障害者福祉センターを借りられる期限は5月末だったので、活動と並行して物件探しもしていました。利用者さんは再建に向けてのスタッフの苦労も見えていたようで、利用者さん自ら「何か自分達にできることはないですか?」って申し出て下さいました。そこで、利用者さんに負担が少なくできることを考え、物件探しをお願いしました。
しかし、物件探しでは障害者に対する偏見の言葉を幾度も受けました。
業者としては福祉施設だと何かトラブルが起きるのでは?とも想像していたのかなと残念ながら思います。私たちは虐げられるような、恥じるようなことは一切していないのですが、悲しかったです。福祉施設への理解をもっと持っていてくれればと感じました。
利用者さんと一緒に不動産屋に行くと「障害者の施設には貸さない」と言われました。利用者さんの前で「障害者なんかに」って。あんな悲しい思いはもうしたくないです。
今の物件が決まるまでも大変でしたが、利用者さんと一緒に動いたことはとっても良いことだったと思います。
何とか現在いる若林のビルを見つけて、6月7日に開設しました。でも障害者福祉センターとの契約が5月末までだったので、開設までの6日間は利用者さんに申し訳ないけど活動は休止と伝えました。利用者さんもこの件を理解してくれました。その間も電話相談などは受けていました。
でもやっぱり再開まで利用者さんも一緒に動いたからこそ、工房が出来たことのありがたみや応援して下さった皆さんのありがたみもわかりました。そして、その過程の中で一緒に物件を探したりすることにより「自分たちの工房なんだ」っていうのも実感できていますね。
まだまだこれからです。作業も含めようやく運営の基盤が整ってきたところです。
選択肢もないまま今の物件に至ったので、次の本拠点も探したいところですが、なかなか難しく、課題もあります。現工房を探す時も障害者施設への偏見もありましたし。
現入居しているビルは施設への理解があった不動産屋さんでしたので、ありがたかったです。今のいる地区の核になっている方に相談して紹介いただきました。
今振り返ると、前の工房があった荒浜の人達はすぐ受け入れてくれましたし、すごい優しいなぁ、ありがたかったなと思っています。
だからこそ今回なおさら、世間の目の厳しさを実感させられて。利用者さんがこういう想いを日々していると考えると悲しいです。
かよ子さん:障害をもっている人が過ごしてる場所とは知らない人が地域にいっぱいいました。
だから、なんでここ(事業所の作業室)だけ特別扱いされてるんだろうって不思議がられていて、そこからトイレで問題があったりとか、ルール上、きちんとやってない人を見つけると、「こんな風にしたの、くじらのしっぽさんの人たちじゃないんですか?」って言われたりもしてました。
色々なマイナスな言葉を聞いて利用者さんが嫌な思いをするのも嫌だったので、たまたまうちで別棟の作業場にトイレもあったし。あっちに歩いていくのひどいけど、夜も誰か付き添って行って使おうねと話し対応してました。でも、そうしているうちに、周りの方々もみなさん(利用者)の事を少しずつ、わかってくれました。
かよ子さん:きっかけは、(避難所である)館内の運営をするのにルールを決める、朝に全体で行われる避難所ミーティングでした。みんなで使うところだから、ルール決めすることになったんです。私たちも、くじらのしっぽとしてそこに参加しました。私たち掃除などやれること、みんなと同じことできるっていう意思表示をして、一般の方と一緒に行うようになった結果、偏見とか、誤解も無くなっていきました。
でも、「普通にしゃべれるんだ」って言われますよ。障害を知らない人にはそう言われて、ほんとにびっくりしますよ。
障害を持っている人は、すべて助けが無いと生活できないというイメージを持っている人が多くいることがわかりました。
例えば、「順番だから並んでって言うと、一般の人と一緒に並んで待てるんだ」という理解から始まって、(避難所に)救援物資来たら、分担する係りの人足りないから手伝いの声を掛けられることもありました。例えば職員と利用者、ペアで行って手伝ったりするうちに、少しずつ理解してくれてる人たちも居たので、その人たちから、声を掛けて貰ったりして、徐々に偏見も無くなっていったことが嬉しかったですね。
3月13日に娘さんと再会された後にどのように行動されましたか?
娘と県営住宅に帰ろうと思ったのですが、会社の同僚に止められました。帰らない方がいいよ、近くの避難所に行った方がいいと。何でなのか自分ではわからなかったのですが、電気が止まったままで、水もガスも使えない、ご飯も食べられないということを同僚はわかっていたんです。聞こえるので、情報としてわかっていたんですね。「水、だめ」とかを身振り手振りで示してくれたので、それを見て理解することができました。私が聞こえないので、娘と二人だけでは心配だから避難所に行った方がいいと言われて、一緒に避難所まで付いてきてくれて、事情を説明したうえで紹介もしてくれました。避難所はお寺だったのですが、そこで娘と二人でしばらく生活していました。自分だけでは全く情報が入っていなかったので、電気やガスのことを教えてくれて避難所に行けたのは本当にホッとしました。
お寺にはどれくらいの期間いらしたのですか
だいたい1ヵ月半くらいですね。電気が復旧するまでですね。
食事はどんなものが出ましたか?
パンとかおにぎりですね。あ、それからカレーライスですね。本格的な、鶏肉が入ったやつ。それを食べた時は本当に一生懸命作ってくれたというのがよくわかったので、「満腹!」っていうくらい、美味しくいただきました。それでもまだ量があったようで、私には少し多すぎるくらいでした。他にもレタスのような野菜もたくさん届いたので、それも食べました。煮炊きをして何かを食べるというのは、頻繁にはできなかったので、毎日たくさんのサニーレタスをそのまま食べました。本堂の入り口近くにはお菓子や飲み物が置いてあって、それは自由に食べることができました。後は、新聞があったので、それを読んだりして過ごしていました。
お寺に避難されていた方は多かったですか?
だいたい100人くらいはいたと聞いています。トイレに行く時は、寝泊まりしていた本堂の入り口に置いてある懐中電灯を持っていきました。たくさんの人が隙間なく寝ているので、踏んでしまわないかという心配もあったんですけど、間を摺り足で歩いて行きました。
お寺に避難している間に一番困ったことは何だったでしょうか?
避難所に行ってすぐの頃なんですが、私が聞こえないということを周りの人がわからなくて、誤解があって。特に困ったのが朝なんですけど。「おはようございます」なんて声を掛けあう時に「無視された」と勘違いされたことがありました。おばちゃん二人から「若いくせに失礼な…」みたいな視線で見られていて、「なんでだろう、おかしいな…」と思って、隣にいたおばあちゃんに「あの人達に何か悪いことしたかなぁ」と聞いたら、「負けないで、強くいきなさい」ということを言われて、気づいたんです。私が聞こえないことを周りの人たちがわからないんじゃないのか、自分から伝えないといけないんじゃないかと思って、紙に「私、聞こえないんです。この前はあいさつに気づかずにすみませんでした」と書いて、次の日の朝におばちゃん二人に見せに行きました。そうしたらそのおばちゃん二人が「あぁそうだったんだ、聞こえると思ってた」というふうに言っていただいて、誤解が解けて笑いあえる仲になりました。その後、「あの人聞こえないんだって」ということを周囲の人にも伝えてくれて、私のことを呼ぶときはみんなが肩をトントンして呼んでくれるようになって、そのお二人には本当に助けられました。大事なのは、待ってるだけじゃなくて自分が聞こえないんだということを伝えていかないといけないな、と思いました。
良かったな、と印象に残っていることはありますか?
最初はすごく苦しかったという所があったんですが、聞こえないっていうことを伝えたら、スッキリしたというか、周りの皆さんとの交流もスムーズになって、本当にホッとしました。そこからは安心して生活が出来るようになりました。コミュニケーションはなかなか難しい部分もありましたけど、筆談とかでやりとりをしました。
着る物などはどうされていましたか?洗濯とかもなかなか難しかったと思うんですけど。
洗濯は水が使えなかったので無理でしたね。仕方がないのでずっとそのままでした。お風呂も無理ですし、髪の毛もゴワゴワしてきました。靴下がなくて裸足のまま逃げてきた人もいました。寒そうにしている人の様子も多く見ました。
他にも、携帯電話の充電ができない状況だったので、充電が一杯されている私の携帯を貸し借りしたり、発電機が来た3月の下旬からは、充電コードの貸し借りをして、みんなで充電していました。無くなると困るので、名前を書いて貼っておきました。
3月の末くらいには東京や大阪から支援物資がたくさん届いて、服なども届きました。「婦人服が届きました。希望がある方並んでください」っていうアナウンスがあったことを娘が知らせてくれて、近くにいたおばあちゃん達も「若い人に合う服が来たよ。一緒に並ぼう」と声を掛けてくれました。「アンタは若いから赤い服が似合うよ」っていっぱい勧めてくれました。自分の好みではなかったのですが(笑)それをもらって帰ってきました。他の人達も、苦しい現状を忘れて、あれが似合う、これが似合うなんて話をたくさんして、笑顔でいる様子が見られました。何かあった時に、お互い様っていう気持ちでやっていけたら気持ちも温かくなるものですね。
ライフラインが復旧したのはいつ頃でしょうか?
ここは遅かったです。近くまでは電気工事の車がきていたのですが、なかなかこちらまで来なくて。ようやく電気がついた時は本当にうれしかったですね。水道はまだでしたが、水は横を流れる川の水を使っていましたから。それでお湯を沸かして。利用者さんの髪や顔を拭いてあげたかったんです。顔を洗ってあげると「やっと洗えたー」と泣くんですよね。いつもなにげなくやっていることがこんなにも嬉しいことなんだと、その時思いました。お湯ってこんなにありがたいんだって。
他に苦労した事はありましたか?
利用者さんのお薬を確保するのが大変でした。病院も被災していますし。混乱している中、私と所長が交代でリュックサックを背負って毎日病院まで通いました。また、遺体安置所で所長のお母さんや、利用者さんのご父兄を探す作業もつらかったです。ブルーシートに包まれたご遺体をひとつひとつ確認するという。以来、ブルーシートを見るだけで思い出してしまいます。高台から炎に包まれる気仙沼を見ながら、これからどうなるんだろうという不安でいっぱいでしたが、利用者さんの前で涙を見せてはいけない、笑っていなければならない、職員は笑顔でいようと話しました。ご主人が無くなった職員もいましたが、本当に頑張っていたと思います。それとやはり、障害者に対する偏見、誤解というものが大変でした。いくら説明してもなかなかわかってもらえない。私は福祉というのは心に余裕があってできるものと思っていますので、あのような混乱した状況ではなかなか理解できるものではないし、健常の方が悪いというつもりもありません。でも、障害があるというだけでそういう目で見られてしまう。そうなると、何かお願いをしたくても出来なくなってしまう。それが残念に思えました。ひまわりは被災から一ヵ月もしないうちに再開したんです。どこの事業所さんよりも早かったと思います。それは、ひとりでもひまわりを頼ってくれる人がいるなら、早く再開しようと当時の小松所長が言ったんです。電気も水道もまだこない、でもそこは職員みんなで工夫をしながら。みんなが集まれるところにしてあげようといって。
ひまわりの存在が利用者さんやそのご家族の希望になっていたんですね。
そうですね。ひまわりがあったから頑張れたと言ってもらえて。