地震発生日から利用者さんと10日間いましたね。
校舎内の部屋には入ることができました。偶然にも荒浜近辺の人たちが入っている部屋だったんです。部屋に入り、ひとまず居る場所を決めて座ったら、隣に荒浜の人たちがいました。
不安はあったかと思いますが、一見落ち着いていましたね。理由を聞きましたら、工房で防災訓練をしてたこともありますし、かつ私が防災の勉強ずっとしていたことも利用者さん知っていて、それが少しでも安心感につながったようです。
勉強の1つとして災害ボランティアコーディネーターの講習を受けていました。災害が発生した時に避難所で、ボランティアを受け入れるコーディネーター。コーディネーターは、災害に関しての知識や起こりうるニーズ・避難所運営を知っていないと難しい。受け入れ窓口や避難所等の運営方法とかをロールプレイングして学びました。
例えば、資機材など何もない状況から、被災した家屋や在る物で救助や活動に必要なものを使って、どういう風にこの状況を打開していくか、いかに運営していくか等、学びます。もともと、防災に関して興味があって、数年いろいろ勉強してました。
その学びを震災前から利用者さんに常々伝えていました。そういう蓄積もあり利用者さん自身も、今野が勉強してるから大丈夫だっていう安心があったと思います。
だから、あの時も「今野さん次はなにすればいい?」とよく聞かれました。
本当に勉強していてよかったと実感しています。勉強し備えていた防災用品や家具の固定を徹底していたので、物も一切倒れなかったし、怪我する人もいなかったです。
あの時、誰か一人でも怪我をしていたら、救護する時間で避難が遅れ、津波にのまれていたと思います。また、無事だった人は先に避難させたりすると、何班かに分かれますよね。今回誰一人怪我をすることなく避難できた初動も良かったと思います。備えや学びが生かされた面がありました。
何年も前からずっと宮城県沖地震が起きるというのは周知のことで、もともと、個人的に防災に対する興味があって勉強していました。私たちの仕事は、利用者さんを守らなきゃいけないですし、いつの間にか防災に対する備えを重ねていったんです。
うーん。全部が困ったことでしたね。利用者さん・職員に必要な情報が、受けることも、発信することもできなかったことが困りました。誰とも連絡が取れない孤立状態になっていました。
私たちスタッフは、利用者さんを守る為に色んな情報が必要ですよね。家に安全に帰すためにも。バスが動いてるのかとか。周囲の状況などの情報。あと薬の確保のための情報。そういった情報を得られないと現場で確実な対策が立てられない難しさがありました。
あとは、避難所内でパーソナルスペースが確保できなかったのは利用者さんにとっては大変だったと感じています。
はい。一般の方と同じ部屋で10日間過ごしました。特別な配慮というのは、なかったです。周囲とのトラブルはありませんでした。
そうですね。仲良くさせて頂いていた元町内会長さんがちょうど同じ部屋にいて、おかげで面識のない町内の方とも仲良くさせて頂きました。私たちも積極的に部屋の方にお話していったので、お互いを知ることが出来、トラブルもなくお互いに支えあうことができました。
避難所では学校の先生たちが主に動いていました。私たちは積極的にコミュニケーションを図り、先生方に福祉事業所の職員であること、現状などを話していました。
特にありませんでした。しかし災害時誰もが混乱している状況で、支えてもらうっていう考え方のみでいると、たぶん、上手くいかないんだと思います。災害時は支えてもらう人はみんな避難している全員同じだと思うので。
自分で避難所運営に入っていって、一緒にやるっていうスタンスでないとたぶん避難所で過ごす上で上手くいかないんじゃないかな。
なので、私たちは、七郷小学校に避難した後、すぐに職員室の方にいって、今どうゆう状況か?何か情報は?など情報共有をして自分たちができること、運営のほうに自然と関わっていきました。
利用者さんがとっても立派でした。どうしても、一般の方の感覚だと、障害者は弱い立場だっていう風に平時から思ってる節が残念ながらあるかと思います。
ご本人さんたちも、病気があって生きづらさもあることから、ちょっとこう、身を引いてしまうところがあるんですけど。
あの時は、たぶん誰もが自分も何かやらなきゃいけないなっていう状況を感じていたと思います。
荒浜に「潮音荘」という老人ホームがあり、そこの入居者さんも避難されていて、工房の利用者さんは、その方たちの2階に昇る避難介助もして下さいました。
守られると人って弱くなっちゃうことってあると思います。動ける人は動く。避難所では高齢者が多かったので、利用者さんは歩くのが大変な高齢者のために校舎4階まで食事を運んだり、お掃除をしたりしていました。
あと、グランドで自主的に皆さん火起こしをしていました。赤ちゃんのミルクの為にお湯を沸かすなど。そういった薪割りや火起こしに利用者さんは一緒に行きました。本当に工房の利用者さんはとても立派でした。
私たちもだけど、気持ちが落ち込んだ時など、ネガティブな考えに行きがちだと思います。
災害時のような状況では自分自身動くことにより少しでも何かこう一歩変わっていくことを感じたほうがいいと思うんです。
日中、避難所に残ってる人って、高齢者が多いんです。若い世代は避難所から朝、仕事に行っていました。
そうすると、避難所では残った高齢者が日中手持ち無沙汰になっていることがあって、その中で私たちみたいな福祉事業所だと、利用者さんも若い人もいっぱいいますよね。力仕事だけではなく、若い人がやれる役割・仕事って色々あるんですよ。
例えば、おじいちゃんたちは携帯電話、普段そんなに使わない。でもこういう災害時だと連絡を取るために使わざるを得なくなります。携帯電話の扱いが苦手な高齢者に、利用者さんは使い方を教えるなど、自分の出来得ることをしてくれました。
普段なら何ていう事ないかもしれないけど、災害時家族の安否確認や連絡を取るためには、こういったサポートは助かります。
「どうやるんだべ」「うちの娘っこの連絡先どこに入ってんだ」って質問があったり。携帯の電話帳の開き方を教えたり。電話かかってきてもどこを押せば良いか分かんない。そこを身近にいる私たちが一緒に教えました。ほんとに年配の方には助かったみたいです。
こういう何気ない生活のことは、一般のボランティアや運営で精一杯の学校の先生方にはできないことだと思います。やっぱり身近に毎日同じ部屋で、生活しているからこそお手伝いできることですね。
最終的に3月11日の晩から3月18日の一週間くらい志津川高校にいて。気になったのは、避難所から帰ったあと、「のぞみ」が、集まる場所がないっていう不安から「帰りたくない」って言った方々がいたんです。「今度いつ会えるの?」って言った方々もいて、それが印象的でした。親御さんからもそういう話があって。
思いがけず、震災を期にいきなり団体行動になったんですよね。泊まりも含めて。長い方で一次避難の期間が一週間。
その場にいる時は、気心の知れたメンバーだから、安心感はあったわけですよ。
我々職員がいなくなって解散した後に、それからが大変だったって言うご家族もいらっしゃいました。
解散して、一緒に生活していたのが一旦おしまいになってしまったから、避難所を我々が行くと、一瞬明るくなるわけですよ。知った顔だから。
「あ~森さん来た!」とか「畠山さん来た!」って明るくなるんですけど、我々が離れるとまた現実に引き戻されて、落ちてしまっていたそうです。
最初の段階で言われた家族もいれば、何回か訪ねた中で言われた家族もいますけど「いつ再開されるんでしょうか?」っていうのはずっと言われていました。
我々は個々に、日にちは違えど会いに行ってるから、ほぼ全員に会っているんですけど、利用者さん自身はその滞在しているところにしかいないので、他の方が元気なのかどうかがわからないですからね。
多田さん:自分は震災時、(石巻)駅前の障害者相談所にいたんですけども。震災後、仕事で回ってるときに、あるご家庭に行ったんです。一階はもう(津波被害で)何もなくて、二階で重心(重度心身障害)の方が、生活してたんですよね。
それで、その方の親御さんと話した時、(発災時)最初、学校が近くにあるから避難したらしいんです。でも、その日の夜に(避難所に)居れなくなって、車の中でずっと過ごしてたそうなんです。重心の子なので、夜、(症状が出て)騒いだりしたことで、周りからの心無い言葉もあったみたいですよ。でも車の中だけじゃ厳しいとなって、一回家に戻ったそうなんです。そうしたら、下はだめだけど、二階に何とか上がれたから二階に上がったんだそうです。そういう話を聞いて、やっぱり人間は、ある程度のつらい状況下になると、この方は障害持ってるから大変だよねっていうよりもまず、うるさくて寝れねんだって言ってしまうのかな。
かよ子さん:そう、自分になってしまうのね。
多田さん:知らないって怖いって。ほんとにそういう意味なんだなって。
安子さん:でも、ほとんどがこれだと思うよね。
多田さん:だから、避難所に行けなかったっていう人がほんとにいっぱいいた。
かよ子さん:だから、そうやって非難されたり、何かわからない視線とか、何かわからない空気感で、その場(避難所など)にいられなくて、車に居ましたとか、家、いつ倒壊するかわからないけど、そこにしか居られないんですっていうのは、ほんっとにね、キツイだろうなー。
利用者の様子は、印象としては、今思い返すと私もそうだったんですけど、ピンときていない様な、何が起こったのかわからないような感じっていうのかな。とにかくすごい揺れに驚き、何がどうなっちゃうんだろうという不安はあったと思うんですけど。
泣き叫んで取り乱すような方は全然いらっしゃらなかったですね。いつも避難訓練の時はちょっとへらへらしているような方も、集中して指示を聞いてくれていた覚えがあります。あんなにスムーズにいくものなのかと、いまだに思い返していますね。
危機感が皆あったのだと思います。ただならぬことが起きたということに関しては皆がそう思っていたと思うし。でもその時点で私は津波に関してはまったく・・・本当に来るという風には思えてなかったところがあって。セオリーとして避難はしたけども、でもそれは自分の意識の低さだなといまだに思うのですけど。
親御さんやご家族とも連絡の取れないような状況の中で、一軒一軒、繋がるような所にはお電話をしていったんです。
杉の入小学校には一台だけ公衆電話があって。ピンク色の。最初の頃はそちらには規制がかかってなかったので使えたんですね。10円玉を持って皆並んでいて。我々も順番に並んで、たくさんかけると迷惑だから2,3軒づつかけて、終わったらまた並んでというようなことをしてたような覚えがありますね、その日の夕方から。
当然、なかなか連絡がつかない相手もおれられました。繋がるところ繋がらないところ色々でしたね。でも、杉の入小学校に逃げているだろうという想定で迎えに来てくださる親御さんがいたり、他を探しながら杉の入小学校に辿りついた方もいたり、保護者に引き渡せる方はその日の晩から引渡していきました。
藻塩の里も一緒に逃げていたので、藻塩の里は単身で暮らしている方も何人かおられて、そういう方に関してはその方の生活力に応じてもう少し一緒に居た方がいいんじゃないかという方もいましたね。
ご家族と連絡が取れるまでは帰さずに一緒に居ましょうということで。自宅がどうなっているかわからない中、個別にその確認までをできるような状況ではなかったので。本人達も不安だから一緒に居たいってこともあったと思います。我々が送って行ったり自宅の確認までするというところは、その日の晩にはしませんでした。
まったく状況がわからなかったこともあり、電気もない中で情報もなくなってしまって。車でラジオをずっと聴いていれば多少はあったのでしょうが私も混乱していたのか、そういう情報を取る手段が何かはあったんだろうに、動けなかったというのが正直なところありましたね。
でも伝え聞いてくる話で、津波が来たらしいとか、さくら学園はどうなったんだろうとか、次の日になったらその辺も確認したいので、国道の様子がわかるところまで職員に行ってもらって。その辺りはどうなのかと聞くと、水が溜まっていると。完全に水浸しだったんですね。当時は。
まだ腰高まであるからとか、段々水位が下がってきて膝位とか、長靴なら行けそうだというところで二日目か三日目には施設に入って被害の状況の確認をしました。
仕事をさせて頂いているさくら学園のグループの一つである事業所では、水が引くまで出ることが出来なくなっていました。幸い、社屋の二階に避難することができたため皆無事ではありましたが、自衛隊の救助の後我々と合流できたのは数日が経過してからでした。その辺りがはっきりわかるようになるまで、気が気じゃなかったですけど…。
おいそれと立ち入りできない、規制もかかっている中ではどうすることもできないまま、何人かは杉の入小学校からご自宅に戻せる方がでてきましたね。最初は30人位、利用者さんは居たと思うんです。藻塩の里と合わせると40位は居たかもしれない。
それが段々減っていって、最終的に10日後位までは20人。
我々はグループホームの事業もしており、そこのメンバー達も一緒に居たんです。ホームが全部津波にやられてしまった訳ではなかったものの、ライフラインもなく、分散すると職員の配置がつかない状況だったので分散をするとかえって今はまずいだろうと。手の回し様が無くなってしまうので。避難所に一緒に居て、そこで何人かの職員が見守りとかしながらでしたね。
利用者さんはある意味互いに気を遣いあって、我慢をしていた方も沢山居られたと思います。
不便な生活が続くせいでちょっとピリピリするということもありましたしね。何もやることがないと悶々と内にこもってしまうので。
そんな中、トイレの水がなかったので学校のプールからバケツリレーで水を汲み置いて、皆用を足したら流すというサイクルを、避難所の中で作り始めました。そして、そのバケツリレーに参加して身体も動かして。掃除する場所を決め、自分達のフロアの掃除を役割分担的にやらせてもらおうと思ったんです。
避難所でもすごく配慮してくれていました。例えば要介護状態の方でなければ基本は体育館のところ、我々は体育館に一泊したあとに別の部屋の方がいいよねという風に言って頂き、教室を一つ空けて頂いて。そこに40人位大人が寝れば足の踏み場もないのだけれど、でもやはり我々としては気持ちも楽でしたよね。周りの方へ気を遣わなければならない部分が増えると我々も追い詰められてしまうので・・・それは本当にありがたいことでしたね。助かりました。
困ったことだらけではありましたが我々だけがそれを言っても仕方がないというのもありましたし、皆それは言わずに我慢していましたね。
むしろ振り返ると色々ご配慮頂いたことや、感謝のこととかのほうが浮かんでくる。
ちょうど塩釜は港に近く海産物の加工場が近くに沢山あったおかげで、冷蔵庫に入っていたものを避難所の食料として出してもらえたんですよね。
被害の程度の地域性というか、多賀城では、聞くとほんとに食料が少なくてひもじい思いをしたみたいですけど、我々はもちろん満腹という訳ではないですけど、そういう面でもすごく結果的に恵まれていたなと思います。
ただ避難先は学校なので、いつまでも被災者が体育館に居ると学校も困る訳ですね。最終的に我々も引き上げる決断をしたことの一つに、いつごろ出て行けるかという問い合わせが入り始めた他、運営側の問題もあったんですね。
やはり学校なので子供達のために空けなければいけないというのも当然だとも思いますし、新学期が近づいてきたりして。あの当時まだ小学校は卒業式をしていなかったですしね。そう言われればやはり、子供達の卒業式がなかったというような残念なこともないだろうから、なんとかして早く出なきゃねと。
でも本当に助けられたことしか思い出せないので、ありがたかったなぁって思います。
柳橋さん:うちの「ひたかみ園」という入所施設がある場所は、近くに川と繋がっている大きな堀があります。その堀より土手を越えて水(遡上してきた津波)が溢れたんですが、奇跡的に施設周辺だけ津波の被害が無かったのです。
それで、海側の津波の被害がひどかった所から、自衛隊のヘリコプターが吊り上げて救助された方々がいました。その方々を無事な大きい建物があるということで、「ひたかみ園」に集めたんですね。入所施設なので、避難所を運営するつもりはなかったんですが。
「ひたかみ園」の職員や利用者はすでに内陸に逃げていたので、その時は施設に誰も居なかったんです。それで波が引いて戻ってみたら、「誰か住んでる!?」という状態だったんです。それが避難所の始まりです。
ただ、その中で一般の被災者と、障害を抱えた被災者とでは求める支援の内容も違うし、一緒にいる事に互いがしんどさを感じてしまう事から、別々の避難所生活を送ってもらう事にしました。一般の方には申し訳なかったんですが、入所施設内の違う建物の方に移っていただきました。一般の方の滞在期間は1ヶ月2ヶ月くらいかな。違う地域の避難所に移るまでは、ここでどうぞという形で。(避難所になってから)4日目、5日目くらいにはそういう分け方をしていたと思います。
柳橋さん:地域の方々は、最初は2,30人くらいだったと思います。小さい子なんかも含めると。
障害を持つ方は最初は少しだけでした。ですがやはり、(一般の方もいる、学校などの)各避難所でも色々な問題が起きてきていたという話がありました。
それでうちの法人が、バスで(地域の)一般の避難所をそれぞれ回って、うちでこういう避難所をやっているので、「よかったら移動しませんか?」っていう声がけをさせていただいたんです。それから、「ひたかみ園」の避難所にじわじわと集まってもらったという感じですね。
最初の1週間くらいには、近くの大きな病院さんも、もういっぱいの状態で。身元がわからないとか、うまくお話が出来ない人とか、怪我をしたけど治療が終わっていても帰る事が出来ない方々は、結局看護師さんが見れないので、私達の避難所の方に移送されては来ていましたね。
避難所を開始してからの数日は、お名前が分からないんだけども、「一般の方ではないようなので」という理由だったり、痴呆を抱えた方々とか。意思疎通の出来ない、でも、「医療行為はあまり必要ないよ」という方々が集まってきて、ただ夢中で皆さんのお世話をさせて頂きました。
柳橋さん:その数を今は把握していませんが、ご本人だけ、というのは少なかったと思います(ご家族で移動された方が多かった)。多分数名はいたんですが、結局、お家も家族も被災されているので、さみしい思いをされている方も多かったように思います。
入所施設なので、お部屋は6畳でした。通常、入所の時は2人1部屋で利用者さんが使っていたんですが、そこを各家庭に、一世帯ずつに分けて入っていただきました。
3月11日に地震があってから、避難所で共に過ごす中で、被災された皆さんの新しい今後の問題が出てきました。ほとんどの皆さんは、お家もない状態でした。そこで、日本財団さんや各関係各所にご協力いただいて、小国(石巻市内の地名)のところに仮設住宅(福祉仮設)を建てて、被災した方々が次の事を考える場所を法人として提供させて頂きました。
これらの事を、法人内のスタッフだけで支援をさせて頂くのは難しく、避難所には多くのボランティアの方々が関わってくださいました。その方々の長い支えもあって、避難所を続ける事ができました。 1ヶ月2ヶ月経ってくると、ラーメン屋さんだったり、ケーキを持ってきてくれるなどの支援をしてくれるボランティアの方々がありました。なかでも、(福祉)施設でケーキを作っているという事業所が、わざわざ愛知・新潟・からケーキを持って来てくれたことがありました。本当に遠くから色んな方々にお世話になりました。
柳橋さん:個人的には、私はこれまで認知症のひどい高齢者の方にお会いしたことがなかったんです。
お年寄りの利用者さんで、暴言を吐かれるなどの話を実際に聞いてはいましたが、体感したことがなかったので(目の当たりにして)びっくりしました。
けれど(避難所に来た)ボランティアの中には、そういう介護が上手な方がいらっしゃったんです。色々お手伝いして頂いたり、教えて頂きました。私には、とても勉強になる事ばかりでした。
最終的に、身寄りのないお年寄りの方達も何人かは家族が見つかったんですけど。結局、現状では面倒をみる事が難しいという理由から、県外の老人ホームにご家族と移られた方々がいらっしゃいました。中でも、「誰も居なくて…」って言って、スタッフをずっと頼ってくれたおばあちゃんと別れるときはちょっと辛かったですけどね。
その他、被災された方々が他の避難所と様子を比べられるというか、「なんであっちにはちゃんとご飯出てるのにここは来ない」のとかを言われることがあって。
確かに、正式に元々避難所指定を受けたところではないので、認知されて自衛隊が確実に、定期的に支援に来るまでには時間がかかったんですね。
避難所になった「ひたかみ園」にあった材料とか、法人内の物をそこに運んで食べていただいてたのですが、一般の方が時々違う避難所に行って色んな情報を聞くと「なんでここの避難所は○○なの?」等の意見を聞くと、悲しい気持ちになった事を覚えています。
その時にできる最前の事はさせて頂いていたという気持ちがあっただけに、互いの気持ちが理解しあえない、今の環境が震災の被害という事がこんな所にも表れてくるのだと
自分の気持ちも踏まえ、災害の辛さを感じました。
一般の方々はそのような中でしたが、利用者さん方はご家族と一緒だったのであまり不安になることもなく過ごしていたように思います。
そんな感じで北上中学校に3日間、社協の建物に2日間、市内に住む甥の家に2週間避難してましたね。社協はうちの集落の山裾にあるんで。目の前まで水は来ましたが、建物は無事だったので。
ご自宅から北上中学校まではどれ位の距離なんでしょうか?
2キロから3キロくらいですかね。
北上中学校はもともと避難所として指定されていたんでしょうか?
はっきりと避難所として指定されていたかは分かりませんが、宮城県沖地震がいつか起きると言われ続けていたんで、避難所という意識はあったと思いますよ。広いし、車で避難しやすいし、建物もあるし。
立身さんは何かあったら北上中学校に避難しようと思っていたのですか?
思ってないです。そもそも津波という頭がないから。
北上中学校には飲み物や食べ物はありましたか?
近くの温泉の方が炊き出しに来まして、一口大のおにぎりとか、ウィンナーとか、卵とかが配られました。贅沢が言える状況ではなかったです。
立身さん以外に障害をお持ちの方はいらっしゃいましたか?
そこでは私だけだと思います。名乗らないだけでいたのかも知れませんが。周りの方からは常に声を掛けてもらってました。
避難所で困ったことはありましたか?
困ったと言っちゃいけないんだろうけど。例えば、トイレはバケツに水を汲んでおいてそれで流すんだけど、自分は感覚でできるから正直苦にならない。でも、周りの人は気を遣ってやってくれるのね。嬉しいんだけど、感覚で生きているもんだからひとつズレると、いろんなものがズレちゃう。そうなるとトイレに行きにくくなってくる。
それは、周りの人が気を遣ってくれるのがかえって申し訳ないなと?
そうそう。そうなってしまう。ひとりなら何とか流したりというのはできる。でも、そういう問題じゃないんだなと思って。何か変な意味で気遣ったのかなと。
遠慮でしょうかね。
そこから社協の建物に移動して。カップラーメンとか物資がいろいろ届くから。そこで感じたのは、同じ集落の仲間の中で視覚障害者は自分だけなんです。次の日から捜索やら何やらやるじゃないですか。動けないのが自分だけなの。2人組になるとしても、自分と組むと荷物になる。みんな精一杯でそれどころじゃない。そうなって初めてそこにいるのがつらいと思った。後日、横浜に住むもう一人の甥っ子が訪ねてきたんだけど、一緒に横浜に行こうと思いました。申し訳ないと思いながらね。それで横浜の方で4ヵ月ほどお世話になって。白杖とか何も無いので、宮城県の視覚障害者福祉協会に電話したら、横浜の視覚障害者福祉協会を紹介してもらって。電話したらすぐ来てくれることになって。また、そのときに障害者福祉施設の方と知り合ったのですが、そこで箱折りなどの作業を一緒にやらせてもらって。半日作業して、午後にウォーキングとか、ボランティアの人たちと一緒に歩くんですよ。いろんな所を歩かせてもらってね。こんなこと言ったらバチが当たるかも知れないけど充実していましたね。でも、施設ではいいんだけど、住まいの方ではどうしても気を遣ってしまうんだよね。
長くいるとそうなりますよね。
だからちょっといろんなことが見えてきたかなと。で、たまたま仙台のアパートに引っ越しできるようになったので、引っ越しました。そこには5年いましたね。仙台に越してからも宮城県の視覚障害者福祉協会とかいろいろな方に協力してもらって助かりましたね。横浜にいても仙台にいても充実していたというか、勉強になったと思います。
3月13日に娘さんと再会された後にどのように行動されましたか?
娘と県営住宅に帰ろうと思ったのですが、会社の同僚に止められました。帰らない方がいいよ、近くの避難所に行った方がいいと。何でなのか自分ではわからなかったのですが、電気が止まったままで、水もガスも使えない、ご飯も食べられないということを同僚はわかっていたんです。聞こえるので、情報としてわかっていたんですね。「水、だめ」とかを身振り手振りで示してくれたので、それを見て理解することができました。私が聞こえないので、娘と二人だけでは心配だから避難所に行った方がいいと言われて、一緒に避難所まで付いてきてくれて、事情を説明したうえで紹介もしてくれました。避難所はお寺だったのですが、そこで娘と二人でしばらく生活していました。自分だけでは全く情報が入っていなかったので、電気やガスのことを教えてくれて避難所に行けたのは本当にホッとしました。
お寺にはどれくらいの期間いらしたのですか
だいたい1ヵ月半くらいですね。電気が復旧するまでですね。
食事はどんなものが出ましたか?
パンとかおにぎりですね。あ、それからカレーライスですね。本格的な、鶏肉が入ったやつ。それを食べた時は本当に一生懸命作ってくれたというのがよくわかったので、「満腹!」っていうくらい、美味しくいただきました。それでもまだ量があったようで、私には少し多すぎるくらいでした。他にもレタスのような野菜もたくさん届いたので、それも食べました。煮炊きをして何かを食べるというのは、頻繁にはできなかったので、毎日たくさんのサニーレタスをそのまま食べました。本堂の入り口近くにはお菓子や飲み物が置いてあって、それは自由に食べることができました。後は、新聞があったので、それを読んだりして過ごしていました。
お寺に避難されていた方は多かったですか?
だいたい100人くらいはいたと聞いています。トイレに行く時は、寝泊まりしていた本堂の入り口に置いてある懐中電灯を持っていきました。たくさんの人が隙間なく寝ているので、踏んでしまわないかという心配もあったんですけど、間を摺り足で歩いて行きました。
お寺に避難している間に一番困ったことは何だったでしょうか?
避難所に行ってすぐの頃なんですが、私が聞こえないということを周りの人がわからなくて、誤解があって。特に困ったのが朝なんですけど。「おはようございます」なんて声を掛けあう時に「無視された」と勘違いされたことがありました。おばちゃん二人から「若いくせに失礼な…」みたいな視線で見られていて、「なんでだろう、おかしいな…」と思って、隣にいたおばあちゃんに「あの人達に何か悪いことしたかなぁ」と聞いたら、「負けないで、強くいきなさい」ということを言われて、気づいたんです。私が聞こえないことを周りの人たちがわからないんじゃないのか、自分から伝えないといけないんじゃないかと思って、紙に「私、聞こえないんです。この前はあいさつに気づかずにすみませんでした」と書いて、次の日の朝におばちゃん二人に見せに行きました。そうしたらそのおばちゃん二人が「あぁそうだったんだ、聞こえると思ってた」というふうに言っていただいて、誤解が解けて笑いあえる仲になりました。その後、「あの人聞こえないんだって」ということを周囲の人にも伝えてくれて、私のことを呼ぶときはみんなが肩をトントンして呼んでくれるようになって、そのお二人には本当に助けられました。大事なのは、待ってるだけじゃなくて自分が聞こえないんだということを伝えていかないといけないな、と思いました。
良かったな、と印象に残っていることはありますか?
最初はすごく苦しかったという所があったんですが、聞こえないっていうことを伝えたら、スッキリしたというか、周りの皆さんとの交流もスムーズになって、本当にホッとしました。そこからは安心して生活が出来るようになりました。コミュニケーションはなかなか難しい部分もありましたけど、筆談とかでやりとりをしました。
着る物などはどうされていましたか?洗濯とかもなかなか難しかったと思うんですけど。
洗濯は水が使えなかったので無理でしたね。仕方がないのでずっとそのままでした。お風呂も無理ですし、髪の毛もゴワゴワしてきました。靴下がなくて裸足のまま逃げてきた人もいました。寒そうにしている人の様子も多く見ました。
他にも、携帯電話の充電ができない状況だったので、充電が一杯されている私の携帯を貸し借りしたり、発電機が来た3月の下旬からは、充電コードの貸し借りをして、みんなで充電していました。無くなると困るので、名前を書いて貼っておきました。
3月の末くらいには東京や大阪から支援物資がたくさん届いて、服なども届きました。「婦人服が届きました。希望がある方並んでください」っていうアナウンスがあったことを娘が知らせてくれて、近くにいたおばあちゃん達も「若い人に合う服が来たよ。一緒に並ぼう」と声を掛けてくれました。「アンタは若いから赤い服が似合うよ」っていっぱい勧めてくれました。自分の好みではなかったのですが(笑)それをもらって帰ってきました。他の人達も、苦しい現状を忘れて、あれが似合う、これが似合うなんて話をたくさんして、笑顔でいる様子が見られました。何かあった時に、お互い様っていう気持ちでやっていけたら気持ちも温かくなるものですね。
どうやって避難したのですか。
慌てて兄の車に乗せられて避難しました。
気づいたら道路に30センチくらい既に水が来ているのが見えて、道路に散乱したブロックや瓦礫に乗り上げながら走りました。
海沿いや孫のいる小学校の方まで車が渋滞していて、中学校の校庭にも車がいっぱい停まっていたので、別な狭い道路を抜け高速道路の下に車を置いて高速道路によじ登って避難しました。
海の方を見たらすごい津波で船や松の木、車などものすごい数が浮いていて大人も子供もみんな流されていてとても怖かったです。
松の木が家にぶつかったりしていて、その勢いや流れがものすごい速さでした。水面の上昇もすごくて、ここも危ないと感じました。
下に停めていた車はまだ大丈夫だったので、再び兄の車に乗って高速道路の下の細い道路を逃げました。内陸部の袋原方面や名取市文化会館、増田中学校へと走りましたが、行く先々が渋滞で車等もいっぱいで停められませんでした。姪が名取市の内陸部山沿いにある愛島団地に住んでいたので最終的にそこまで逃げました。
そこにたどり着いたのは何時頃でしたか。
5時頃だったと思います。2時間少しくらいですね。
それは早かったですね。姪の住む愛島団地まで行って難を逃れたということですよね。
そうです。息子夫婦や親戚たちもみんな山沿いの愛島団地に避難してきたのでそこで再会して無事を確認することができて嬉しかったです。ここの姪宅で5日間お世話になり、その後仮設住宅に移るまでの間、仙台の中心部にあるお嫁さんの実家の青葉区西勝山で過ごしました。
その間生活するにあたり、お嫁さんの実家では困ったことはありましたか。ご飯などはどうしていましたか。
食べ物も少なかったし、水道、ガスも止まっていて、煮炊きはできなかったので食事は思うようには食べられませんでした。ですから、ホームセンターでおにぎりやパン、水、そういったものをもらいました。
あとは市の方から配食が所々にあり、そこからもらっていました。
停電していましたし、家屋は瓦が落ちたりしていたのでブルーシートでカバーしていました。古いお家だったのでだいぶ壊れていました。1ヶ月間お風呂も入れず体はかゆいし、洗濯も出来ず、服の支援が無かったので着の身着のままだったのが辛かったです。
お嫁さんの実家の仙台市西勝山周辺にある避難所や支援センター又は公民館などには移ることはしなかったのですか。
移ろうとは思いませんでした。家の方が広いので。
小山さんがお住まいの地域だと、避難所というのはどちらになりますか?
大きな地震が発生したときは、まずは高台へ避難するように言われていました。小学校でも津波を想定して、山を登って高台に避難していたようです。なので、私たちが利用した高台の避難所にたくさんの人が集まりました。
避難所に集まった人達は何人くらいいましたか?
200人くらいはいたと思います。ギュウギュウ詰めでしたね。私の居住する集落だけでなく、周辺の集落で自宅が流された方々も避難してきましたし、高台の自宅に居た人達も危ないので、みんな避難所へ集まり、一緒に過ごしました。もう、ずっと揺れっぱなしでしたからね、あの晩は。
そこにはどれくらいの間いらっしゃいました?
5月末なので、2ヶ月半はいたと思います。長かったです。
避難所で、ご家族やお知り合いの方以外で声をかけてくれる人はいましたか?
避難所の中では誰かしら声をかけたり、私の食事の配膳をしてくれました。その場で食事を受け取って、近くで声をかけてくれた方と話をしたりすることはありました。ただ、私自身は、見えにくい、聞こえにくいため、周囲の状況がまったくわからないので、こちらから声をかけられないんですね。なので、自分が動きたくても動けないことがありました。
大勢の方が避難されてきたなかで、困ったことやトラブルはありましたか?
当時は今を過ごすだけで夢中になっていましたので、意識しなかったり、よく分からないけどストレスになっていたり、いろいろあったのですが、一番困ったのはトイレです。トイレに自由に行けない。見えないですし、一人で移動はできませんし。朝8時頃出かけた家族が帰ってくる夕方5時頃までずっと我慢したこともありました。もちろん、その後見えなくても一人で移動ができるルートを確保し、避難所の近くの民家のトイレを借りたり、避難所生活の環境も少しずつ落ち着いてきてトイレにも行けるようになったのですが、1ヵ月くらいはかかったかもしれません。
その他にも困ったことはありましたか?
そうですね。プライベートな空間がないというのも困りました。常に誰かに見られている状態、もちろん知っている人が集まっていて、お世話になる立場でもあるんですが、何というか心理的自由がないというか。誰かに気を遣っていただいてありがたいのと、常に見られているのとで、ちょっと複雑なところがありました。なので、下の民家のトイレに行く時に、何ともいえない解放感のようなものを感じたことがありました。トイレが唯一のプライベート空間じゃないけれど、用を足さなくてもそこにこもったこともありました。
やはり一人になれる空間というのが必要だったということですね。
周りの視覚障害の方からも、プライベート空間は特に意識されていると聞きます。結局、自分が見えていないから、状況が分からないんです。個室であればやはり落ち着きます。かと言って、一人ではいられない。誰かの知恵や助けも必要。そのあたりの葛藤というか、複雑な思いはあります。もちろん、お手伝いして頂いたり、気配り、目配りしてお世話をして下さった方々、私はお世話になった身ですので、ありがたい、その一言につきますけど。それとは別に、やはりプライベート空間ということに関しては大変でした。それと、もう一つ困ったことがありました。
何でしょう?
食べ物の量のことです。支援で頂いている自衛隊のお弁当が届くようになってから、お年寄りの方々が自分の食べられる量だけ食べて、あとは残すということがちょっと心理的にできない状況だったんですね。頂いたものをこの状況で捨てるというのはできないから。無理して頑張って食べている人もいました。私でも量が多いなと思ったくらいだったんです。でも、とりあえず全部食べなければ、ゴミにもなるし、食べきってしまえば片付けやすいし。しばらく経ってから、無理して食べていたおばあさんがポロっと一言「多い」とつぶやいていて。そこで、ちょっとこれだけの量はお年寄りは食べられないなと気づきました。「気にしなくても残してもよいですよ、体にもよくないし。全然悪いことじゃないから。」と話しました。そうしたら、次の食事からは残すようになりました。最初のうちは、出されたものを大事にしなければならない、粗末にできない、そういうプレッシャーみたいなものがあったと思います。こんなことをいうと逆にみんな支援してくださってるのに何を言うんだという話になるかもしれないですが、普段は食べられる量をその人に合わせて食べている、それができないとちょっと困る。普段の生活では全く意識しないことですね。
食べ物の問題と聞いて、みんな足りなくて、すごく少なくて、どうやって分けようかというイメージが浮かびましたが、正反対でした。一人ひとりの食べられる食事の量は違いますからね。
普段、何気なくおいしいと思って食べているコンビニやスーパーなどのおにぎりも、避難所生活で何週間も続くと徐々にのどが通らなくなってきます。これも避難所生活ならではの体験でした。
そのような状況で、避難所に届いた食材で女性のみなさんが作ってくれた味噌汁や野菜のおひたしなど、いつもの生活にごく普通にありそうな手料理がとてもおいしかったのを覚えています。
当日の夜はひまわりで過ごしたのでしょうか?
いえ、近くのケーウェーブ(気仙沼市総合体育館)にみんなで避難しました。商品のクッキーを持って。ケーウェーブは高台にあるので、何かあったらそこにという意識はありました。すでに多くの人が避難していましたね。
ケーウェーブには暖がとれるようなものはありましたか?
ないです。毛布のようなものもありませんでした。最初はみなさんと同じ広い場所にいたのですが、利用者さんにとってはいつもと違う場所、状況、ご両親にも会えない状況で、多動的な行動がどうしても出てしまって。避難している方みんなが不安な状況の中で、自分のペースが保てない利用者さんがその場にいづらくなってしまって。お手洗いにいってもすごく冷たい目で見られてしまって。誰が悪いわけではないんですが、避難している方すべてがもう限界の状態で。でもうちの利用者さんはなかなか現実を受け入れられないものですから、トイレに行けば大きな声も出るし、楽しいわけでもないのに飛び跳ねてしまう。なので、健常の方と同じ場所にいるのは難しいということで、ケーウェーブの事務員の方に事情を説明して別の部屋を貸して欲しいとお願いしたんです。けれど、なかなか理解してもらえなかったですね。でも他に人に迷惑がかかるからと説得して、どうにか会議室をお借りすることができました。その晩はそこで職員、利用者さんが「の」の字になってクッキーを食べながら過ごしました。でも、次の日にはもうそこに居れる状況ではなくなったので、ひまわりに戻ってきました。