お話:社会福祉法人 洗心会 生活介護事業所 のぞみ福祉作業所
職員 森伸也さん
お話:社会福祉法人 洗心会 生活介護事業所 のぞみ福祉作業所
職員 森伸也さん
ちょうどあの時は、帰る時間帯でした。帰りの会をやる準備するために、荷物などを持ってる時に地震がきたんですよ。だから、全員同じ場所に揃ってはいなかったんですよ。
別室に更衣室みたいなところがあって、そっちにいた方もいらっしゃいました。でも、大体の方が集まっていたので、あれだけの揺れが来てもすぐ机の下に入ってとかの指示はできたんですよ。
ただ、やっぱりすごい揺れだったので、机の中に入りきれない方もいて。私は近くにいたので中に押してやって、その方の頭を抱えながらでしたが、とにかくその時は冷静に見れてはいたんですよね。
落ちてきたのが、エアコンの上に付いていたパネルがそれぞれ一箇所ずつ。茶箪笥の中に、割れない食器が入ってあって、その棚の戸が揺れで少しずつ動いて何個か落ちたぐらい。あとは職員用のパソコンが落ちそうになったり多少立て付けが悪くなったりする程度で、まぁ地震の被害はそんなになかったです。
揺れが収まって、安否確認というか、今いるメンバーがいるかどうか職員も含めてその場で確認しました。
ほとんどの方が大丈夫でした。1人、自閉症の方がすごい揺れだったので身障者用のトイレに閉じこもっちゃってっていうのはあったけど、ただ所在はわかっていたので。職員について行かせて。早い段階で怪我がないのは確認できたんですよ。15時前の段階でみんなの無事は確認できたんです。
すごい揺れで、これまで防災教育を受けてきたこともあるので、津波が来るというのはすぐ思ったんですけど、まさかのまさかですよね。
3月2日に、大規模災害を想定した、災害ボランティアセンターを立ち上げる訓練をしたばっかりだったので、ここにいれば雨風もしのげるし、ご飯もあるし、泊まっても2日3日かなと感覚でした。ここにいれば大丈夫っていう思い込みをしちゃったんですよね。
地震の後、「のぞみ」の前にある広めの駐車場のところに、災害対応のために、テントを出し始めた時に、雪が降り始めて。
「炊き出しもあるだろうし早く組まなきゃね」なんてやり取りしていたら、地域のみなさんもぞろぞろ避難してきたんですよ。
テントを組み始めてから20分くらい過ぎたと思うんですけど、誰かが「津波だ!!」って言って。海のほうを見たら、電信柱がポキポキ折れていくし土煙があがっていくし。
まだその時点では、ここが避難所だからここまでは来ないよねって思っていて、少し傍観していたんですよね。初めて見る光景だったので愕然としたというか。
でも、様相が変わってきたんですよね。今まで煙だけだったのが海面が見え初めて。火災で燃えてる家は流れてきてるし、ここもやばいぞって直感で思った。
一般の人や車も駐車場に沢山来ていて、「のぞみ」の車ももう出せなくて。とりあえず自分の持ち場なので「のぞみ」に戻ろうとしたら、名指しで、外に避難していたベッドで寝ている方を助けてって指示されて。名指しで指示されるとやらなきゃ!って思うんです。津波が来ているので悩んでいる暇もないので。津波が迫り来るの見ながら、ベッドの方を安全な場所へお連れしようとしていました。
恐怖だったけど、助けなきゃって思いで逃げていたら、さらに弱視のおじいさんも託されて。その方も介助しながらなので、移動がどうしても遅くなってしまう中で、駐車場の裏の山に向かって避難しようとしました。その時には駐車場のほうまで津波があふれかけてる状態でした。
私が津波だって気づいてから15分あるかないかでここまで来て。私は結局津波に飲まれたけどなんとか裏山に流れ着いて。そこから10分弱かそのくらいで波がザーっと引いて助かりました。
裏山付近で救助活動に参加した後、「のぞみ」のことが気になったので、戻ったんです。「のぞみ」に人が残ってないといいなと思って。瓦礫の山だったんですけど、中に入って一部屋ずつ声かけて確認しました。もう誰もいないような状態でした。
その後、裏山にある志津川高校の昇降口に向かったら、ちょうど畠山(のぞみ職員)がいて、状況を聞いて。
「みんなずぶ濡れだけど、生物室にいる」「1人は(のぞみ内で)亡くなっているの確認したんだけど、他の利用者さんや自分たちの命のこともあるのでとりあえず引き揚げてきた」「1人、見つからないんだ」と報告を受けました。
暗くもなってきてるので、とにかく今残った面々をサポートしようという話をして高校の生物室に行きました。
生物室には「のぞみ」の利用者さんと職員と、他の一般の方もいて。30人くらい入れる部屋でした。
まず初日の晩は生物室を割り振ってもらえて。先生たちとの話し合いをする場で南三陸町社会福祉協議会の方たちや「のぞみ」や老人ホームの方たちが避難しているので、各一部屋ずつ与えたほういいねってお話があり、翌日には各教室を確保してくださって。3月12日の午前中だったかな?
助かったのは水があったこと。あとはラジオの情報を全部教えてくださって。テレビもなにもないので。
さらに、日付変わる前くらいに、南三陸町社会福祉協議会のキーの方と学校側の配慮で、高校の北にある旭ヶ丘団地からおにぎりを分けてもらってきてくれて。それはありがたい1個でした。
最初に困ったのは食料です。あとは津波に飲まれて濡れているので、それで衰弱死じゃないですけど、そういうことが怖かったです。ストーブがあって、暖を取れて助かったなと思います。あれがなかったら違っていたんじゃないかな。
その他、利用者のひとりの方がトイレに行きたくなって。生物室の前が校庭で車もたくさんいて、する場所がなくて困っていて、体育館の裏のほうに場所を作っていただいた記憶がありますね。
だんだん女性陣もいきたくなってきて。教室にある、机やカーテンを使って、さらに校庭の車のライト消したりしてプライバシー確保しながらトイレを作りました。でも寒かったし、普段と違って人目につくので、もよおしたのに出なかったそうです。
みなさん気張っていたと思います。漂流物にぶつかっての怪我とかも多少あったんですけど、目立った大怪我とかはなく避難はできていました。
なので、そんなに極端に騒ぐ人もいなかったです。とにかくとんでもないことが起きたって思ったんでしょうね。肌で感じるっていうか。誰1人文句も言わず。部屋も確保してもらったことも大きかったし。
一般の方もいらっしゃったんですけど、3~4人ぐらい。その方たちも理解ある対応をしていただきました。
最終的に3月11日の晩から3月18日の一週間くらい志津川高校にいて。気になったのは、避難所から帰ったあと、「のぞみ」が、集まる場所がないっていう不安から「帰りたくない」って言った方々がいたんです。「今度いつ会えるの?」って言った方々もいて、それが印象的でした。親御さんからもそういう話があって。
思いがけず、震災を期にいきなり団体行動になったんですよね。泊まりも含めて。長い方で一次避難の期間が一週間。
その場にいる時は、気心の知れたメンバーだから、安心感はあったわけですよ。
我々職員がいなくなって解散した後に、それからが大変だったって言うご家族もいらっしゃいました。
解散して、一緒に生活していたのが一旦おしまいになってしまったから、避難所を我々が行くと、一瞬明るくなるわけですよ。知った顔だから。
「あ~森さん来た!」とか「畠山さん来た!」って明るくなるんですけど、我々が離れるとまた現実に引き戻されて、落ちてしまっていたそうです。
最初の段階で言われた家族もいれば、何回か訪ねた中で言われた家族もいますけど「いつ再開されるんでしょうか?」っていうのはずっと言われていました。
我々は個々に、日にちは違えど会いに行ってるから、ほぼ全員に会っているんですけど、利用者さん自身はその滞在しているところにしかいないので、他の方が元気なのかどうかがわからないですからね。
畠山と再開場所を入谷地区(南三陸町の山あいの地区名)で探そうって話をして。当てがあったわけじゃないんですけどね。
利用者さんのその後の安否確認と再開場所探しをしようと言って、一旦3月18日に解散しました。
畠山と活動を再開したのが3月22日ですね。法人内の車が無事だったのでそれを足にして。ありがたかったのが、気仙沼市が早い段階で法人内の車を各一台緊急車両的に扱ってくれて。優先的にガソリン入れていいですよっていう。
朝集まって、畠山と合流して車を使って各避難所の利用者さんのところを回ったりするっていう感じでした。
その中で3月の末には活動を再開する場所が見つかったんです。
今も含めて言える事というか、ずっと我々は困りごとも含めて、その都度その都度、紙に書いていたわけじゃないですけど、プレハブがどうしても手に入らないとかも含めて訴えることを用意していたんです。
プレハブも、仮設住宅を建てるラッシュの中で、レンタルとはいえ入手する段取りもできたので、今思えばスムーズだったのかなというのもありますね。
ただ、利用者さんにしてみてば長かったと思います。一日一日が。我々は簡単に早かったって言っちゃいますけど、避難所にいた方にとっては、長かったと思いますね。
ただ、4月の半ば位だったかな?利用者さんがバラバラな中で、こちらから提案したことがあって。避難所で入浴ができなかったので、集れる職員で利用者さんを集めて、週2~3回程度、登米市長沼の日帰り入浴の温泉に行こうと。お風呂入ってご飯食べたって感じかな。全員ではないんですけど。
主に避難所生活の方とかに、そのようなことを4月、5月はやっていましたね。とにかく集る場所がなかったので、入谷地区で再開するまではそれを続けていましたね。全員均々ではないんですけど、そういうの通して集れてはいましたね。
指定を受けているわけではないのですが、福祉避難所になっている施設もあって。朝晩は家をなくした職員や利用者と一緒にご家族も共同生活をして、日中は普段のように作業をしてという生活をしていたそうです。ご家族の方も、そこから職場に向かわれたりしていました。
別の施設でも、被災した地域の方々もみなさん避難してきて、最大8月くらいまで一般の方もいるような状況だったそうです。福祉避難所扱いとして気仙沼市からへ支援もお願いして、応えてもらっていたそうです。
「のぞみ」もそういう支援を受けた施設から支援物資を分けてもらって、避難所にいる利用者さんたちに持っていって分けていました。
再開前の5月の連休明けくらいにJDF(日本障害フォーラム)の存在を知りました。障害を持つ方たちのお手伝いしたいっていう方々でした。その方々には、5月末の入谷地区の私有地にプレハブを設置しての再開の際には、最初は自分たちと一緒に畑おこしをやってもらいました。
JDFの方々はほぼ全国、北は北海道、南は沖縄の方まで来ていただいてましたね。
全国地図を作ったんですよ、来てくれた県を埋めていくような。後々支援に来た方々にお礼をしたいなって思いまして。「のぞみ」の元気な様子を伝えたいなって、広報誌とかを送りました。
震災前は十何社かな?町内の企業さんから仕事いただく委託作業が中心でした。自主製品はなかったんですよね。
再開してすぐは仕事としてやることがないので、とりあえず集れることへの喜びと、今目に前にあることをやろう!というような感じですよね。それで畑作業を始めたけど、慣れる慣れないとか云々よりもやるしかないっていう。
ただ雨の日になると、プレハブ内は立ってじゃないと職員も利用者さんもいられないスペースしかなかったんですよ。
だから、雨が降ったらどこかでかけるっていう。本来逆な感じなんですけど、そんな生活でしたね。
集るところができて、久々に会った方々もいらっしゃったので、笑顔が出ました。毎週、週替わりでJDFの方々も来ていましたしね。
利用者さんのご家族も仮設とかの手続きも始まってきた頃だったこともあり、日中預ける場所があるっていうのが良かったっていう声もありましたね。
私も畠山も先のこと考えた時に、畑作業は冬があるのでずっと続けられないよねって、中でできる作業的なものがなければねって話をしている中で、たまたま現場の中から紙漉きはどうですか?っていう話が出て。
その流れで、「社会福祉法人 仙台市手をつなぐ育成会」の職員さんが訪ねて来てくださった時に、紙漉きやステンシルの道具一式をもらいました。紙漉き作業を進めている時に、さらに社会奉仕団体の「世田谷ライオンズクラブ」の方とお会いして、紙漉きの機械を入れていただきました。
次の町有地のプレハブには、寒くなる前の11月に移れました。入谷地区にあったのよりちょっと大きいんですよ。雨の日も入れるようになって、エアコンとかもつけて、これで冬越せるねって感じでホッとしました。
そうやって、やれることが広がっていく中ではあったけど、最初の2年か3年は、言い方悪いんですけど、お祭り状態っていうか、自分たちも整理できないまま日々過ぎて行く感じでした。
色々なことを、自分たちで決定していくタイミングも、もちろんありました。でも、みなさんが気にかけてくださる中で、自分たちで決めたっていうよりか、来て下さった方たちが決めたことが多いんじゃないかなって思う時があるんですよね。
本当にすごい方々と出会って、タイミング良くタイムリーに支援していただいたなって思います。その時は気づかなかったわけではないんですが。
利用者さんも同じく、私とか畠山を介して、いろんな方々が来て、気づいたら紙漉きの機械が入っているとかそういう感じだったと思います。モチベーション高くやっていたというよりか半ば強制的な感じで、やるぞ!って勢いよくやっていたというか。日々変化していく中で順応していくという感じだったと思います。
あと、最初いただいたステンシルの道具は誰がやっても同じくできるっていうものではなかったんですよ。マヒのある方は、押さえが必要で。そういうツールに関しては、自分たちで考えたりして、やり方を見てる中で工夫をしてました。
そういうこともあり、震災前に家の農作業のお手伝いするために休んだりしていた方が、震災後、紙漉きが始まっていろんなことが忙しくなると、お家の事情でお休みするのは全然問題ないのに、本人がすごいやる気になってくれて、「俺が休んだら仕事回らない」って自信を持ってやってくれていました。誇りを持ってやってくれてるんだなって思いました。
自分たちの力だけではなくて、「のぞみ」を介して支援したいとか、「のぞみ」のご家族からのコネクションで支援に来て下さったっていうことがあります。
誰かが誰かと自分たちをつなげてくださったっていう感覚がありまして、だから我々はあんまり活動的に何かをしたっていうのはないんですよ。
そこにいて、誰かが来てくれるというような、すごく恵まれているんですよ。人が人を呼ぶっていうか、不思議な感じでしたね。
最初の2年くらいは、絶えず、下手すると毎週のようにお客さんが来ていたような気がします。
南三陸町の場合は、メディアを通じて町長さんが出ていたので、発信力があって、それでスポットが浴びていたこともあり、いろんな方々に助けていただけたのかなって思います。
場所とか時期とか違っていたらまた違った歩みだったのかなって思う時はあるんですけどね。
人にもよるので、全員にはできないけど、利用者さんにあえて震災の話を振ることもあるんですよね。
もともと休みがちだった人が、仮設に入っていた時は毎日来れていたのに、家ができた途端にまた休みがちに戻ったんですよ。
だから、そういう人もいるんで、思い出させたほうがいい方もいれば、もちろん触れないほうがいい方もいて、その辺は難しいですね。
口に出せる方はいいんですけど、口に出せない方ほどどうだったのかっていうのは考えますね。
震災前はなかったけど、震災後は夜中うなされる夢をみてるっていう話を言うご家族もいらっしゃるので、いろいろな形がありますけどね。
残念ながら、自分自身も含めてそういうケアをできないまま来てしまった、これまでだったなという反省があるんです。
週替わりにJDFの支援員さんが来て、だんだん打ち解けていくうちに、利用者さんって、自分の体験したことしか伝えられないので、自分の体験をそのまま彼らに話していくんですね。
その中に成長を感じるんです。まったく同じ話を別の人にしているんだけど、先週と違う伝え方してるなとか。
それは、障害があろうがなかろうが経験なんです。
震災っていう見えない傷を負っている中で、しゃべることで浄化されたり、自分の中で受容が深まるっていうことですかね。
例えば、未だにひきずっている感があると思うんですけど、多くの女性の利用者さんが震災後、持ち物が多いんです。自分がでかけてる中で地震がくるのが不安で。我々はそれを見てまだ続いているんだなって思っているんですが。家が流されて自分の宝物がなくなったので。
ただ、話しているうちに自分のうちや大事なものがなくなったんだっていう実感を、毎週違う人だけど他の人に話すことで納得していって。
最初は受け入れられなかった状態がだんだん話すのが続いて、かつ毎週人が変わるから、話せたことによって落とし込んでいって成長できたんですよ。あったこと自体はなかったことにはもちろんできないんですけど。
異性と写真撮るのが好きな利用者の方が、最初は自分で声かけられなかったんですけど、自分で声かけてみて写真を撮るっていう作業を、だんだん繰り返していくことで、できてくるっていう成長もありました。
おそらく利用者さんにとって、お互いやり取りしていく中で勉強しあうというすごい貴重な経験だったなと思いますね、震災後の人との関わりというのは。
まだプレハブでの運営なので、本設と言いますか、ちゃんとした箱物ができてはじめて復興って言えるんじゃないかと思うんですね。だから、それができる平成31年春が我々にとっての岐路なんだろうなって思います。
でも、建って終わりじゃないですから。そこからがまた一歩一歩なので。これまで出会ってきた方も含めて、偉大なというか大きい財産なので大切にしていきたいです。
震災時に来てくれたJDFの方が今後10年間来ますって話をしてくれて、それもすごいなぁって思うんですよ。だからそういったことも忘れないことも大事だし。
その活動の行動力ですよね、自分だったらできないなって思ってしまう。やっぱり今のことで目いっぱいになってくるんで。我々もふところ広くなりたいなと。有限実行というかね、そういう風になりたいですね。
いろんな方々の影響を受けて、良い経験というか、悪い方向には行っていないんじゃないかなって思います。
被災した障害者就労支援事業所等が集る連絡会議をきっかけに、障害のある人のアートを社会に発信する「エイブルアート・カンパニー(現:エイブル・アート・ジャパン)」と繋がって、「のぞみ」の熱意を感じ取って下さり、紙漉きと南三陸のシンボルを組み合わせて何かやろうということになりました。
南三陸にまたモアイが来ることもあって、利用者さんたちにイラストを描いてもらって、その中で1人の利用者さんのモアイの絵を選んでもらい、それを商品化しようということで動き出しました。それで、まずはタオルを作って下さって。そこからとんとん拍子に進んでいきました。
ただ、モアイグッズは副産物的な売り上げにはなるので、今後、新アイテムを展開していかないと下火になってくるとは思うんですね。
世の中はシビアですが、個人的には綺麗事かもしれないけど、障害を持った方々が作った素敵なものが、いろんな方々に関わってできているんだってことを、後追いで一般の方に聞かせたいなっていう思いがあるんです。
商品が良くて、お金払って下さって、後から「あ、これそういうところで作ったの!?」って知ってもらうというのが理想的。そういう物づくりをしたいなって思っています。
利用者さんは、認められるっていうことに慣れていない方々多いので、こういった物づくりを通すことによって、障害者の方々への誤解や我々も周知できていない部分など、困っていることは意外とちょっとだけなんだよっていうことを広めたいですね。
障害っていう言葉だけが独り歩きして、「大変」ってなるんですよね。
どうしてもなかなか知られていない部分があるなっていうのが課題です。そのためにも紙製品で売り上げをあげられたらいいなと、もがいているところです。
今後も、のぞみに関わってくれた方々への感謝を忘れずに、利用者さんと共により成長していきたいなと思います。