避難場所

避難行動の中で

最初の避難場所までの移動は徒歩ですか?

徒歩と、車も平行して。

避難行動中の動きはどうでしたか?

工房の近くにコミュニティセンターがあったんです。その後ろに公園がありました。
公園のような広いところ、何もないところに行ったほうが安全じゃないかっていう情報も、移動避難する中、聞こえてきました。
公園に避難している方もいました。あの位の揺れだったら、建物がなくて倒れるものが何もないところの方が、安全な気がしますよね。
あの時もし、地震の発生が工房からの帰宅時間だったら、利用者さんの自己判断で公園を選ぶ危険性がありました。
個々の判断にゆだねたら、もしこっちおいでって言われたら、付いていくこともあったのではと、今考えると怖いですね。

避難時の利用者さんは何名でしたか?

当日、利用者さんは7人いました。一緒に避難したのは6人。1人は、レクリエーションで早く終わったこともあって、地震発生前に先に帰っていました。私たちは工房にいた利用者さんと一緒に避難しました。

そのあと、津波は何分くらいで来ましたか?

私たちはその後、荒浜小学校ではなく内陸の小学校に逃げたので、津波自体は見ていません。

その内陸の小学校へ逃げるという判断も、ここもまずいんじゃないかってことからですか?

そうですね。ラジオから聞いた津波の高さの情報が、あの時、時間と共に変わっていったので。
荒浜小学校に行って混乱していたのもあって。車で敷地内に入れなかったこともあり、また、小学校の周辺も渋滞していました。そういうこともあり、一旦、小学校の近くのコンビニに避難したんです。
交通量の多い県道も近くにあり、渋滞していたし、その人たちが避難する場所となれば荒浜小学校しかないと思いました。そういう流動性のある県道を走るドライバーの人達も校舎入りきれるのかなって、心配になり、一旦私たちは近くのコンビニに待機しました。
コンビニ前は県道で、目の前で渋滞も見てますし。避難場所の再検討を始めたんです。
その時に、ラジオの情報が変わって、「10メートルの津波が来る」と。10メートルだと、3,4階しか、安全な場所って確保できないですよね。なので、このままここにいるのは危険だなと判断しました。
荒浜から4キロ先に七郷小学校があるんです。そこが、数年前、工事をしていたのを思い出しました。耐震工事をしてたということで。そうしたことも含めて安全を考えて、避難先を七郷小学校に変えました。

津波からの避難

誰かがラジオを点けたので、津波警報が発令されたことに関しては割と早く入ってきましたね。
サイレンが鳴り始めたのでこれはただならぬ雰囲気だということになり、そしてラジオからもそういう情報が入ってきて。ここは沿岸部でもあるし、このままここに居ない方がいいだろうなと。あまり迷いなくすぐに避難しなきゃいけないということで。
避難場所は車で行くと2~3分位の杉の入小学校に行きました。高い所にとにかく上げるということを常に考えているので、斜向かいにあった、坂を登って一段高くなっているスーパーの敷地までまず上がりました。スーパーの屋上から上の道に出れるので、そこを目指してまずは皆をピストンで移動させようということで。
歩ける方は歩いて行ってもらい、歩くのがちょっと遅いと思われる方は車で二往復くらいして、その間、車が渋滞などでもし止まってしまったらすぐ捨てる、だけど動いていれば車の方が早いから、動いてる間に、公用車と一部職員の車を使って全員をまずはスーパーの屋上まで連れて行くことができました。
指示を出した後、私は最後の車に乗るようにして、屋上で落ち合うということで。歩きのメンバーも屋上まで上がってもらって、だったと思います。
30分かからずにそこまでは辿り着き、しばらく「じゃあ、どうしよう…」とはなりましたね。全員が車には乗っていなかったですし、もの凄く寒い日だったわけで、あの日は。これはやはり、どこか屋根・壁がある所に行った方がいいだろうということで。避難場所が杉の入小学校というのは認識しているので。
スーパーからは平らに、300、400メートル位歩くんですが、歩きの方はそのまま歩き、車の方は車で行きました。受け入れてくれるかどうかとか、他の人が避難してるかとかそういうことはよくわからないままにまず杉の入小学校まで行きました。

避難した3日間

海に近かった「織音」の建物は、大きな津波に飲み込まれてしまいます。しかし利用者や職員全員で建物の上階に避難し、みんな無事に乗り切ることができました。

当時、利用者さんは何名いらっしゃったんですか?

熊井さん:利用者は8名くらいです。その中には、支援学校を卒業した男の子が一人、小学校6年生の女の子がお母さんと一緒に遊びに来ていました。その人数で、一週間ビル(以前施設があった)に避難していました。たまたま、スタッフは全員いました。
(揺れが収まってから、)一度違う場所に避難するために車に乗せたところで、一人の利用者がトイレに行きたいと言い出しました。それで、(事業所があった)ビルに戻ることにしました。その時、近くに住んでいたビルのオーナーさんが、うちのトイレを使っていいよって、言ってくださったので、うちのスタッフ数名とその利用者と一緒にオーナーさんのお宅に行きました。
その間に津波が来たので、日曜まで(当時3月11日は金曜日)スタッフたちとその利用者は、オーナーさんのお宅にお世話になっていました。
オーナーさんのお宅は建てたばかりなのに、一階がだめになってしまいました。津波が来る前だったので、スタッフたちは靴を脱いでお宅に入ったため、靴をだめにしてしまいました。

夜は道の駅で

愛さんの自宅は津波で一階が被害に遭いました。

熊井さん:震災後、私と前所長が、愛ちゃんのお宅を家庭訪問しました。私は愛さんがご自宅の二階で寝られているか、心配で聞きました。そうしたら、やはり余震が怖いと言っていました。夜は上品(じょうぼん)の郷という道の駅に言って、自家用車のセダンの中で過ごされていたそうです。
それを聞いて、愛ちゃんたち家族が入れる、福祉避難所(障害者の方、家族が生活された)の部屋を貸してもらえないかと、(他の社会福祉法人)祥心会に交渉しました。そしたら、一つ空いていました。

その当時、車の中でお父さんたちとは、どんな話をしましたか?

愛さん:被災された人たちのこととかです。

熊井さん:お掃除してましたね。

愛さん:はい!

熊井さん:昼間はお家に帰ってきて、お掃除してました。

医療支援が必要でした

尚子(しょうこ)さんが最初に不安になったのは、停電のため痰吸引器の電池が切れて、苦しくなるかもしれないということでした。

揺れが収まってからは、ご自宅に戻られたんですか?

尚子さん:いえ、(旧事業所から)近くの湊小学校に移動しました。そこに二晩泊まったあと、自衛隊の人に日赤病院(石巻赤十字病院)に連れて行ってもらいました。

病院にはどのくらいいましたか?

尚子さん:たぶん、10日くらいだと思います。

熊井さん:尚子さんには痰の吸引が必要でした。避難所になっている湊小学校にお話したところ、日赤に連れて行く手筈を整えてくれるということでした。そして、日曜日(3/13)に移動してもらいました。私たち職員は、移動したその日にすぐ、病院に連れて行かれるものだと信じきっていました。けれども実際は二日後に移動したという話をあとから聞きました。
 (小学校に居た2日間)小学校のすぐ隣には看護学校があったので、はじめは準看護師さんや看護学校の生徒さんに診てもらっていたそうです。その後、その方たちは日赤に招集されたので、ヘルパーをやっている方たちに支援してもらっていたということでした。

集会所での2日間

高台に避難した後、100人近い職員さんはどうしていたんですか?

自宅の様子や家族の様子を見に、徐々に帰っていく人もいました。近くに家がある人は歩いて帰って行きました。私は集会所に2日間いました。地域の人も集まってきて、家が流されたりつぶれたりした人は1ヵ月くらいいる方もいたようです。

 

集会所は水は出ましたか?

出ませんでしたね。他の人が車で遠くまで行って、山の水をタンクで運んできてくれました。みんなで少しずつ飲み水として分けていました。食べ物は1日1食、同僚と夜に缶詰を食べました。二人で半分ずつ食べて、お腹は空いたしすごく疲れました。

 

集会所は広かったですか?

だいたい20畳くらいですね。10畳くらいずつの二部屋です。

 

ぎゅうぎゅう詰めでしたよね?

ほんとうにいっぱいでした。布団もないし。裏の家の人が毛布なんかを支援してくれて、本当に感謝しています。とても寒かったので、隣の人とピタッとくっついていました。足を伸ばすくらいのスペースも無かったので、ずっと曲げたまま眠るような感じでした。会社の作業着のままだったので、とても寒かったです。

 

周囲の同僚とはどのような会話をしていましたか?

ちょっと会社の人に「何話してるの?」と聞いてみると、周囲の同僚は家族の安否確認をしていたようです。家族のことが心配だから帰りたいと。私も3月12日に帰りたいということを伝えましたが、会社の近くは火事になっているからと止められました。それで、3月13日に同僚と一緒に娘の学校まで歩いていき、無事娘と再会することができました。

前日の3月12日に会社の上司から「娘の名前は何?歳はいくつ?」と筆談で聞かれました。それを子供のいる人たちみんなに聞いて回って、メモを取っていて。上司が歩いて1時間くらいの小学校・中学校に確認に行ってくれました。「お母さんは大丈夫ですよ、お父さんは生きていますよ」と、先生に連絡をしてくれたんです。そして「娘さんは元気ですよ、無事ですよ」ということをみんなに伝えてくれて、本当に安心しました。

 

会社の方々とのコミュニケーションというのは、普段はどうしていたのですか?

筆談です。震災の時はたまたまカバンに「筆談ボード」を入れていたので、それを使ってやり取りをしていました。もし、紙が無ければ…身振りとかで何とかするか、何も言えなくて情報の伝達の仕方がなくて我慢するしかなかったかもしれません。

 

避難する時には、周りの方に手を引かれて避難したのですか

いえ。前後を同僚に挟んでもらって、前の人に付いていく形で避難しました。

 

会社には松田さん以外に聴覚障害がある方は働いていたのですか?

いえ、私だけでした。他には知的障害をお持ちの方がいらしたんですけども、その方も一緒に逃げました。

避難所で

当日の夜はひまわりで過ごしたのでしょうか?

いえ、近くのケーウェーブ(気仙沼市総合体育館)にみんなで避難しました。商品のクッキーを持って。ケーウェーブは高台にあるので、何かあったらそこにという意識はありました。すでに多くの人が避難していましたね。

 

ケーウェーブには暖がとれるようなものはありましたか?

ないです。毛布のようなものもありませんでした。最初はみなさんと同じ広い場所にいたのですが、利用者さんにとってはいつもと違う場所、状況、ご両親にも会えない状況で、多動的な行動がどうしても出てしまって。避難している方みんなが不安な状況の中で、自分のペースが保てない利用者さんがその場にいづらくなってしまって。お手洗いにいってもすごく冷たい目で見られてしまって。誰が悪いわけではないんですが、避難している方すべてがもう限界の状態で。でもうちの利用者さんはなかなか現実を受け入れられないものですから、トイレに行けば大きな声も出るし、楽しいわけでもないのに飛び跳ねてしまう。なので、健常の方と同じ場所にいるのは難しいということで、ケーウェーブの事務員の方に事情を説明して別の部屋を貸して欲しいとお願いしたんです。けれど、なかなか理解してもらえなかったですね。でも他に人に迷惑がかかるからと説得して、どうにか会議室をお借りすることができました。その晩はそこで職員、利用者さんが「の」の字になってクッキーを食べながら過ごしました。でも、次の日にはもうそこに居れる状況ではなくなったので、ひまわりに戻ってきました。

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