか行動する感じではなかったですね。話をしているうちにも揺れが来ていて、そのうちに近くに住んでいる兄が安否確認に来たのです。避難しているだろうと思いながら念の為と見に来てみたら、まだ私達が家に居たのでビックリしたみたいで、それで津波が来るからすぐに避難するようにと言われて。

地震発生

震災の当日、2時46分に小山さんはどちらにいらっしゃいましたか?

一人で自宅の離れの2階の部屋にいて、テレビを観ていました。そこにあの揺れが来ました。もうハンパない揺れだったので、このまま建物ごと自分もダメになると思いました。

 

やっぱり、いつもの地震とは違うと思いました?

もう一気にガタガタが来たので。身動きが取れない。咄嗟に動いたのが良かったんですけど、5歩も歩けば部屋の入口のドアの壁のあるところに入れたので。そこでの時間は本当に長かったです。

 

2階から1階までの避難というのはどのようにされたんですか?

自宅ですので感覚も慣れています。今より視力がもう少しありましたので、2階から庭に出て行くのはできました。

 

地震の瞬間、津波という意識はありましたか?

はい。私の場合はもともと地域が昭和の津波、チリ地震津波が来た地域で、小学校の頃から避難訓練は地震と津波のセットで行われていました。それと、2日前にも地震がありましたよね。その地震でも1mくらいの、船がひっくり返りそうな津波が来たと聞いていたので、間違いないなと。5、6mくらいのは間違いなく来るなと直感しました。ですが、15、6mを超える津波が来て自宅が流されるとは思いませんでした。

 

 

被害状況についてお聞きしたいのですが、建物は全部流されてしまったということですか?

自宅も納屋も土台を残して全壊流失しました。

 

ご家族はご無事でしたか?

家族は、それぞれ出勤していて、それぞれの場所で被災しましたが、無事でした。それが何よりでした。みんなそれぞれが流されたと思っていたので。震災発生直後から携帯電話もつながらず、直接、会うまで数日から一週間、安否が確認できないという状況でした。地元に入る情報は悲観的な情報が多く、家族の目撃情報が遠くから歩いて地元に戻った知人から聞いても、具体的な状況がわからず、直接会って、はじめて安心した、あのときの思いは忘れられません。

職員の機転

伊藤さんは、被災当日はワークショップひまわり(以下、ひまわり)にいらっしゃったのですか?

はい。

 

避難の際の指揮はどなたがとったのでしょうか?

職員です。ふれあいにも利用者さんがいたので、職員が送迎車に乗せて。ひまわりは絶対に大丈夫だと思ったのでここまで帰ってきて(ひまわりは標高約29mの所にある)。でも、若い職員が多かったので、津波というものは頭になかったんです。警報だといわれてもどれくらいの高さで、命が危険だなんて想像もできなくって。ちょうどずっと海の仕事をされていた事務長さんがいて、その方がこの海は津波がくるといって。それで山側の道を通って帰ろうということになったんです。その時、海側の道から帰ってきたら、きっと送迎車は流されていたと思います。なので、いろんな年齢層の職員がいてバランスが良かったんだと思います。その方のおかげで職員、利用者全員無事にひまわりに帰ってくることができました。

 

地震の揺れはどうでしたか?

今まで経験した事のないような揺れでした。事業所内にあった机やコピー機が走る凶器となりましたね。動くというより走る。利用者さんは泣き叫ぶし、机の下に隠れてと言っても全く動けない状態でした。地震があんなに怖いものとは思ってなくて。置いてあるもの全てが凶器になる。ロッカー、コピー機、机、すべてが走る、動くんじゃなくて走るんですよね。

 

地震直後、ひまわりには利用者さん、職員さんで何名くらいいたのでしょうか?

ここには女子が12名くらい、男子はふれあいの方にいました。職員は私と所長がひまわり、あとはふれあいにいました。

 

ライフラインはいかがでしたか?

地震直後から全てストップしました。

 

情報の取得はどうやって?

車のエンジンをかけてラジオを聴きました。そこである程度の被害状況は分かりました。ですが、ガソリンを大事にしないといけないということで、あまり聞きませんでした。所内にラジオもなく情報というものがなかなか入ってこなかったです。

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