落ちてきたのが、エアコンの上に付いていたパネルがそれぞれ一箇所ずつ。茶箪笥の中に、割れない食器が入ってあって、その棚の戸が揺れで少しずつ動いて何個か落ちたぐらい。あとは職員用のパソコンが落ちそうになったり多少立て付けが悪くなったりする程度で、まぁ地震の被害はそんなになかったです。
揺れが収まって、安否確認というか、今いるメンバーがいるかどうか職員も含めてその場で確認しました。
ほとんどの方が大丈夫でした。1人、自閉症の方がすごい揺れだったので身障者用のトイレに閉じこもっちゃってっていうのはあったけど、ただ所在はわかっていたので。職員について行かせて。早い段階で怪我がないのは確認できたんですよ。15時前の段階でみんなの無事は確認できたんです。
小川さん:うーん。
かよ子さん:たぶんね、考える間もなかったと思います。私たち(職員)は、(障害が)重度の利用者さんも抱えていて、まず、そっちを守んなきゃいけなかったんです。自分の家族の安否もわからないし、肢体不自由の利用者さん、車椅子の利用者さんのご家族もどうなってるかもわかんない。そういう中で、小川さんとか、一言二言の声がけで動いてくれる利用者さんに、手伝ってもらいました。一回で動いてくれる人たちは、私たちの話を必死に聞いてくれました。
みんなの変わりにやらなきゃいけないぐらいの切羽詰まった状況だったと思います。重度の利用者さんたちのこともあるから、自分たちだけは迷惑かけられないっていうか、そういうことは思っていたと思います。彼女(小川さん)も地域に親御さんや兄弟もいたし、心配だったと思うんです。でもそんなことは言わず、表情ひとつ変えずに懸命にやってくれました。
震災当日の揺れ始めた時、さくら学園の隣にある塩釜市の地域支援活動センター「藻塩の里」で利用者さんが、てんかんの発作を起こしたということで呼ばれて、ちょうど介抱していたところだったんですね。私、当時「さくら学園」と両方の管理を兼務してまして。
畳の部屋に皆で運び、布団に横にして様子を見ながら介抱をしていた時でした。
和室からはみんなの様子が目に入らない、廊下を出ないと見えないような所だったので。おそらく皆、キャァって悲鳴を上げたりしながら、職員が落ち着いて「机の下に潜って!」というような指示を出していたと思います。
私はそれを聞きながら、横にしている利用者さんの隣にあった卓球台がもの凄い揺れで倒れかかってきそうだったので、利用者さんに手を置きながら卓球台を支え、大きな声で、机の下に潜るよう指示を出していたような覚えがあります。それからさくら学園の利用者さん達の安否を、揺れが納まった時点ですぐ確認に行きました。
さくら学園では、作業室で作業していた人達にも机の下に隠れて身の安全を守ってもらい、揺れ始めた時には重い備品が机の上から勢いよく転げ落ちてたせいで誰かがぶつかりそうだったというような報告を受けました。怪我がなくて本当に良かったです。
熊井さん:利用者さんのご家族等に、携帯で連絡していました。それでたまたま、愛ちゃんの持っていた携帯がお母さんとつながりまして、連絡を取ることができました。お母さんが愛ちゃんの無事を知って、とても喜ばれたのね。
愛さん:はい。
熊井さん:うちの(旧)施設から、愛さんのご自宅までは歩くとだいたい30分ぐらいだったと思います。揺れが落ち着いたその後、お父さんが瓦礫を越えて、愛さんを迎えに来ました。(利用者の中で)一番最初でした。
また、当日は調理実習をしていたこともあり、お米や食べかけのものを温め直しながら食べていました。そんなに食べ物に困ったわけではありませんでした。
今野さん:地震の時は一般就労していたケーキ屋の工場にいました。すごい揺れたので、外の駐車場に避難したんですよね。その時、雪も降ってきました。
社長とか他の職員とそこにいました。
工場の中はかなり揺れたせいで物が落ちていました。重かったオーブンも1センチずれたし、卵割るときのボールとか、色んな材料が落ちて全部だめになっちゃったんです。
揺れがおさまったあとに、家族が心配になったから電話してみたけど、連絡が取れなかった。
高台に避難した後、100人近い職員さんはどうしていたんですか?
自宅の様子や家族の様子を見に、徐々に帰っていく人もいました。近くに家がある人は歩いて帰って行きました。私は集会所に2日間いました。地域の人も集まってきて、家が流されたりつぶれたりした人は1ヵ月くらいいる方もいたようです。
集会所は水は出ましたか?
出ませんでしたね。他の人が車で遠くまで行って、山の水をタンクで運んできてくれました。みんなで少しずつ飲み水として分けていました。食べ物は1日1食、同僚と夜に缶詰を食べました。二人で半分ずつ食べて、お腹は空いたしすごく疲れました。
集会所は広かったですか?
だいたい20畳くらいですね。10畳くらいずつの二部屋です。
ぎゅうぎゅう詰めでしたよね?
ほんとうにいっぱいでした。布団もないし。裏の家の人が毛布なんかを支援してくれて、本当に感謝しています。とても寒かったので、隣の人とピタッとくっついていました。足を伸ばすくらいのスペースも無かったので、ずっと曲げたまま眠るような感じでした。会社の作業着のままだったので、とても寒かったです。
周囲の同僚とはどのような会話をしていましたか?
ちょっと会社の人に「何話してるの?」と聞いてみると、周囲の同僚は家族の安否確認をしていたようです。家族のことが心配だから帰りたいと。私も3月12日に帰りたいということを伝えましたが、会社の近くは火事になっているからと止められました。それで、3月13日に同僚と一緒に娘の学校まで歩いていき、無事娘と再会することができました。
前日の3月12日に会社の上司から「娘の名前は何?歳はいくつ?」と筆談で聞かれました。それを子供のいる人たちみんなに聞いて回って、メモを取っていて。上司が歩いて1時間くらいの小学校・中学校に確認に行ってくれました。「お母さんは大丈夫ですよ、お父さんは生きていますよ」と、先生に連絡をしてくれたんです。そして「娘さんは元気ですよ、無事ですよ」ということをみんなに伝えてくれて、本当に安心しました。
会社の方々とのコミュニケーションというのは、普段はどうしていたのですか?
筆談です。震災の時はたまたまカバンに「筆談ボード」を入れていたので、それを使ってやり取りをしていました。もし、紙が無ければ…身振りとかで何とかするか、何も言えなくて情報の伝達の仕方がなくて我慢するしかなかったかもしれません。
避難する時には、周りの方に手を引かれて避難したのですか
いえ。前後を同僚に挟んでもらって、前の人に付いていく形で避難しました。
会社には松田さん以外に聴覚障害がある方は働いていたのですか?
いえ、私だけでした。他には知的障害をお持ちの方がいらしたんですけども、その方も一緒に逃げました。
震災の当日、2時46分に小山さんはどちらにいらっしゃいましたか?
一人で自宅の離れの2階の部屋にいて、テレビを観ていました。そこにあの揺れが来ました。もうハンパない揺れだったので、このまま建物ごと自分もダメになると思いました。
やっぱり、いつもの地震とは違うと思いました?
もう一気にガタガタが来たので。身動きが取れない。咄嗟に動いたのが良かったんですけど、5歩も歩けば部屋の入口のドアの壁のあるところに入れたので。そこでの時間は本当に長かったです。
2階から1階までの避難というのはどのようにされたんですか?
自宅ですので感覚も慣れています。今より視力がもう少しありましたので、2階から庭に出て行くのはできました。
地震の瞬間、津波という意識はありましたか?
はい。私の場合はもともと地域が昭和の津波、チリ地震津波が来た地域で、小学校の頃から避難訓練は地震と津波のセットで行われていました。それと、2日前にも地震がありましたよね。その地震でも1mくらいの、船がひっくり返りそうな津波が来たと聞いていたので、間違いないなと。5、6mくらいのは間違いなく来るなと直感しました。ですが、15、6mを超える津波が来て自宅が流されるとは思いませんでした。
被害状況についてお聞きしたいのですが、建物は全部流されてしまったということですか?
自宅も納屋も土台を残して全壊流失しました。
ご家族はご無事でしたか?
家族は、それぞれ出勤していて、それぞれの場所で被災しましたが、無事でした。それが何よりでした。みんなそれぞれが流されたと思っていたので。震災発生直後から携帯電話もつながらず、直接、会うまで数日から一週間、安否が確認できないという状況でした。地元に入る情報は悲観的な情報が多く、家族の目撃情報が遠くから歩いて地元に戻った知人から聞いても、具体的な状況がわからず、直接会って、はじめて安心した、あのときの思いは忘れられません。