(注)さくらんぼは現在閉所しております。
お話:社会福祉法人 嶋福祉会 就労継続支援B型事業所 さくらんぼ
主任生活支援員(当時) 山崎雅博さん
(注)さくらんぼは現在閉所しております。
お話:社会福祉法人 嶋福祉会 就労継続支援B型事業所 さくらんぼ
主任生活支援員(当時) 山崎雅博さん
さくらんぼは全壊したんです。悲惨でした。ある日突然ですから。特養・桜花は大規模半壊といっても全壊と変わりませんでした。建物が残っているだけで電気系統は水没でダメになり、車が何台も建物に突っ込み全く使い物になりませんでした。だけど被害は大規模半壊です。使用できない建物=全壊ではないのです。
当時老人介護施設の方も平成22年7月にオープンしたばかりで、3.11で特養(特別養護老人施設・桜花)が被災し、解体期限が迫り2012年6月には取り壊されました。障害者のグループホームは2箇所被災して廃止しました。
障害者自立支援施設のさくらんぼと、特別養護老人施設の桜花は二つともあまり離れてなかったんで一緒に避難したんです。
避難した歩道橋から下は屋根くらいまで水深があって降りるに降りれなくて。雪が降り積もり寒くて。消防隊が現場に来たのは17時前だったけど、周囲の被害が酷くて結局救助されたのは夜中の3時半でした。施設に行けたのは13日。行ったら津波の跡がついてて、室内はぐっちゃぐちゃになってました。
事業所前の道路も陥没して、堤防から溢れた水が直撃した感じで。津波が海側からと川側からと同時に来たようでした。
我々は砂押川沿いに避難したのだけれど、川から離れて避難してたら逆に津波に飲まれていたかもしれない。あの震災ではセオリー(理論)は役に立たなかった。「川から離れろ」という指示通りにしていたら、もしかしたら自分もこの世にいなかったかもしれないだろうなって思って。本当に右か左かが運命を分けた気がします。
救助されたのが夜中だったおかげで、利用者さんに悲惨な光景を見せる事がなかったのはある意味救いでした。利用者さんの中には記憶力がいい人もいますので。
うちの施設は知的障害の方が多かったのですが、バランスを崩すっていうのはそんなにいなかったんです。「なんもなくなっちゃったね」「流されちゃったね」って。
「何かしよう、頑張らなきゃね」って言ってくれて救われましたね。
災害弱者とは災害時要援護者ともいいますが、「自力での避難が困難な人。支援を要する人々。」当然避難してからも配慮が必要となるわけです。仮設に入る際は優先順位が高いと言われながらも避難所では居場所すらない。例えばトイレが多目的トイレじゃないと使えない利用者さんがいたりとか、障害持ってる方はここのスペースを優先的に使ってもいいですよとか、当時はそういった配慮はなく結局避難所ではない別の居場所を探したり、車の中に入るしかなくなったり。そうすると避難所以外では支援物資はもらえないとか…。堂々巡りになり、当時はそういった事がしんどかったです。
車椅子って一人一台しか押せないじゃないですか。利用者さん10人いたとして職員体制も10対10ならいいんですけど人手は足りてない。
そういうことって言われればわかるんだけど、福祉に携わっていない人たちにもあの時福祉の現場のあちこちで起こっていたことを掘り起こして、知ってもらいたい。
利用者さんの家が津波被害にあった人は特になかったですね。その為仮設に入った人も居なかったです。
ほんと、施設だけがやられちゃったっていう。尚更、さくらんぼが早く復活してほしいっていう思いが強かったんですね。引きこもりとかもなくみんな元気にきてくれたんです。
反対に施設の被害状況は深刻で…職員の自宅が津波の被害にあったり、職員の車が流されちゃって家の中に突っ込んでたり、さくらんぼは基礎ごと2~3m流され、地中で電気とか水道管とかが断裂し全部だめになってました。どうしようかと…。
当時は仙台港界隈にある企業から作業を請けていたものの、企業の方も被災されて仕事が全部なくなっちゃって。建物はなくなるわ作業はなくなるわ、利用者さん達は無事だったけど職がなくなってしまって。
なんとか利用者さんの作業を育てていかないといけないと思い、駐車場清掃とかをやってつなぎながら、いろんな方の紹介から「モノ作り」をやってみようと、ト音記号のクリップやキーホルダーを作りはじめました。
もともとは清掃委託とかがメインでモノ作りはやってなかったんだけど、何しろ委託先も被災して再建できておらず。苦境の中ではあったけど、収入がないことはもちろん、何より作業がないのがつらいことなので、だったらモノ作りをして少しでも買ってもらえれば売り上げになって、利用者さんの工賃につながるなと。
利用者さんは特に落ち込んだりはしてなかった。けど唯一、さくらんぼの看板に対しての意識が高かったみたいで。建物なくなっちゃったけどまた頑張ろうねっていう思いは、利用者さんの中に強くありました。だからそれがなくなるってことは。かなりプライドがあったんでしょうね。会社が倒産するのと同じような思いというか。彼らには、いつか同じ場所でさくらんぼが再建できるっていう夢があったんですよね。
仕事があった時は忙しいって言ってたのに、なくなってからはヒマだって言う(笑)
仕事があることのありがたさを知ったというか。改めて思ったんじゃないですか、やる事がある、ということを。仕事に対しての意識も違ってきたしね。慣れてくればまた言うことも変わってきたりはするけど、それってある意味、日常に戻りつつあるっていうことで、幸せなことだと思いますよ。
震災前は休みがちだった利用者さんもモノ作りになってから休まず来るようになったりして。沢山の注文来るようになって。飽きないように日々工夫していましたね。
震災後から現在に至るまでなんとか工賃アップにつなげてきた。震災前の仕事は未だに戻ってきていないしね。本当に一からやってきたっていう思いです。ここまで取り戻せたのも支援して下さった全国の多くの皆さまの温かな支援のおかげで…単純に人の力ってすごいなって思いました。
利用者さんだって、作業服がいる。手袋がいる。みんな流されてる訳ですから。買わないといけない。だから、そういう所って大事だなって思ったんですよね。生活に直結することじゃないですか、お金って。
震災の翌月多賀城市より老人福祉センターを借り再開ができ、9月までのところをなんとかお願いして12月まで延長してもらい、たまたま新聞記事を見つけて年末に引っ越し、翌1月からソニー(現在・ソニー㈱仙台テクノロジーセンター内 復興パーク)内に移転しました。
当初は1,2年で別の所を見つけて再建できるという見込みだったんですけど、なかなか移転する先の土地が見つからなくて。もともとあった場所も考えましたが、またこんな同じ目に遭ったらと思うと…。これからはもう安心できる所、津波が来ない所と思ったが故、移転先を探すことがかなり難航したんですね。
6月にさくらんぼ及び桜花が更地になったのも再建か解体かの判断を慌てて迫られるような状況で。大きい決断ではあったけど同じ場所での再建はしないと決断したんです。
何もかもなくなったけど皆一緒だったから、不思議と不安はなかった。一歩一歩頑張ろうと思えたんです。我々は好きでこの仕事(福祉)をやってるんだから。施設を支えていかなきゃいけないと。利用者さんの声を代弁していかなきゃならない。伝えることで繋がるというか。
県内を見ると、復興は進んでいますという状況とまだまだですっていう状況とで混沌としてるのではと思います。沿岸部の住民は、まだまだだと感じているのが多いんじゃないのかな。どこを復興のゴールとするのか。県外から来た人が見たらどこが被害あった所でどこが無事だった所なのかわからないし。復興したのかもともとそうだったのかが。場所を知ることでの共鳴が生まれたり。
あの震災から6年…過去の出来事として終わったことなのかなと思う時もあります。これからは伝承していくこと、何を残していくのかが一番大切であり難しいことだと思います。
「震災の何を忘れちゃいけないのか」
「震災の悲惨さなのか」
「助け合うこと」
「そして後世に何を残し伝えていくのか」
最後に震災を振り返り、たくさんの感謝を糧に先が見えない中でも歩んで行く強さは培えたような気がしています。再建できる日まで…これからも歩んでいきたいと思います。