活動再開

プライド

 利用者さんは特に落ち込んだりはしてなかった。けど唯一、さくらんぼの看板に対しての意識が高かったみたいで。建物なくなっちゃったけどまた頑張ろうねっていう思いは、利用者さんの中に強くありました。だからそれがなくなるってことは。かなりプライドがあったんでしょうね。会社が倒産するのと同じような思いというか。彼らには、いつか同じ場所でさくらんぼが再建できるっていう夢があったんですよね。

新しい工房の場所探しへ

みなさん再建に進もうということで動き出して、次の流れというのは?

 すぐには工房を作れないのでひとまず集まれる場所をつくらないといけないなと思いました。
 工房がもうないので4月初めは利用者さんの活動を休止せざるを得ませんでした。
 利用者さんのお家を訪問したり、居場所がないので、みんなで公園に集まったりしました。私達スタッフはスーパーにある外のベンチで打ち合わせをしたりしていました。
 どこか一時的にでも集れる場所を作らないといけないと色々探し始めましたが借りるにしても資金がないので困りました。
 行政に懇願して4月17日頃から、5月末までの短期間でしたが、障害者福祉センターの1室を間借りさせていただきました。午前中はみんなと集まる時間・作業にして午後は物件探しや挨拶回りなど色々準備していました。
 4月の時点で、荒浜の時からの取引先がもう動いていました。その企業さんも津波の被害が甚大でした。その状況でも工房に声をかけて下さり、利用者さんとボランティア活動をしました。津波で流されて泥だらけになったその企業さんの資材を拾い集めて、高圧洗浄機で洗うというお仕事でした。
 工房もその後作業準備をし、何か手芸品を作れないか、他になにかできることがないか考えて動いていました。工房が流されたのにすぐに取引先と引き続き関係性が持てるのはありがたかったです。

利用者さんと共に物件探しと偏見の壁

障害者福祉センターを借りられる期限は5月末だったので、活動と並行して物件探しもしていました。利用者さんは再建に向けてのスタッフの苦労も見えていたようで、利用者さん自ら「何か自分達にできることはないですか?」って申し出て下さいました。そこで、利用者さんに負担が少なくできることを考え、物件探しをお願いしました。
しかし、物件探しでは障害者に対する偏見の言葉を幾度も受けました。
業者としては福祉施設だと何かトラブルが起きるのでは?とも想像していたのかなと残念ながら思います。私たちは虐げられるような、恥じるようなことは一切していないのですが、悲しかったです。福祉施設への理解をもっと持っていてくれればと感じました。
利用者さんと一緒に不動産屋に行くと「障害者の施設には貸さない」と言われました。利用者さんの前で「障害者なんかに」って。あんな悲しい思いはもうしたくないです。
今の物件が決まるまでも大変でしたが、利用者さんと一緒に動いたことはとっても良いことだったと思います。
何とか現在いる若林のビルを見つけて、6月7日に開設しました。でも障害者福祉センターとの契約が5月末までだったので、開設までの6日間は利用者さんに申し訳ないけど活動は休止と伝えました。利用者さんもこの件を理解してくれました。その間も電話相談などは受けていました。
でもやっぱり再開まで利用者さんも一緒に動いたからこそ、工房が出来たことのありがたみや応援して下さった皆さんのありがたみもわかりました。そして、その過程の中で一緒に物件を探したりすることにより「自分たちの工房なんだ」っていうのも実感できていますね。

私有地での再開とJDFとの関わり

 再開前の5月の連休明けくらいにJDF(日本障害フォーラム)の存在を知りました。障害を持つ方たちのお手伝いしたいっていう方々でした。その方々には、5月末の入谷地区の私有地にプレハブを設置しての再開の際には、最初は自分たちと一緒に畑おこしをやってもらいました。
 JDFの方々はほぼ全国、北は北海道、南は沖縄の方まで来ていただいてましたね。
 全国地図を作ったんですよ、来てくれた県を埋めていくような。後々支援に来た方々にお礼をしたいなって思いまして。「のぞみ」の元気な様子を伝えたいなって、広報誌とかを送りました。

利用者さんの思い

さくら学園の利用者さん達に関しては、施設がなくなってしまうというような危機感的なイメージはなかったように感じます。私達もそういう話をしていた訳ではないですし、掃除しないと使えないねというような説明をしていました。
実際には彼らを連れて行って見せた訳ではないですが、ご自分で見に来る方も居たので。手伝わせてと言って泥掻きやってくれる方もいらっしゃいました。そういう中で早く再開して欲しいという感じはひしひしと伝わってきましたけど、なくなってしまう、というようなことはなかったですね。建物がちゃんと建ってたので。

利用者さんの変化

再開については待ち望んでいた方が多かったと思います。皆自分の我を出さないで我慢してくださいました。ああいうことをくぐりぬけた先の心持ちというのは、個人としても同志のような感覚が芽生えてきた感じがありました。同じ困難をくぐりぬけてきたわけですから。利用者さんの震災前と震災後の大きな変化はあまり感じないですね。淡々と同じような感じでおられるかな・・・。幸い、利用者さん方に、例えば精神的に心理面で何かトラウマになり、思い出して急に怖がるようなことがなかったので、そこは不幸中の幸いというか、良かったなと思っています。

再稼働

震災の2年後に事業所を再開されたということですが、当初の利用者さんの様子はどうでしたか?

再開が決まったときに「ずっと待っていた」「長かった」と初めて本音が聞こえました。今まで我慢してくれていたのです。かえって私のことを心配してくれていたくらいです。

皆さん、希望に満ちあふれその嬉しさは言葉に表せないくらい大きかったと思います。

しかしながら、きらら女川は女川町での建設第一号というくらいに、地域の皆さんや企業の方々が再建に苦労をされていた中なので、手放しで喜ぶことには抵抗を感じていました。

衣食住が整っている人とそうでない人との差がある中で、第一号で建設ができるということに気兼ねがあったのですね。

私自身、避難所生活をしている間、行く場所や仕事がない辛さを痛切に体感しました。働けるなら一生働きたいとも思いました。利用者たちも同じ気持ちだったと思います。

仕事をスタートしたときに、とにかく仕事ができること自体が嬉しく、楽しく、一生懸命に取り組み、あっという間に仕上げてしまいます。もっと何かできるんじゃないかと仕事に対しては今もすごく貪欲ですね。

職員さんや利用者さんのモチベーションを高く維持できている理由はなんでしょうか。

仕事があるということですね。就労支援事業で一番しんどいのが仕事の創出ですね。でもこの仕事を生み出すのは職員の役目です。「就労支援」という名前が付いている以上考えていかなければいけないことです。

 

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