写真:避難生活を過ごした石巻市社会福祉協議会北上支所
お話:立身(たつみ)憲一さん(男性/当時60代/視覚障害)写真:避難生活を過ごした石巻市社会福祉協議会北上支所
お話:立身(たつみ)憲一さん(男性/当時60代/視覚障害)そんな感じで北上中学校に3日間、社協の建物に2日間、市内に住む甥の家に2週間避難してましたね。社協はうちの集落の山裾にあるんで。目の前まで水は来ましたが、建物は無事だったので。
ご自宅から北上中学校まではどれ位の距離なんでしょうか?
2キロから3キロくらいですかね。
北上中学校はもともと避難所として指定されていたんでしょうか?
はっきりと避難所として指定されていたかは分かりませんが、宮城県沖地震がいつか起きると言われ続けていたんで、避難所という意識はあったと思いますよ。広いし、車で避難しやすいし、建物もあるし。
立身さんは何かあったら北上中学校に避難しようと思っていたのですか?
思ってないです。そもそも津波という頭がないから。
北上中学校には飲み物や食べ物はありましたか?
近くの温泉の方が炊き出しに来まして、一口大のおにぎりとか、ウィンナーとか、卵とかが配られました。贅沢が言える状況ではなかったです。
立身さん以外に障害をお持ちの方はいらっしゃいましたか?
そこでは私だけだと思います。名乗らないだけでいたのかも知れませんが。周りの方からは常に声を掛けてもらってました。
避難所で困ったことはありましたか?
困ったと言っちゃいけないんだろうけど。例えば、トイレはバケツに水を汲んでおいてそれで流すんだけど、自分は感覚でできるから正直苦にならない。でも、周りの人は気を遣ってやってくれるのね。嬉しいんだけど、感覚で生きているもんだからひとつズレると、いろんなものがズレちゃう。そうなるとトイレに行きにくくなってくる。
それは、周りの人が気を遣ってくれるのがかえって申し訳ないなと?
そうそう。そうなってしまう。ひとりなら何とか流したりというのはできる。でも、そういう問題じゃないんだなと思って。何か変な意味で気遣ったのかなと。
遠慮でしょうかね。
そこから社協の建物に移動して。カップラーメンとか物資がいろいろ届くから。そこで感じたのは、同じ集落の仲間の中で視覚障害者は自分だけなんです。次の日から捜索やら何やらやるじゃないですか。動けないのが自分だけなの。2人組になるとしても、自分と組むと荷物になる。みんな精一杯でそれどころじゃない。そうなって初めてそこにいるのがつらいと思った。後日、横浜に住むもう一人の甥っ子が訪ねてきたんだけど、一緒に横浜に行こうと思いました。申し訳ないと思いながらね。それで横浜の方で4ヵ月ほどお世話になって。白杖とか何も無いので、宮城県の視覚障害者福祉協会に電話したら、横浜の視覚障害者福祉協会を紹介してもらって。電話したらすぐ来てくれることになって。また、そのときに障害者福祉施設の方と知り合ったのですが、そこで箱折りなどの作業を一緒にやらせてもらって。半日作業して、午後にウォーキングとか、ボランティアの人たちと一緒に歩くんですよ。いろんな所を歩かせてもらってね。こんなこと言ったらバチが当たるかも知れないけど充実していましたね。でも、施設ではいいんだけど、住まいの方ではどうしても気を遣ってしまうんだよね。
長くいるとそうなりますよね。
だからちょっといろんなことが見えてきたかなと。で、たまたま仙台のアパートに引っ越しできるようになったので、引っ越しました。そこには5年いましたね。仙台に越してからも宮城県の視覚障害者福祉協会とかいろいろな方に協力してもらって助かりましたね。横浜にいても仙台にいても充実していたというか、勉強になったと思います。