そうですね。迎えに来ていただいたり、工房としても車で送りました。
日に日に避難所にいる利用者さんが少なくなりました。最後は一人残りました。様々な事情で、お一人で頑張って地域で生活している方でした。アパートは半壊、病気や障害のこともありますし、帰れる状況・サポート体制を整えてから避難所を出るという流れを考えました。
避難所生活での10日間の間に、本人が安心して帰れる準備を利用者さんと一緒にしていきました。完璧ではなかったですが、状況が整ったのが発災から10日後。
懸念としてその後、家に戻ってから程度自分の力で生活していかなかきゃなりません。スタッフも他の利用者さんもいるのでその方のサポートだけする訳にはいかない状況でした。
利用者さんが自宅に戻ってある程度生活が成り立つように、避難所から利用者さんと一緒に出かけて、かかりつけの病院の先生に繋げたら、アパートでひとまず暮らせるように自宅の片付けもしました。
銀行の通帳やカードも家の中でどこにあるかわからないということで一緒に銀行に再発行したり、お金の心配がないように様々な手続きをし、少しでも安心して生活できるように整えました。
もちろん避難所を出た後も工房としてサポートは続けるし、まずは自分の力で暮らしてみよう提案し、本人の同意を得て、避難所での生活は解散という形になりました。
避難所を解散する時点で、利用者さんは荒浜の工房が流された事実を知っているのは一人だけでした。なぜなら発災時からすぐ避難して避難所にいた為、知る由もなかったから。また、発災当日、工房に来ていなかった利用者さんも同様です。
避難所での10日の間に最後に残った利用者さんと荒浜に入って、工房が全て流されているのを確認しました。なので、その利用者さんと私達スタッフしか知らなかったんです。
それ以外の利用者さんはきっとラジオの状況しか聞いていないので、工房がなくなったことを描写的に感じるってことは多分できなかったと思います。避難所にいた利用者さんはまず家に帰れる、家族が生きてたというのに安心感をもって帰られたのだと思います。
そうですね、仕事というか、生きること自体の考え方が変わったと思います。その変化は、彼らにとってすごく強みっていうか、生きていく上でなにか変わったことなんじゃないかなって思います。それは、本人達も言ってました。
発症によりご自身と社会との関係が変わることがあります。精神疾患は特に社会の理解も低いこともありますし、病状がしんどくて会社も辞めざるを得なくなったり、友達との関係も疎遠になったり。家族とうまく関係性が作れなくなったり、多くの当事者はとてもつらい経験をされています。
自分への疎外感とか、病気になったから自分はもうダメなんだっていうような否定的な考えになってしまうことがあります。
だけど、これまで自分を否定的に捉えがちだったけども、この震災を通して自分が今出来る役割を見出し、自己肯定感が広がったんです。生きていること自体がすでに一歩進んでいる・ありがたいと思うようになりました。
生きていることが0じゃなくて1からスタートになってるという捉え方ですよね。その捉え方って大きく違いますよね、今までと。前向きにというか、自分をもっと大切にできるようになりますよね。そういう自身への捉え方・気づきの変化は、私達の支援ではなかなか超えられない壁です。
自分で気づいた存在感っていうのは、自分のものですよね。それを震災は気づかせてくれました。
つらい体験の中で見出したそういう変化は、今後の利用者さんの人生にとって代えがたい大きな力になっていますね。
小川さん:うーん。
かよ子さん:たぶんね、考える間もなかったと思います。私たち(職員)は、(障害が)重度の利用者さんも抱えていて、まず、そっちを守んなきゃいけなかったんです。自分の家族の安否もわからないし、肢体不自由の利用者さん、車椅子の利用者さんのご家族もどうなってるかもわかんない。そういう中で、小川さんとか、一言二言の声がけで動いてくれる利用者さんに、手伝ってもらいました。一回で動いてくれる人たちは、私たちの話を必死に聞いてくれました。
みんなの変わりにやらなきゃいけないぐらいの切羽詰まった状況だったと思います。重度の利用者さんたちのこともあるから、自分たちだけは迷惑かけられないっていうか、そういうことは思っていたと思います。彼女(小川さん)も地域に親御さんや兄弟もいたし、心配だったと思うんです。でもそんなことは言わず、表情ひとつ変えずに懸命にやってくれました。
親御さんやご家族とも連絡の取れないような状況の中で、一軒一軒、繋がるような所にはお電話をしていったんです。
杉の入小学校には一台だけ公衆電話があって。ピンク色の。最初の頃はそちらには規制がかかってなかったので使えたんですね。10円玉を持って皆並んでいて。我々も順番に並んで、たくさんかけると迷惑だから2,3軒づつかけて、終わったらまた並んでというようなことをしてたような覚えがありますね、その日の夕方から。
当然、なかなか連絡がつかない相手もおれられました。繋がるところ繋がらないところ色々でしたね。でも、杉の入小学校に逃げているだろうという想定で迎えに来てくださる親御さんがいたり、他を探しながら杉の入小学校に辿りついた方もいたり、保護者に引き渡せる方はその日の晩から引渡していきました。
藻塩の里も一緒に逃げていたので、藻塩の里は単身で暮らしている方も何人かおられて、そういう方に関してはその方の生活力に応じてもう少し一緒に居た方がいいんじゃないかという方もいましたね。
ご家族と連絡が取れるまでは帰さずに一緒に居ましょうということで。自宅がどうなっているかわからない中、個別にその確認までをできるような状況ではなかったので。本人達も不安だから一緒に居たいってこともあったと思います。我々が送って行ったり自宅の確認までするというところは、その日の晩にはしませんでした。
熊井さん:利用者さんのご家族等に、携帯で連絡していました。それでたまたま、愛ちゃんの持っていた携帯がお母さんとつながりまして、連絡を取ることができました。お母さんが愛ちゃんの無事を知って、とても喜ばれたのね。
愛さん:はい。
熊井さん:うちの(旧)施設から、愛さんのご自宅までは歩くとだいたい30分ぐらいだったと思います。揺れが落ち着いたその後、お父さんが瓦礫を越えて、愛さんを迎えに来ました。(利用者の中で)一番最初でした。
また、当日は調理実習をしていたこともあり、お米や食べかけのものを温め直しながら食べていました。そんなに食べ物に困ったわけではありませんでした。
熊井さん:愛ちゃんの大きなバッグ見せてあげてください。
愛さん:いいですー!(愛さん恥ずかしそうに)ヤですー。
いつまでそんなの。(と、言いながら取りに行ってくれました)
熊井さん:これは愛ちゃんが、ぜったい手放せないものなんです。お父さんは道路に瓦礫があり歩けなかったので、人の家の屋根に上がって愛さんの長靴を持って(事業所のあったビルまで)迎えに来ました。そこをまた上がって帰るとおっしゃるので、私はその、あいさんの荷物を置いて帰ることを進めました。普通だと30分くらいで帰宅できますが、大変な時間がかかります。ですがお父さんは、愛にはこれがどうしても必要だと言って、持って帰ったのね。
愛さん:はいっ!
熊井さん:震災後、私と前所長が、愛ちゃんのお宅を家庭訪問しました。私は愛さんがご自宅の二階で寝られているか、心配で聞きました。そうしたら、やはり余震が怖いと言っていました。夜は上品(じょうぼん)の郷という道の駅に言って、自家用車のセダンの中で過ごされていたそうです。
それを聞いて、愛ちゃんたち家族が入れる、福祉避難所(障害者の方、家族が生活された)の部屋を貸してもらえないかと、(他の社会福祉法人)祥心会に交渉しました。そしたら、一つ空いていました。
愛さん:被災された人たちのこととかです。
熊井さん:お掃除してましたね。
愛さん:はい!
熊井さん:昼間はお家に帰ってきて、お掃除してました。
熊井さん: 2016年、復興住宅にお引越しされたそうです。(当時は)祥心会の福祉避難所から(同じく祥心会の)福祉仮設に移っていました。引越しをされるまでは、ずっと福祉仮設に居ました。
今はもう別の仕事をされていますが、その福祉仮設で、お父さんは管理人さんとして働いていました。住まいのすぐ近くで働いていたので、ご家族は安心されたと思います。
愛さん:洗濯とか掃除とかしてまして。
愛さん:掃除機をかけるのが大変でした。
熊井さん: 愛ちゃんも妹さんも以前のご自宅には個室がありました。お母さんが同じ場所に家族で居たのは、中々大変だったと、おっしゃっていました。
熊井さん:お父さんが働いているとはいえ、祥心会(別の事業所)だったので、溶け込むのは大変そうでした。愛さんのご家族は「織音」の利用者と隣同士だっただけで、他の人とは親しくはしていなかったようです。福祉仮設で生活されているほかの方は、知らない人同士だったようです。
尚子さん:家の人と、電話が繋がらなかったことです。
尚子さん:親が近所の人に、私が日赤(石巻赤十字病院)に運ばれたという話を聞いて、病院まで来てくれました。そこでちょっと話しました。
熊井さん:尚子さんのお宅は、地域に根ざして暮らしてらっしゃると思うんですね。
ご実家がお店をやってらして。
尚子さんのお父さんとお母さんは、彼女の様子を見に来ることができませんでした。けれども、近所の方が自転車でうちの方までいらっしゃったんです(旧事業所があった、避難していたビル)。
私が水をもらう為に泥で足元が悪い中歩いていたとき、ちょうどその方にお会いしました。そこで、尚子さんの無事をその方に伝えられたんです。
尚子さんのご自宅からうちの施設まで遠いのに。尚子さんの事を心配しているであろう、お父さんとお母さんの気持ちを汲んで、様子を見に来てくださったんですよね。ほんとに地域の方との関わりがあるんだなと思いました。
今野さん:(※家族構成は、お父さん・お母さん・お兄さん・お姉さん・今野さん)
津波で家もなくなって、父と母は行方不明だったんですね。兄は偶然、人に助けられて無事。姉も、地震の時は働いていたけど無事で。
兄は、橋浦小学校にいて、姉は北上中学校に避難していたんですね。姉が言うには、(避難当時)軽トラックの人に乗せてもらって助かったって聞いてます。(その後、二人と)合流した。
今野さん:はい。(現在、今野さんがいる施設と同じ法人の)「ひたかみ園」に。
柳橋さん:(震災後)今野さんは一般の避難所に身を寄せていましたが、すぐに兄弟で親戚の家にお世話になったそうです。けれど、(震災で)両親が亡くなられたので今後の事を考える必要があって、兄弟三人や親戚の人だったり、周りの支援者等で話し合いを行ったそうです。結果、うちの同じ法人内にある「ひたかみ園」という入所施設がちょうど避難所になったので、そこに入る事になりました。それから兄弟3人で、避難所での生活になったんだよね
今野さん:はい。「ひたかみ園」には兄と姉と3人で居たので、そこでお昼食べたりとかお風呂入ったりとか。
柳橋さん:そこから仮設に移って、今は3人で公営住宅に入ってるんだよね。
柳橋さん:もう一回、外に働きに出てみようかって話をしているんだよね。
今野さん:今後やってみたいとかはまだないんですけど…あと外に出るのは今はまだわからない。でも、ここの仕事は楽しくやりがいを持ってやってます。
今野さん:やはりもう、地震はこれ以上来ないでほしいなと思います。これ以上、家族を失ったら、どうやって生きていられるのかよくわからなくて。兄弟が大好きなので、これからも仲良くやっていきたいです。(今野さんは、震災でお父さんとお母さんを亡くされた)
3月13日に娘さんと再会された後にどのように行動されましたか?
娘と県営住宅に帰ろうと思ったのですが、会社の同僚に止められました。帰らない方がいいよ、近くの避難所に行った方がいいと。何でなのか自分ではわからなかったのですが、電気が止まったままで、水もガスも使えない、ご飯も食べられないということを同僚はわかっていたんです。聞こえるので、情報としてわかっていたんですね。「水、だめ」とかを身振り手振りで示してくれたので、それを見て理解することができました。私が聞こえないので、娘と二人だけでは心配だから避難所に行った方がいいと言われて、一緒に避難所まで付いてきてくれて、事情を説明したうえで紹介もしてくれました。避難所はお寺だったのですが、そこで娘と二人でしばらく生活していました。自分だけでは全く情報が入っていなかったので、電気やガスのことを教えてくれて避難所に行けたのは本当にホッとしました。
お寺にはどれくらいの期間いらしたのですか
だいたい1ヵ月半くらいですね。電気が復旧するまでですね。
食事はどんなものが出ましたか?
パンとかおにぎりですね。あ、それからカレーライスですね。本格的な、鶏肉が入ったやつ。それを食べた時は本当に一生懸命作ってくれたというのがよくわかったので、「満腹!」っていうくらい、美味しくいただきました。それでもまだ量があったようで、私には少し多すぎるくらいでした。他にもレタスのような野菜もたくさん届いたので、それも食べました。煮炊きをして何かを食べるというのは、頻繁にはできなかったので、毎日たくさんのサニーレタスをそのまま食べました。本堂の入り口近くにはお菓子や飲み物が置いてあって、それは自由に食べることができました。後は、新聞があったので、それを読んだりして過ごしていました。
お寺に避難されていた方は多かったですか?
だいたい100人くらいはいたと聞いています。トイレに行く時は、寝泊まりしていた本堂の入り口に置いてある懐中電灯を持っていきました。たくさんの人が隙間なく寝ているので、踏んでしまわないかという心配もあったんですけど、間を摺り足で歩いて行きました。
お寺に避難している間に一番困ったことは何だったでしょうか?
避難所に行ってすぐの頃なんですが、私が聞こえないということを周りの人がわからなくて、誤解があって。特に困ったのが朝なんですけど。「おはようございます」なんて声を掛けあう時に「無視された」と勘違いされたことがありました。おばちゃん二人から「若いくせに失礼な…」みたいな視線で見られていて、「なんでだろう、おかしいな…」と思って、隣にいたおばあちゃんに「あの人達に何か悪いことしたかなぁ」と聞いたら、「負けないで、強くいきなさい」ということを言われて、気づいたんです。私が聞こえないことを周りの人たちがわからないんじゃないのか、自分から伝えないといけないんじゃないかと思って、紙に「私、聞こえないんです。この前はあいさつに気づかずにすみませんでした」と書いて、次の日の朝におばちゃん二人に見せに行きました。そうしたらそのおばちゃん二人が「あぁそうだったんだ、聞こえると思ってた」というふうに言っていただいて、誤解が解けて笑いあえる仲になりました。その後、「あの人聞こえないんだって」ということを周囲の人にも伝えてくれて、私のことを呼ぶときはみんなが肩をトントンして呼んでくれるようになって、そのお二人には本当に助けられました。大事なのは、待ってるだけじゃなくて自分が聞こえないんだということを伝えていかないといけないな、と思いました。
良かったな、と印象に残っていることはありますか?
最初はすごく苦しかったという所があったんですが、聞こえないっていうことを伝えたら、スッキリしたというか、周りの皆さんとの交流もスムーズになって、本当にホッとしました。そこからは安心して生活が出来るようになりました。コミュニケーションはなかなか難しい部分もありましたけど、筆談とかでやりとりをしました。
着る物などはどうされていましたか?洗濯とかもなかなか難しかったと思うんですけど。
洗濯は水が使えなかったので無理でしたね。仕方がないのでずっとそのままでした。お風呂も無理ですし、髪の毛もゴワゴワしてきました。靴下がなくて裸足のまま逃げてきた人もいました。寒そうにしている人の様子も多く見ました。
他にも、携帯電話の充電ができない状況だったので、充電が一杯されている私の携帯を貸し借りしたり、発電機が来た3月の下旬からは、充電コードの貸し借りをして、みんなで充電していました。無くなると困るので、名前を書いて貼っておきました。
3月の末くらいには東京や大阪から支援物資がたくさん届いて、服なども届きました。「婦人服が届きました。希望がある方並んでください」っていうアナウンスがあったことを娘が知らせてくれて、近くにいたおばあちゃん達も「若い人に合う服が来たよ。一緒に並ぼう」と声を掛けてくれました。「アンタは若いから赤い服が似合うよ」っていっぱい勧めてくれました。自分の好みではなかったのですが(笑)それをもらって帰ってきました。他の人達も、苦しい現状を忘れて、あれが似合う、これが似合うなんて話をたくさんして、笑顔でいる様子が見られました。何かあった時に、お互い様っていう気持ちでやっていけたら気持ちも温かくなるものですね。
どうやって避難したのですか。
慌てて兄の車に乗せられて避難しました。
気づいたら道路に30センチくらい既に水が来ているのが見えて、道路に散乱したブロックや瓦礫に乗り上げながら走りました。
海沿いや孫のいる小学校の方まで車が渋滞していて、中学校の校庭にも車がいっぱい停まっていたので、別な狭い道路を抜け高速道路の下に車を置いて高速道路によじ登って避難しました。
海の方を見たらすごい津波で船や松の木、車などものすごい数が浮いていて大人も子供もみんな流されていてとても怖かったです。
松の木が家にぶつかったりしていて、その勢いや流れがものすごい速さでした。水面の上昇もすごくて、ここも危ないと感じました。
下に停めていた車はまだ大丈夫だったので、再び兄の車に乗って高速道路の下の細い道路を逃げました。内陸部の袋原方面や名取市文化会館、増田中学校へと走りましたが、行く先々が渋滞で車等もいっぱいで停められませんでした。姪が名取市の内陸部山沿いにある愛島団地に住んでいたので最終的にそこまで逃げました。
そこにたどり着いたのは何時頃でしたか。
5時頃だったと思います。2時間少しくらいですね。
それは早かったですね。姪の住む愛島団地まで行って難を逃れたということですよね。
そうです。息子夫婦や親戚たちもみんな山沿いの愛島団地に避難してきたのでそこで再会して無事を確認することができて嬉しかったです。ここの姪宅で5日間お世話になり、その後仮設住宅に移るまでの間、仙台の中心部にあるお嫁さんの実家の青葉区西勝山で過ごしました。
その間生活するにあたり、お嫁さんの実家では困ったことはありましたか。ご飯などはどうしていましたか。
食べ物も少なかったし、水道、ガスも止まっていて、煮炊きはできなかったので食事は思うようには食べられませんでした。ですから、ホームセンターでおにぎりやパン、水、そういったものをもらいました。
あとは市の方から配食が所々にあり、そこからもらっていました。
停電していましたし、家屋は瓦が落ちたりしていたのでブルーシートでカバーしていました。古いお家だったのでだいぶ壊れていました。1ヶ月間お風呂も入れず体はかゆいし、洗濯も出来ず、服の支援が無かったので着の身着のままだったのが辛かったです。
お嫁さんの実家の仙台市西勝山周辺にある避難所や支援センター又は公民館などには移ることはしなかったのですか。
移ろうとは思いませんでした。家の方が広いので。
震災の当日、2時46分に小山さんはどちらにいらっしゃいましたか?
一人で自宅の離れの2階の部屋にいて、テレビを観ていました。そこにあの揺れが来ました。もうハンパない揺れだったので、このまま建物ごと自分もダメになると思いました。
やっぱり、いつもの地震とは違うと思いました?
もう一気にガタガタが来たので。身動きが取れない。咄嗟に動いたのが良かったんですけど、5歩も歩けば部屋の入口のドアの壁のあるところに入れたので。そこでの時間は本当に長かったです。
2階から1階までの避難というのはどのようにされたんですか?
自宅ですので感覚も慣れています。今より視力がもう少しありましたので、2階から庭に出て行くのはできました。
地震の瞬間、津波という意識はありましたか?
はい。私の場合はもともと地域が昭和の津波、チリ地震津波が来た地域で、小学校の頃から避難訓練は地震と津波のセットで行われていました。それと、2日前にも地震がありましたよね。その地震でも1mくらいの、船がひっくり返りそうな津波が来たと聞いていたので、間違いないなと。5、6mくらいのは間違いなく来るなと直感しました。ですが、15、6mを超える津波が来て自宅が流されるとは思いませんでした。
被害状況についてお聞きしたいのですが、建物は全部流されてしまったということですか?
自宅も納屋も土台を残して全壊流失しました。
ご家族はご無事でしたか?
家族は、それぞれ出勤していて、それぞれの場所で被災しましたが、無事でした。それが何よりでした。みんなそれぞれが流されたと思っていたので。震災発生直後から携帯電話もつながらず、直接、会うまで数日から一週間、安否が確認できないという状況でした。地元に入る情報は悲観的な情報が多く、家族の目撃情報が遠くから歩いて地元に戻った知人から聞いても、具体的な状況がわからず、直接会って、はじめて安心した、あのときの思いは忘れられません。