さくら学園

お話:社会福祉法人 嶋福祉会 就労継続支援B型事業所 さくら学園
施設長(当時) 佐野篤さん

地震発生時の状況

震災当日の揺れ始めた時、さくら学園の隣にある塩釜市の地域支援活動センター「藻塩の里」で利用者さんが、てんかんの発作を起こしたということで呼ばれて、ちょうど介抱していたところだったんですね。私、当時「さくら学園」と両方の管理を兼務してまして。
畳の部屋に皆で運び、布団に横にして様子を見ながら介抱をしていた時でした。
和室からはみんなの様子が目に入らない、廊下を出ないと見えないような所だったので。おそらく皆、キャァって悲鳴を上げたりしながら、職員が落ち着いて「机の下に潜って!」というような指示を出していたと思います。
私はそれを聞きながら、横にしている利用者さんの隣にあった卓球台がもの凄い揺れで倒れかかってきそうだったので、利用者さんに手を置きながら卓球台を支え、大きな声で、机の下に潜るよう指示を出していたような覚えがあります。それからさくら学園の利用者さん達の安否を、揺れが納まった時点ですぐ確認に行きました。
さくら学園では、作業室で作業していた人達にも机の下に隠れて身の安全を守ってもらい、揺れ始めた時には重い備品が机の上から勢いよく転げ落ちてたせいで誰かがぶつかりそうだったというような報告を受けました。怪我がなくて本当に良かったです。

津波からの避難

誰かがラジオを点けたので、津波警報が発令されたことに関しては割と早く入ってきましたね。
サイレンが鳴り始めたのでこれはただならぬ雰囲気だということになり、そしてラジオからもそういう情報が入ってきて。ここは沿岸部でもあるし、このままここに居ない方がいいだろうなと。あまり迷いなくすぐに避難しなきゃいけないということで。
避難場所は車で行くと2~3分位の杉の入小学校に行きました。高い所にとにかく上げるということを常に考えているので、斜向かいにあった、坂を登って一段高くなっているスーパーの敷地までまず上がりました。スーパーの屋上から上の道に出れるので、そこを目指してまずは皆をピストンで移動させようということで。
歩ける方は歩いて行ってもらい、歩くのがちょっと遅いと思われる方は車で二往復くらいして、その間、車が渋滞などでもし止まってしまったらすぐ捨てる、だけど動いていれば車の方が早いから、動いてる間に、公用車と一部職員の車を使って全員をまずはスーパーの屋上まで連れて行くことができました。
指示を出した後、私は最後の車に乗るようにして、屋上で落ち合うということで。歩きのメンバーも屋上まで上がってもらって、だったと思います。
30分かからずにそこまでは辿り着き、しばらく「じゃあ、どうしよう…」とはなりましたね。全員が車には乗っていなかったですし、もの凄く寒い日だったわけで、あの日は。これはやはり、どこか屋根・壁がある所に行った方がいいだろうということで。避難場所が杉の入小学校というのは認識しているので。
スーパーからは平らに、300、400メートル位歩くんですが、歩きの方はそのまま歩き、車の方は車で行きました。受け入れてくれるかどうかとか、他の人が避難してるかとかそういうことはよくわからないままにまず杉の入小学校まで行きました。

避難場所での利用者について

利用者の様子は、印象としては、今思い返すと私もそうだったんですけど、ピンときていない様な、何が起こったのかわからないような感じっていうのかな。とにかくすごい揺れに驚き、何がどうなっちゃうんだろうという不安はあったと思うんですけど。
泣き叫んで取り乱すような方は全然いらっしゃらなかったですね。いつも避難訓練の時はちょっとへらへらしているような方も、集中して指示を聞いてくれていた覚えがあります。あんなにスムーズにいくものなのかと、いまだに思い返していますね。
危機感が皆あったのだと思います。ただならぬことが起きたということに関しては皆がそう思っていたと思うし。でもその時点で私は津波に関してはまったく・・・本当に来るという風には思えてなかったところがあって。セオリーとして避難はしたけども、でもそれは自分の意識の低さだなといまだに思うのですけど。

連絡手段と家族への引渡し

 親御さんやご家族とも連絡の取れないような状況の中で、一軒一軒、繋がるような所にはお電話をしていったんです。
 杉の入小学校には一台だけ公衆電話があって。ピンク色の。最初の頃はそちらには規制がかかってなかったので使えたんですね。10円玉を持って皆並んでいて。我々も順番に並んで、たくさんかけると迷惑だから2,3軒づつかけて、終わったらまた並んでというようなことをしてたような覚えがありますね、その日の夕方から。
 当然、なかなか連絡がつかない相手もおれられました。繋がるところ繋がらないところ色々でしたね。でも、杉の入小学校に逃げているだろうという想定で迎えに来てくださる親御さんがいたり、他を探しながら杉の入小学校に辿りついた方もいたり、保護者に引き渡せる方はその日の晩から引渡していきました。
 藻塩の里も一緒に逃げていたので、藻塩の里は単身で暮らしている方も何人かおられて、そういう方に関してはその方の生活力に応じてもう少し一緒に居た方がいいんじゃないかという方もいましたね。
 ご家族と連絡が取れるまでは帰さずに一緒に居ましょうということで。自宅がどうなっているかわからない中、個別にその確認までをできるような状況ではなかったので。本人達も不安だから一緒に居たいってこともあったと思います。我々が送って行ったり自宅の確認までするというところは、その日の晩にはしませんでした。

情報の確認

 まったく状況がわからなかったこともあり、電気もない中で情報もなくなってしまって。車でラジオをずっと聴いていれば多少はあったのでしょうが私も混乱していたのか、そういう情報を取る手段が何かはあったんだろうに、動けなかったというのが正直なところありましたね。
 でも伝え聞いてくる話で、津波が来たらしいとか、さくら学園はどうなったんだろうとか、次の日になったらその辺も確認したいので、国道の様子がわかるところまで職員に行ってもらって。その辺りはどうなのかと聞くと、水が溜まっていると。完全に水浸しだったんですね。当時は。
 まだ腰高まであるからとか、段々水位が下がってきて膝位とか、長靴なら行けそうだというところで二日目か三日目には施設に入って被害の状況の確認をしました。

避難場所での人数

 仕事をさせて頂いているさくら学園のグループの一つである事業所では、水が引くまで出ることが出来なくなっていました。幸い、社屋の二階に避難することができたため皆無事ではありましたが、自衛隊の救助の後我々と合流できたのは数日が経過してからでした。その辺りがはっきりわかるようになるまで、気が気じゃなかったですけど…。
 おいそれと立ち入りできない、規制もかかっている中ではどうすることもできないまま、何人かは杉の入小学校からご自宅に戻せる方がでてきましたね。最初は30人位、利用者さんは居たと思うんです。藻塩の里と合わせると40位は居たかもしれない。
 それが段々減っていって、最終的に10日後位までは20人。
 我々はグループホームの事業もしており、そこのメンバー達も一緒に居たんです。ホームが全部津波にやられてしまった訳ではなかったものの、ライフラインもなく、分散すると職員の配置がつかない状況だったので分散をするとかえって今はまずいだろうと。手の回し様が無くなってしまうので。避難所に一緒に居て、そこで何人かの職員が見守りとかしながらでしたね。

避難場所での生活

 利用者さんはある意味互いに気を遣いあって、我慢をしていた方も沢山居られたと思います。
不便な生活が続くせいでちょっとピリピリするということもありましたしね。何もやることがないと悶々と内にこもってしまうので。
 そんな中、トイレの水がなかったので学校のプールからバケツリレーで水を汲み置いて、皆用を足したら流すというサイクルを、避難所の中で作り始めました。そして、そのバケツリレーに参加して身体も動かして。掃除する場所を決め、自分達のフロアの掃除を役割分担的にやらせてもらおうと思ったんです。
 避難所でもすごく配慮してくれていました。例えば要介護状態の方でなければ基本は体育館のところ、我々は体育館に一泊したあとに別の部屋の方がいいよねという風に言って頂き、教室を一つ空けて頂いて。そこに40人位大人が寝れば足の踏み場もないのだけれど、でもやはり我々としては気持ちも楽でしたよね。周りの方へ気を遣わなければならない部分が増えると我々も追い詰められてしまうので・・・それは本当にありがたいことでしたね。助かりました。

避難場所での困ったこと

 困ったことだらけではありましたが我々だけがそれを言っても仕方がないというのもありましたし、皆それは言わずに我慢していましたね。
 むしろ振り返ると色々ご配慮頂いたことや、感謝のこととかのほうが浮かんでくる。
 ちょうど塩釜は港に近く海産物の加工場が近くに沢山あったおかげで、冷蔵庫に入っていたものを避難所の食料として出してもらえたんですよね。
 被害の程度の地域性というか、多賀城では、聞くとほんとに食料が少なくてひもじい思いをしたみたいですけど、我々はもちろん満腹という訳ではないですけど、そういう面でもすごく結果的に恵まれていたなと思います。
 ただ避難先は学校なので、いつまでも被災者が体育館に居ると学校も困る訳ですね。最終的に我々も引き上げる決断をしたことの一つに、いつごろ出て行けるかという問い合わせが入り始めた他、運営側の問題もあったんですね。
 やはり学校なので子供達のために空けなければいけないというのも当然だとも思いますし、新学期が近づいてきたりして。あの当時まだ小学校は卒業式をしていなかったですしね。そう言われればやはり、子供達の卒業式がなかったというような残念なこともないだろうから、なんとかして早く出なきゃねと。
 でも本当に助けられたことしか思い出せないので、ありがたかったなぁって思います。

再開へ向けて

施設を再開するのに約4週間。津波が上がった後の、汚泥で真っ黒になった床を全部掃除をするのも大変な作業でした。
のちに法人の職員を応援でつけてもらい、汚泥を掻き出して水を流して掃除をして、なんとか活動できるような状況にして、あとはライフラインが復旧すればというところまで来たところに例の大きな余震ですね、4月7日。
また、せっかく通った電気が止まってしまって。ただあの後の復旧は早かったので、じゃあ復旧したのを確認してから施設を再開しようと。
4月11日から再開すると決め、まずは来て頂けるよう利用者さんの方にも連絡を回しました。
その間も「再開はいつからですか?」という問い合わせが入ったり、訪ねてくる利用者さんも居たり。「ほんとごめんなさい」と言いながら後片づけをして、ようやく再開することができました。

利用者さんの思い

さくら学園の利用者さん達に関しては、施設がなくなってしまうというような危機感的なイメージはなかったように感じます。私達もそういう話をしていた訳ではないですし、掃除しないと使えないねというような説明をしていました。
実際には彼らを連れて行って見せた訳ではないですが、ご自分で見に来る方も居たので。手伝わせてと言って泥掻きやってくれる方もいらっしゃいました。そういう中で早く再開して欲しいという感じはひしひしと伝わってきましたけど、なくなってしまう、というようなことはなかったですね。建物がちゃんと建ってたので。

地域との繋がり

さくら学園だと、例えばレクリエーション的な交流で言うと実はそんなにないんです。どちらかというと地域の方との繋がりというのは廃品回収などの作業を通して。
今さくら学園で行っている廃品回収は、ほとんどが近隣地域なんですね。近隣地域の町内会にチラシを撒くところから始めて、「曜日の何時頃我々通るので玄関先に出しておいてくだされば持っていきます」というアナウンスをしています。塩釜も高齢化が著しく、新聞紙の束を集積所に持って行くことすらお年寄りにとっては大変なことなので、非常に喜ばれるんですね。「いつもありがとう」なんて声をかけてくれて。
我々もきちんと挨拶をして、という風に。作業に携わる利用者の皆さんにもこれだけは本当に強調してお話をさせて頂いています。しかも、お約束したから必ず行くっていうスタンスを貫いているので、行かない時には先にきちんとご連絡をする。期待を裏切らないようにやってきた結果、あの仕事は絶対減らないんです。一回出し始めれば必ず段々と量を増やしてくださったり。最初は様子を見ている方もいらっしゃいますが、一周回って10件あったとして、最初は2件しかご協力頂けなかったとしても、毎回チラシ撒いてまた回っていることで3件、4件と必ず増えていくんです。
我々がお約束したことをきちんと果たしているということについては、地域の方達がよく理解してくださっていると思うので。信頼をしてくださっていると思うので、だからたまに抜けてしまうとお叱りのお電話を頂戴したりもしますし、そういう時はすぐ対応して、関係を壊さないようにやってきました。それは職員・利用者の一人一人が努力してくれたからだということに他なりません。地域の皆様とは、仕事を通してずっと関わりがあるので認知としてはすごく上がって、「さくら学園さんと一緒の所ね」という風に法人内の施設みんな言われるんですよね。

作業の変化

震災が故に出来なくなってしまった作業もありました。これは施設外就労のグループですね。依頼を受けていた会社さんのほうも被災したので。
施設開設当時の廃品回収は、ご協力頂ける方の所を長い距離走り回ってちょっとずつ頂いてきて。震災以降は明確にシフトして町内会ごと巻き込み、それにともなってトラックを導入しました。近隣の地域の回収に特化してどんどんやっていくために、それまで開拓した所は近い事業所に全部出してしまって。そうすると、一時は量が減るのですが、案の定始めてみれば必ず増えていくので、最初は少なくなるものの何ヶ月間の中で挽回できるという。挽回できてからは小さなエリアの中を動き回るだけでトラックがいっぱいになりますよという形に変えていきました。
あと発泡スチロールの仕事が始まっていったのも震災の後なんです。一時目減りした収益をその二つの作業で埋めていきました。補って、余りがある状態にまでもってこれたかなと思いますね。
なぜ売り上げを出すかと言えば、それは利用者さん方が少しでも一生懸命働いたら沢山もらえるようにということなんですが、保障という言葉は使えなかったりするんです。ですが、できれば下げないでやってあげたいと思うし、保障はできないけど安定して売り上げることを目指してやってきました。
利用者さんは玄人肌ですよ。利用者の得意なことをしていく。あとは誰でもできるような作業をしていくことをいつも心掛けています。
いつの間にか以前と同じような雰囲気とか流れとか。作業の方も全く入れ替わった訳ではないので、失ったものもあるけれども、今までやっていたことのやり方を変えたり、発展させた形だったので、そんなに混乱もなく利用者さんもそれを受け入れてやってくれてたように感じます。
仕事をくださっている方達に助けていただきましたね。

利用者さんの変化

再開については待ち望んでいた方が多かったと思います。皆自分の我を出さないで我慢してくださいました。ああいうことをくぐりぬけた先の心持ちというのは、個人としても同志のような感覚が芽生えてきた感じがありました。同じ困難をくぐりぬけてきたわけですから。利用者さんの震災前と震災後の大きな変化はあまり感じないですね。淡々と同じような感じでおられるかな・・・。幸い、利用者さん方に、例えば精神的に心理面で何かトラウマになり、思い出して急に怖がるようなことがなかったので、そこは不幸中の幸いというか、良かったなと思っています。

今後へ向けた備え

 あのような経験をした以上、よく千年に一度とか言われるけども、もう来ないんだとは誰も断言してはいけないだろうし。我々も経験した以上はあの時よりももっときちんと備えられたものを持って、利用者さん方を守っていくようなシステムの構築をきちんと準備しているべきでしょう。ですが実際の所はまだまだそれに対して備えきれていない部分もあります。それなりに大変な思いをしたと思っていますし、教訓にしていかなければいけないということですね。
 ただ反面、すべてのことにきちんと備えるとは一体どういうことなのかなと思ったりもします。
 さくら学園は、あれだけ海に近いと何かあった時に水を防ぐことはまずできないので、逃げるしかない。避難訓練を行う中では、年に一度は車が使えない想定で小学校まで皆で歩くというのを行っています。その時ばかりは、健脚じゃない方でもどこまで歩けるか、我々も把握しておく必要があると思っていますので。
 最初の年にはスーパーの入り口の所で疲れ果てていた方が、次の年には少し先の交差点まで行き、また次の年にはその坂の上までなんとか行けるようになり、4年かかってやっと小学校まで歩けたという方もいらっしゃいました。そうやって、どこまで歩けるかという力をきちんと計っておかないと、無理なことを言って却って事故に繋がるかもしれないので。
 どこまで備えたらいいかって本当にわからないんですけども、最低限、命を繋ぐためにどこまでは必要かっていうところは見えているので、そこについては避難訓練等で取り組んできたつもりではあります。

施設の役割

施設が避難所になるケースもありますが、さくら学園はその選択ができないと思っているので、行った先の避難所で他の障害をお持ちの方なんかも受け止められる様な福祉避難所的な働きを担えたら良いのではと考えています。同じ業界の中の話で、地域で暮らしている障害児をお持ちのお母さん達が、家に居ると物資が来ないから、例えば給水所に並ぶと2時間待ち。多動性障害のためとても2時間はもたないと。子供を見てくれる人がいれば水をもらって帰れるのにとか、買い物に遠くまで行けるのに、というような声があって。もしかして我々がそういったことのお手伝いをさせてもらえたら本当はいいんだろうなとは思っています。福祉施設は公共の場、社会資源なので。
さくら学園のような施設だとそういったことを施設側も考えて、行政とのセッションが必要なのかと言うと「そこまでは…」と言う人もいるけれども、それでも、行政の方も目をつけてくれるといいのかなとも思ったりもしています。

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