作業の変化は大幅にありました。荒浜の時は農作業がメインでした。900坪の畑で農作業をやっていましたが、津波で畑もなくなったので、手芸をメインにすることになりました。
利用者さん達もやるしかないと、すんなり受け入れてくれました。やることがあるだけで嬉しい、仕事どうこうじゃなくて、みんなで一緒に過ごせる場所でなにか一緒にやれるっていうことがまず嬉しかったんだなぁと思います。もともとみんな仲が良かったですしね。
そうですね、仕事というか、生きること自体の考え方が変わったと思います。その変化は、彼らにとってすごく強みっていうか、生きていく上でなにか変わったことなんじゃないかなって思います。それは、本人達も言ってました。
発症によりご自身と社会との関係が変わることがあります。精神疾患は特に社会の理解も低いこともありますし、病状がしんどくて会社も辞めざるを得なくなったり、友達との関係も疎遠になったり。家族とうまく関係性が作れなくなったり、多くの当事者はとてもつらい経験をされています。
自分への疎外感とか、病気になったから自分はもうダメなんだっていうような否定的な考えになってしまうことがあります。
だけど、これまで自分を否定的に捉えがちだったけども、この震災を通して自分が今出来る役割を見出し、自己肯定感が広がったんです。生きていること自体がすでに一歩進んでいる・ありがたいと思うようになりました。
生きていることが0じゃなくて1からスタートになってるという捉え方ですよね。その捉え方って大きく違いますよね、今までと。前向きにというか、自分をもっと大切にできるようになりますよね。そういう自身への捉え方・気づきの変化は、私達の支援ではなかなか超えられない壁です。
自分で気づいた存在感っていうのは、自分のものですよね。それを震災は気づかせてくれました。
つらい体験の中で見出したそういう変化は、今後の利用者さんの人生にとって代えがたい大きな力になっていますね。
震災前は十何社かな?町内の企業さんから仕事いただく委託作業が中心でした。自主製品はなかったんですよね。
再開してすぐは仕事としてやることがないので、とりあえず集れることへの喜びと、今目に前にあることをやろう!というような感じですよね。それで畑作業を始めたけど、慣れる慣れないとか云々よりもやるしかないっていう。
ただ雨の日になると、プレハブ内は立ってじゃないと職員も利用者さんもいられないスペースしかなかったんですよ。
だから、雨が降ったらどこかでかけるっていう。本来逆な感じなんですけど、そんな生活でしたね。
集るところができて、久々に会った方々もいらっしゃったので、笑顔が出ました。毎週、週替わりでJDFの方々も来ていましたしね。
利用者さんのご家族も仮設とかの手続きも始まってきた頃だったこともあり、日中預ける場所があるっていうのが良かったっていう声もありましたね。
私も畠山も先のこと考えた時に、畑作業は冬があるのでずっと続けられないよねって、中でできる作業的なものがなければねって話をしている中で、たまたま現場の中から紙漉きはどうですか?っていう話が出て。
その流れで、「社会福祉法人 仙台市手をつなぐ育成会」の職員さんが訪ねて来てくださった時に、紙漉きやステンシルの道具一式をもらいました。紙漉き作業を進めている時に、さらに社会奉仕団体の「世田谷ライオンズクラブ」の方とお会いして、紙漉きの機械を入れていただきました。
次の町有地のプレハブには、寒くなる前の11月に移れました。入谷地区にあったのよりちょっと大きいんですよ。雨の日も入れるようになって、エアコンとかもつけて、これで冬越せるねって感じでホッとしました。
そうやって、やれることが広がっていく中ではあったけど、最初の2年か3年は、言い方悪いんですけど、お祭り状態っていうか、自分たちも整理できないまま日々過ぎて行く感じでした。
色々なことを、自分たちで決定していくタイミングも、もちろんありました。でも、みなさんが気にかけてくださる中で、自分たちで決めたっていうよりか、来て下さった方たちが決めたことが多いんじゃないかなって思う時があるんですよね。
本当にすごい方々と出会って、タイミング良くタイムリーに支援していただいたなって思います。その時は気づかなかったわけではないんですが。
利用者さんも同じく、私とか畠山を介して、いろんな方々が来て、気づいたら紙漉きの機械が入っているとかそういう感じだったと思います。モチベーション高くやっていたというよりか半ば強制的な感じで、やるぞ!って勢いよくやっていたというか。日々変化していく中で順応していくという感じだったと思います。
あと、最初いただいたステンシルの道具は誰がやっても同じくできるっていうものではなかったんですよ。マヒのある方は、押さえが必要で。そういうツールに関しては、自分たちで考えたりして、やり方を見てる中で工夫をしてました。
そういうこともあり、震災前に家の農作業のお手伝いするために休んだりしていた方が、震災後、紙漉きが始まっていろんなことが忙しくなると、お家の事情でお休みするのは全然問題ないのに、本人がすごいやる気になってくれて、「俺が休んだら仕事回らない」って自信を持ってやってくれていました。誇りを持ってやってくれてるんだなって思いました。
週替わりにJDFの支援員さんが来て、だんだん打ち解けていくうちに、利用者さんって、自分の体験したことしか伝えられないので、自分の体験をそのまま彼らに話していくんですね。
その中に成長を感じるんです。まったく同じ話を別の人にしているんだけど、先週と違う伝え方してるなとか。
それは、障害があろうがなかろうが経験なんです。
震災っていう見えない傷を負っている中で、しゃべることで浄化されたり、自分の中で受容が深まるっていうことですかね。
例えば、未だにひきずっている感があると思うんですけど、多くの女性の利用者さんが震災後、持ち物が多いんです。自分がでかけてる中で地震がくるのが不安で。我々はそれを見てまだ続いているんだなって思っているんですが。家が流されて自分の宝物がなくなったので。
ただ、話しているうちに自分のうちや大事なものがなくなったんだっていう実感を、毎週違う人だけど他の人に話すことで納得していって。
最初は受け入れられなかった状態がだんだん話すのが続いて、かつ毎週人が変わるから、話せたことによって落とし込んでいって成長できたんですよ。あったこと自体はなかったことにはもちろんできないんですけど。
異性と写真撮るのが好きな利用者の方が、最初は自分で声かけられなかったんですけど、自分で声かけてみて写真を撮るっていう作業を、だんだん繰り返していくことで、できてくるっていう成長もありました。
おそらく利用者さんにとって、お互いやり取りしていく中で勉強しあうというすごい貴重な経験だったなと思いますね、震災後の人との関わりというのは。
かよ子さん:でもね、(震災の影響で)何も作業が無い中で救われたのが(事業所がある建物の)館内の掃除を委託してくれた業者さんが、みなさんががんばって仕事をしている姿を見て、ほんとに必要以上な報酬で委託してくれたんですよ。
かよ子さん:震災後平成24年度でした。
私たちもどうにかしなきゃいけないと。それで利用者さんに「ちょっと皆さん若いときなにやってきたの」って聞いてみたんです。
そしたら、わかめの芯抜きやったことありますっていう話になって。たまたま知り合いの方が、ボランティアで地域の広報誌やってたんです。それで、このくらいの枠でいいから、「くじらのしっぽ、わかめの芯抜き作業できます。ご相談ください。」って、記事に載せてもらったんです。
多田さん:そうしたら、(連絡が)来たんですよ。そこから紹介してもらって「体験してみる?」って言ってくださったんです。自分が、実際に体験しに行かせてもらいました。
かよ子さん:わかめ業者さんも再建したけども、働き手がいなくなったそうです。それで、なんかいい具合にマッチングしました。ただ、私たちには条件があって、その現場までは行けませんよって言ったら、わざわざここ(事業所)の作業場まで、わかめを持ってきてくださったんです。そして、出来ましたって連絡すると、とりにきてくださるんです。そこから、毎年この作業場でわかめの芯抜き作業してるんです。
かよ子さん:この震災は大変だったんですけれども、得るものも多かったですし、考え方が変わりました。牡鹿地区は、人口の流出とかがあって、ますます高齢化してきています。わかめの話で言えば、我々が担い手っていうか、やんなきゃいけない。みなさんと一緒にね。
震災が故に出来なくなってしまった作業もありました。これは施設外就労のグループですね。依頼を受けていた会社さんのほうも被災したので。
施設開設当時の廃品回収は、ご協力頂ける方の所を長い距離走り回ってちょっとずつ頂いてきて。震災以降は明確にシフトして町内会ごと巻き込み、それにともなってトラックを導入しました。近隣の地域の回収に特化してどんどんやっていくために、それまで開拓した所は近い事業所に全部出してしまって。そうすると、一時は量が減るのですが、案の定始めてみれば必ず増えていくので、最初は少なくなるものの何ヶ月間の中で挽回できるという。挽回できてからは小さなエリアの中を動き回るだけでトラックがいっぱいになりますよという形に変えていきました。
あと発泡スチロールの仕事が始まっていったのも震災の後なんです。一時目減りした収益をその二つの作業で埋めていきました。補って、余りがある状態にまでもってこれたかなと思いますね。
なぜ売り上げを出すかと言えば、それは利用者さん方が少しでも一生懸命働いたら沢山もらえるようにということなんですが、保障という言葉は使えなかったりするんです。ですが、できれば下げないでやってあげたいと思うし、保障はできないけど安定して売り上げることを目指してやってきました。
利用者さんは玄人肌ですよ。利用者の得意なことをしていく。あとは誰でもできるような作業をしていくことをいつも心掛けています。
いつの間にか以前と同じような雰囲気とか流れとか。作業の方も全く入れ替わった訳ではないので、失ったものもあるけれども、今までやっていたことのやり方を変えたり、発展させた形だったので、そんなに混乱もなく利用者さんもそれを受け入れてやってくれてたように感じます。
仕事をくださっている方達に助けていただきましたね。
再開については待ち望んでいた方が多かったと思います。皆自分の我を出さないで我慢してくださいました。ああいうことをくぐりぬけた先の心持ちというのは、個人としても同志のような感覚が芽生えてきた感じがありました。同じ困難をくぐりぬけてきたわけですから。利用者さんの震災前と震災後の大きな変化はあまり感じないですね。淡々と同じような感じでおられるかな・・・。幸い、利用者さん方に、例えば精神的に心理面で何かトラウマになり、思い出して急に怖がるようなことがなかったので、そこは不幸中の幸いというか、良かったなと思っています。
熊井さん:利用するメンバーが変わったというのもありますが、リーダーシップをとってくれるようになりました。愛ちゃんが二十歳だったのが、今度26歳になりますから。
私と前所長が目指したのは、家に居る障害のある方が、毎日通える場所にしようということです。
震災前後から、支援学校卒業の方が入ってこられるようになりました。そうすると、ベテランの方と若い子になって、バランスがとても良いんです。うちに来られる方は、障害の重い子が多いんですけれど、結構育っていくんですよね。自傷行為なんかする子も、上(リーダー)になってみたりとか。
案外、寝てばっかりいてサボっていた子もいたのに、わからないものですね。
尚子さん:んー、それほど感じないですね。
熊井さん:彼女は以前、普通のOLさんでした。25歳で血管の病気を患って。それから10年ほど経って、こちら(事業所)に来られるようになったんです。
「織音」に来る前の10年は、誰とも会いたくないという感じだったそうです。でも、お友達がやっぱり出たほうがいいって言って、うち(織音)をすごく薦めてくれたようでした。いやいやここに来たみたいですけどね。
熊井さん:そうですよね。
この震災がきっかけで、いろんな方が彼女にインタビューをしに来てくださいました。それで、人との関わりにも強くなったようです。写真などに写ってもぜんぜん平気のようで、変わられたのかなと思います。
尚子さんのお父さんとお母さんも歳をとられてきたので、彼女には自立を後押ししています。ショートステイできるようにするなどの一歩を、今、踏み出そうとしている状態です。
震災の前と後で、精神面あるいは体調面で変わったと感じることはありますか?
あります。すごく痩せたんです。娘も同じです。当時中学校1年生だった娘にはいろいろ助けてもらいましたが、ただ、やはりパニックになる所もありました。一番娘がイヤだといったのは「警報」です。雨が降ると水かさが上がりますとか、道路が通行止めになりますっていう放送が鳴るたびに怖がっていました。余震があればすぐに目が覚めて、荷物を持ってすぐに家を出ることの繰り返しで、本当に精神的に疲れました。
LEDの携帯用ランプや懐中電灯を部屋にたくさん置いて、寝る時も光がある、何かあったらそれを持ってすぐに逃げられるようにしていました。それは今も変わらず置いています。食べ物もそうです。備蓄というのは今もしています。
防災意識が高まったということですよね。緊急情報の取得というのは、震災前はどのようにされていたんでしょうか。
テレビ、スマホです。アプリなどを活用していました。娘が学校などでいない時は耳からの情報が入らないので、スマホとかテレビを観て情報を得ます。街中のことでいえば、電光掲示板のようなものがあればいいなぁと思うことがあります。私の場合は、筆談などで「何があったの?」と聞きに行ったり、周りで話している人の会話を読み取るために気を巡らせないといけない。何度も何度も聞いているうちに、聞こえている人もこちらも互いに気を遣ってしまうんです。できれば音声放送以外にも、見てわかる物も示してもらえるとありがたいですね。
震災を経験して、聴覚障害の方に向けて備えておいた方がいいと思うことやアドバイス等があれば教えてください。
熊本地震のニュースなどで、家族に聞こえない人がいる時に、情報が入らなくてご飯の配給が3日間もらえなかったというのを見ました。避難所ごとに状況はまちまちだと思うので、隣近所の人たちには、自分が聞こえないということを伝える、ちょっと面倒だけどニコッとして(笑)伝えることが大事かなと思います。苦しい表情とか不満な表情を見せるのではなく、「よろしくお願いします」っていうふうになれば、周りの人たちも「いいよいいよ」って言ってくれると思います。「多くの健常者の中にろう者の自分が一人だけいると、遠慮してしまったり、何か恥ずかしい」というろう者の方のお話を聞きました。「障害の無い人と障害のある人の部屋を分けるっていうのも一つの案なのかな」と言っている障害者もいました。
聴覚障害の方を健常者がお手伝いする際に、どういったことを意識しておくといいか、教えてください。
聴覚障害は見た目ではわからないという部分があるので、自分が聞こえないんだということを周囲に向けて表す必要があると思うんです。自分から発信していく。中には黙っている人もいるんです。個人の性格的な部分でもあるんですが。「聞こえていないのに、サポートされない」という不満を持つ方もいるんです。なので、支援してくださる方には、最初に「聞こえない人いますか?」「障害のある人いますか?」「病弱の方いますか?」「薬飲んでる人はいますか?」なんて紙に書いて出してもらう、確認してもらう、そのうえで対応してもらえるとその後が楽だと思います。みんなに見てもらって共有できたうえでサポートしてもらえる形だといいなと思います。
聴覚障害を持った方とコミュニケーションを図ろうと思った際に、手話ができなければ、簡単な方法としてはやはり筆談になりますかね?
そうですね、やはり筆談とか、あとは身振り手振りもいいですよ。
健常の人に知ってもらいたいことや訴えたいことはありますか?
あります。聞こえる人は津波が来るいうことも会話や警報を聞けばわかる、でも聞こえない者はそれがわからない。どうしたらいいんだろうってなった時に、聞こえる人が手をつないだり服を持ったりでもいいから、一緒に行動してもらえるとありがたいと思います。聞こえない人は自分で勝手に動くというよりも、聞こえる人達の様子を見て、真似て一緒に避難するっていうのが多いと思います。紙とかが無い場合は仕方がないから手の平に書いたり身振り手振りだったり、表情だったりで示してもらって一緒に逃げる。その後別れるとかでも構わないです。それが発災直後の話ですね。
あとは懐中電灯が必要なんです。筆談をする時や、携帯電話の画面に文字を打って、それを聞こえる人に見せるとコミュニケーションが取れるんです。暗い場所で見てもらうためにも、懐中電灯は欠かせませんね。今、便利なアプリがあって、打った文字を大きく見せることができるんです。筆談するものが無い時には、こういう携帯電話とかを使って、情報を伝えたり、情報を得たりしていくんですよ。ただ、バッテリーが無くなるとそれで終わりなんですね。電池残量が少なくなるとハラハラしてしまいます。
5月くらいまで避難所にいらっしゃって、その後は仮設住宅に入られたのですか?
みなし仮設扱いで空家を借りました。地元から車で20分近く離れた所に家族で住んでいました。
そのみなし仮設にはどのくらいお住まいだったのですか?
2016年の9月まで、5年4か月ですかね。昔建てられて人が住んでいない所だったので、最初は環境認知もできず、屋内でも自由がきかず、なかなか大変でした。それでもプレハブ仮設よりは家族のプライベート空間が確保されて、アパートなども空かない状況の時に貸して頂いたので、それが一番感謝しています。
みなし仮設というのは市の方から情報をもらって入ることができたのですか?
私の場合は知り合いからの紹介でした。避難所にいつまでもいるわけにはいかないし、早く落ち着ける場所にという家族の意向もあって、障害のある私には不便なことや不安も大きかったですが、空家を借りました。この地域には他にも空き家がいくつもあり、被災者が一度は入居したようですが、山に囲まれた地域でカメムシやテントウムシ、ムカデなど虫が多く、プレハブ仮設住宅へ移った方々もいたそうです。私たちが住んだ家も6、7年は空家にしていたので、掃除はしていても、虫はたくさん発生していました。それでも家族としてのプライベート空間の確保ができたこと、家族で生活できる場所ができたこと、本当にありがたかったです。