避難した歩道橋から下は屋根くらいまで水深があって降りるに降りれなくて。雪が降り積もり寒くて。消防隊が現場に来たのは17時前だったけど、周囲の被害が酷くて結局救助されたのは夜中の3時半でした。施設に行けたのは13日。行ったら津波の跡がついてて、室内はぐっちゃぐちゃになってました。
事業所前の道路も陥没して、堤防から溢れた水が直撃した感じで。津波が海側からと川側からと同時に来たようでした。
我々は砂押川沿いに避難したのだけれど、川から離れて避難してたら逆に津波に飲まれていたかもしれない。あの震災ではセオリー(理論)は役に立たなかった。「川から離れろ」という指示通りにしていたら、もしかしたら自分もこの世にいなかったかもしれないだろうなって思って。本当に右か左かが運命を分けた気がします。
利用者の様子は、印象としては、今思い返すと私もそうだったんですけど、ピンときていない様な、何が起こったのかわからないような感じっていうのかな。とにかくすごい揺れに驚き、何がどうなっちゃうんだろうという不安はあったと思うんですけど。
泣き叫んで取り乱すような方は全然いらっしゃらなかったですね。いつも避難訓練の時はちょっとへらへらしているような方も、集中して指示を聞いてくれていた覚えがあります。あんなにスムーズにいくものなのかと、いまだに思い返していますね。
危機感が皆あったのだと思います。ただならぬことが起きたということに関しては皆がそう思っていたと思うし。でもその時点で私は津波に関してはまったく・・・本当に来るという風には思えてなかったところがあって。セオリーとして避難はしたけども、でもそれは自分の意識の低さだなといまだに思うのですけど。