飛川義親さん

お話:飛川義親さん(男性/当時40代/SMA[脊髄性筋萎縮症])

地震発生

足が悪くなったのは、小さい頃からなんですか?

もともと、小さい頃からですね。もうそれこそ発病したのが1歳かそこらへんくらいで、やっと病気が見つかったのが小学校2年生の時です。SMAって、脊髄性筋萎縮症っていうだんだん筋肉が衰えていくっていう国の難病指定になっている病気なんですよ。20歳ころまでは歩いてたんですけど、一回転んで怪我してから、危ないっていうんで車いすに乗ってからは立てなくなっちゃって。

 

そうなんですね。3.11当日はどこで何をされていましたか?

デイサービスにいたんです。石巻や矢本、東松島の方が来る障害者のデイサービスなんですよ。自宅から車で5分くらいの所です。住所でいうと東松島の赤井地区。みやぎ東部循環器科っていう病院のすぐ横です。

けっこうそこの津波は1メートルくらい来たんですよ。デイサービスだからバリアフリーになってるんで、低いんですよ。道路と同じ高さなんで。いつも15時になると終わりなんですけど、その時はちょうど卓球バレーやってたんです。ただ、その日は私ちょっとできなかったんで、リラックスモードに入ってたんですよ。「もう少しで帰れるなー」なんて思いながら、ちょっとウトウトして。そうしたら一斉に携帯が鳴り出して、揺れて。

石巻西高の所に老人ホームがあるんですけど、最初はそこに避難しようって話になったんですけど、車を用意したりなんかしてるうちに外から「津波きたよ」って声がして。しようがないから、デイサービスの所長が東部循環器科の方に走って行って「避難してもいいか」って言うのを聞いてきて。そこから東部循環器科に全員避難したんです。30~40人くらいですかね。避難の前からそこの駐車場に津波が来てるんですよ。道路に波が来て、そこを職員が一人ひとり運んで、東部循環器科の建物の中に入れて。少し建物自体が高くなっているので、車いすも10台くらいあるのを全部運んで、歩ける人は歩くっていう感じで。

 

車いすは持ち上げて運んだんですか?

そうですね、3、4人くらいで水の上まで。人を載せたまま。

 

その時の津波の高さはどれくらいだったんですか?

まださらっと、職員の靴がちょっと浸かるくらいです。何も来てなければ車いすでも行けたんですけど、水も増えてきていたんで。

 

時間はどのくらいだったか覚えていますか。

石巻の方って、けっこう遅かったんですよね。定川(じょうかわ)っていう45号線沿いの川が決壊して、その水が来たんですね。15時過ぎくらいかなぁ。

 

その間職員さんが避難をどこにしようかという話し合いがあったんですね。

あっという間ですからね。情報を得るっていう手段もほとんど無かったんで。

 

その時点でラジオなどは聞けていましたか?

ラジオは無かったですけど、その時はまだ携帯電話が使えていたんで、震度いくらとか、大津波警報が出されたとか、福島で7メートルっていうのは私覚えてるんですよ。ただ、宮城県沖がどうのこうのっていうのは全然わかんなかったですね。

 

情報収集は基本的には携帯電話ですかね。

でしたね。ただ、職員の人が車のラジオを聞いてたかもしれないですけど、どっちかというともうみんなパニックになってたんで。倒れる人なんかはいなかったんですけどね。本当は私なんて通常は外に出る時はベルトしてるんですよ、体支えるのに。ちょっと揺れたってバタンと倒れちゃうので。その時はリラックスモードに入ってたからやってなかったから、自分の体を支えるのが精いっぱいだったんですよ。そしたら後から聞いたら「飛川さんのことは職員さんが支えてたんだよ、後ろで」って。だから何とかなったんだって気づきました。

 

すごい揺れでしたもんね。

すごい揺れだったですね、もし一人でいたら完全に倒れてたでしょうね。

 

地震が起きた瞬間、ご自身は津波のことについて直感されましたか。

津波…何日か前の地震でも津波がありましたよね、だから「あんなもんだろうな」っていうのはありましたけど。「ここまでは来ないだろうな」って。海がまず見えないんで。地図で見ると直線で1キロも無いんですけどね、海からは。ただ、異常な揺れだったんで「何かはあるよな」とは思いましたけど「津波はここまで絶対来ないよな」っていうのはありましたね。

 

過去に津波の経験がある地域なんですか、この辺りは。

ないですね、うちのおふくろの実家がここからすぐ近くなんですけど、それこそチリ地震津波だってこっちまで来ないし。石巻って津波って本当に川の近く、北上川の周りとか。そういう所ならあるってくらいは聞いてましたけど。市場でもカゴとかが流されるっていう感じしか想像してませんからね。

 

やはり内陸ではイメージしにくいところですよね。

そうですね。全く津波ってなかったですね、私の頭の中では。すぐそこのデイサービスも川がすぐ横なんですけどね。

 

その川から水が来たと言うのは、最初にその川に津波が来てたんでしょうね。

そして私たちが東部循環器科にみんな避難して1階にいたんですよ。でも私らが避難したその待合室がガラス張りで、外が見えてたんです。そしたら45号線を水が流れて車も木も流れてっていうのを見てたんですよ。「ここ危ないんじゃない?」ってなって、2階に移ることになったんですが、エレベーターが停電でもう動かないんですよ。それで一人ひとり担架で運ばれて、歩けない人は2階まで上げてもらいました。で、1室借りてビニールシートを引いてみんな寝てるっていう状態で。毛布とかはいっぱいあったんで、一人ひとりに掛けてもらって。暖房は何も無くて。でしたけど、私はあんまり寒いって気はしなかったんですよね。結構狭いところにぎゅうぎゅうに詰められてたんで。下が床で硬いからあちこちで「あー痛い」なんて聞こえてましたけど、それどころじゃないよなっていう感じでした。

 

病院も停電していたんですか?

してましたね。おそらく人口呼吸器の方のための補助電源なんかはあったんでしょうけど。

 

東部循環器科には避難されて、何日間かいらしたんですか?

いや、その一晩だけですね。結局、次の日からすぐに病院を使うってことで。やっぱり相当数の患者さんが来るだろうということで、朝明るくなってから移動することになりました。夜のうちに、職員が車を何台か津波が来ないところに持って行ったみたいなんですよ。いざというときの為に。2台くらい残ってたのかな。その車で、最初に行く予定だった老人ホームに行ったんですけど、そこに着くまでがいつもの道路が走れないんで、瓦礫をかき分けていくような感じで。丸太がすごかったからね。線路の上まで。近くの貯木場の木が流れてきて。

船も流れてきているし、デイサービスには車が1台突き刺さってました。

どれくらいの高さの津波がきたんですか。

聞いた話だと、デイサービスの方で1mくらいは津波が上がったそうです。立ってる人なら上半身は出てたでしょうけど、車いすの人はもう駄目だったでしょうね。

 

老人ホームに到着してからのことを教えてください。

老人ホームの方に着いたものの、朝の時点で携帯がつながらなくなっていて、自宅がどうなっているかもわかりませんでした。震災当日の朝、角田に勤めている弟がいつもは電車通勤なのがたまたま車で出勤していたんです。金曜日で遅くなるかもしれなからということで。で、地震直後に角田を出たけども、帰ってきたのが12日の朝でした。一度家に寄って、病院まで上着や飲み薬を老人ホームまで持ってきてくれました。矢本の石巻西高近くで「ここから先は車が入れない」と言われて、車を置いて、そこから水の中を歩いて家まできたんです。

 

ちなみにお母様は当日どちらに。

最初、私を迎えにくるとこだったんですよ。だけど「津波がきた」っていうので車で引き返して、近所に津波が来たことを叫びながら家まで戻ってきて、近所のある一軒の家にみんなでまとまって避難してたんですよ。

自宅での生活

ご自宅にはどれくらいの津波が来ましたか?

ここは、床に上がらないぎりぎりくらい。玄関までは入らないくらいです。なので家の中は大丈夫でした。ただ物置の方はたっぷり入って、機械ものは全滅でした。

 

翌日もまだ水は残ってましたか?

水自体は引いたみたいですけど、汚泥がすごくてね。私も老人ホームに行って「今晩はここに泊まるのかな」と思っていたらおふくろが夕方に迎えに来たんですよ。実際は東部循環器科に1泊、老人ホームは半日くらいですね。そこから帰ってくるのに道路が通れなくてあちこち回りながら戻ってきました。何体かの遺体はブルーシートにくるまれてありましたね。うちは家の横の川があったから、そこで水が止まって、直接は水が来なかったんですね。

 

距離はそんなに離れていないけども、川のこちらと向こうでは全然被害が違うんですね。

そうです、全く違います。川の向こうの人たちはかなりの方が亡くなっていますから。住所は同じ門脇地区なんですけどね。川一本で全然違いますね。

 

食べ物などはどうしていましたか?

冷凍食品や米はありました。あとお隣の方がスーパーを経営している人なんですよ。なので、冷凍食品で水に浸かったけど中身が食べられるような物をかごにいっぱいいただいて。

 

ライフラインはどうでしたか?

水と電気はダメでした。ガスはプロパンだったので、リセットボタンを押して使うことができました。ストーブも反射式のものを1台ご近所から借りて、上にヤカンを載せて使っていました。3人で居間に集まって過ごしていました。

 

部屋の中の家具などは大丈夫でしたか?

リビングはわりと大丈夫でした。台所の食器棚は倒れてきて、冷蔵庫に引っかかってたり、2階にある私の部屋の本棚は倒れてガラスがめちゃくちゃに割れていたりしました。なので、自分の部屋にいたらかえって大変でしたね。震災の前までは、家への出入りは電気リフトだったんです。スロープは震災後に付けたんです。震災前の状態だと下りることは何とかできたけど、上ることは絶対無理でしたからね。電気のありがたさを痛感したっていう感じですね。

 

電気はすぐに復旧しましたか?

3月の末ですね。25、6日くらい。水道もほぼ同じでしたね。茶色い水でしたけど。

 

飲み水なんかはどうしていたんですか?

母と弟が自転車で汲みに行ったり、日赤病院の方まで給水車の水をもらいに行きました。

 

この辺は来なかったですか?

歩いて10分くらいの中学校には来てたようですけど、いったん家に避難してしまうとなかなか行きにくいんですよね。「いつも来ていない人が来てる」みたいな感じになるのが気になって。だから物資とかも「取りに行けばもらえるんだよ」という話も聞きましたけど、一切そちらからはもらわなかったですね。

 

この辺の方は自宅にいらした方が多いんですか。

この地域はみんな流されないでいたんで、自宅にいましたね。うちが一番低いんですよ、車いすのスロープを設置したりする関係で。なので、どこの家も給湯器をやられることはなかったんですけど、うちだけはリフトも何もかもやられてしまいました。

 

この地区の汚泥の処理は、ご自分たちで?

そうですね。12日は自宅に戻ってきたけれど、汚泥が酷すぎて車から降りられなかったんです。車内で一晩過ごしました。それで、13日に車いすが1台分通れる泥かきをしてからやっと家の中に入りました。お昼過ぎくらいですね。床にごみ袋から何からを敷いて入ったという感じですね。私も車いすに乗ったまま、1週間はベッドに行かなかったですね、ずっとこの感じで。

 

やはり余震が怖い?

余震が怖いっていうのもありますし、もしベッドに寝たら、起きるまでに津波が来ちゃうよなっていうのがありましたんで。逃げるってなると、私たちは時間がかかりますからね、ベッドから車いすに乗ってってなると。それだけで10分20分はかかりますからね。本当にこの居間から一歩も出ないっていう感じでしたから。

震災後の変化

近所の方とのつながりというと?

一年に一回くらいはこの辺の人達で集まってバーベキューやったりとか、そういう顔合わせなんかはしてますね。

 

じゃあ、コミュニケーションはとれているんですね。

でもそのあとかな、大きい余震があって、津波警報が出た時、近所の人が「飛川さん逃げるよ!!」って騒いで行ってくれたんですけど、私はもうベッドの上だったので、今から着替えて体起こしてっていうのも大変だから、動かないでそのまま家にいたこともありました。一度は母の運転する車で逃げたこともありましたが、車の渋滞がすごくて、すぐ近くの国道までも出られなかったこともあったんです。

 

3.11以降で避難するために準備していることや考えていることはありますか?

私が車いすに乗っているこの状態ならば逃げることはできますけど、もうベッドに寝ていて逃げるとなれば、もうあきらめざるを得ないでしょうね。時間がかかるので。その場合は、私の部屋の上に車いすに乗せるためのリフトがあるんです、天井から吊るされているリフト、それに乗って耐えるしかないですね。

 

外のスロープとこちらの昇降機は、震災後すぐに設置されたのですか

リフトは震災後1ヵ月くらいで特別につけてもらったんです。そうしないと家の中にも入れなかったので。

スロープは、震災後2年くらい経ってからですね。これだけでは電気が止まったら使えないからとうことで。

 

地域での避難訓練等は、震災後はやっていますか?

地域ではやっていますが、なかなか参加していないですね。避難所となる学校に行っても、居場所が無いかなと思っていて。それならば家族と車で避難したり、何日か過ごしたり、養護学校なんかに行った方が楽だろうなという頭があるんですよ。震災時に障害者が困った話なんかをたくさん聞いて。広い部屋の隅に寄せられてトイレも我慢し、水も飲めないなんて言う話を聞いていたんで。それならば普通の避難所に行くよりも養護学校のような福祉関係の所に自力で逃げた方がいいよなというのがあるんで。学校すべてが必ずしもバリアフリーではないので。避難した先で津波が来た時に2階に上げてくれればいいけど、それがかなわなければ無駄死にになってしまうっていう思いがあります。

 

福祉避難所の情報などは手に入りますか?

あまりないですね。知的障害者の施設なんかはあるのを知ってはいますが、何となく行きにくくて。私自身高校までは普通科に通っていたので、何となく足が向かないです。そして、数も少ない気がします、石巻の場合。

障害者のデイサービスも「ひまわり」1カ所だけなんです。

 

震災前後で生活が変わったところはありますか?

もう7年目にもなると元に戻っている感じですね。ただ、変わったところは「避難」となった時に必ず薬を持つようになりました。避難バッグに薬の箱を入れて必ず持つようにしています。

 

情報収集に関して変わった部分はありますか?

あまり変わりがないように感じます。福祉避難タワーを建てるという発表がありましたが、その後どうなったのか気になっています。高い建物があまりないので、車いすで逃げられる高い建物があるといいですね。

 

渡波の方に避難タワーがあるのを見ましたが。

そうですね、ただしあれは階段ですから、車いすでは登れないんです。ためしに障害者センターの人たちに車いすを持ってもらってあがってみたら、上まで行くのに5分以上かかったそうです。そこからもう一人となるとギブアップって感じでしょうから。

 

確かに、スロープがあれば一人に押してもらえれば登れますもんね。

障害のある人が逃げようと思った時に、逃げられる場所がほしいですね。どこに行ったらいいかわからないという状況は怖いですよね。得やすい情報があるといいなと思います。

 

情報や、それに関わるサポートがほしいという感じですかね。

障害者が震災の時にこうなったらこうしなさい、みたいな事を書いている冊子でもあればね。マニュアルでも。市役所とかに行けばあるのかなぁ。特に、自分が住んでいる地域の、すごく身近な情報がほしいんです。確実な情報があれば、初動を間違えることもないと思いますしね。震災後には、母と弟の車を両方とも車いすごと乗れるスローパーにしました。

 

「備え」の部分で、震災後に始めたことは何かありますか。水を確保するようになったとか。

水分は普段からよく摂るので、無くなる前に箱で買ってきていますね。他にもカップめんなども。それから発電機や石油ストーブも用意しました。発電機は、私の車いすの充電にもなりますし、携帯の充電にも使えますし。

生前、父が車関係の仕事をしていたんです。なので、発電機の大事さや便利さがわかるので、買って備えていますね。

 

ちなみに、車いすの充電にはどのくらいの時間がかかるんですか?

0から100まで充電だと、3時間くらいはかかりますね。

 

駆動時間はどれくらいですか?

うーん、家の中の移動だけだと一週間近くは保つくらいですね。予備のバッテリーも充電して用意しておいていますね。充電が無くなってしまうと、ただの重い車椅子になってしまいますから。震災の時もこれに乗っていたので、バッテリーがあるうちは自分で動かしていたんですけど、無くなってしまってからは「ちょっとごめん、押して」みたいにして動かしてもらっていました。

 

一番大変なのは、段差でしょうかね。

そうですね、3センチくらいの段差があると、人の手を借りないと難しいですね。今道路を新しく作っても水が上がらないようになっている段差がとても大変なんです。水はけのために歩道が少し傾斜している場合や、石畳での振動なんかはとても苦労します。「あそこ石畳だから行きたくない」って思う所も何カ所かあります。

おそらく杖をついていらっしゃる方も、道路の傾斜なんかは大変なんじゃないかなぁ。

石巻でも市民会館や新しいものを作る時に、障害者何人かをピックアップしてもらって、意見を出せるといいですね。個人で発言しているよりも団体に入れば声が届けやすいのかなと思って、今はにょっきり団という名前で活動している所があるので、そこに関わっています。

今、伝えたいこと

身近な所で、一般の方に対して伝えたいことは何かありますか

今現在、にょっきり団に関わっている友人が、小学校などで福祉研修というのをやっているんですよ。私たちの時代の子どもたちよりも、今の子どもたちの方が福祉にかなり関わってるんですよ。車いすを見ても、案外何とも思っていないんです。どちらかといえば大人の方が偏見があるように感じます。子どもは正直なもんで、変わったものがあればじーっと見るのは当たり前です。いい意味で障害者慣れしてるんじゃないかなって感じはしますね。こういう子らが育ってくれば、本当に日本っていいだろうなって思いますね。「だめだよ、近づいたら」なんていう大人の方にガッカリさせられますね。

 

大人こそもっと勉強していく必要がありますよね。

道徳の時間などで「車いすの操作」や「片麻痺の人の状態」を体験してみるとか、色々やっているみたいですからね。自分が小さい頃は障害者を見ること自体が無かったですからね。環境が違うと思います。

 

今はお一人で外に出られたりする機会もありますか。

近所を散歩したりは、一人で出ることもあります。買い物なんかに行くときは、車に乗せていってもらって、その後は一人で動いています。この夏にはヘルパーさんを利用して、にょっきり団のみんなと一緒に県立美術館に美術鑑賞に行ってきました。楽しかったですね。

 

飛川さんにとって、にょっきり団というのは大切な団体になっているんですね。

そうですね。市に相談や陳情をする際の窓口として、情報交換の場としてであったり、一緒にアート展を観に行ったりもできる、そういう場所があってもいいかなと思います。あんまり怖がらずに関わってほしいですね。あんまり特別なもんでも無いと思うんで。ちょっと体が動きにくいだけで。一歩引かれてしまうと、何も言えなくなるんですよね。だから、普通でいいんですよ。過剰に「大丈夫ですか?大丈夫ですか」って来られすぎても、それも大変です(笑)緊急時はズカズカ来てもらった方がありがたいし、その辺の距離感ですよね。

 

そうなんですね。「あんまり障害のことは詳しくわからないけど、手伝う気はある!」っていうのを示していけばいいんですね。

こっち側もどうしてほしいかはっきり言わないから、悪い部分もあるんですけどね。私も初対面だともじもじしちゃうかもしれないしね。普通の人でも人付き合いって難しいですからね。

ページの上へ戻る