松田千絵さん

お話:松田千絵さん(女性/当時40代/聴覚障害)

地震発生

被災当日、松田さんはどちらで何をされていましたか?

鹿折地区にある職場の方にいました。水産関係の会社で働いておりました。全部で5工場くらいがありましたが全部つぶれてしまって、今は規模縮小による統合ということで自分も解雇ということになりました。

 

会社での業務内容はどういったものでしたか?

出荷、包装、組立て等を行っていました。

 

お勤めはどれくらいの年数だったんですか?

長かったです。11年間でした。

 

お住まいは当時気仙沼でしたか?

鹿折の県営住宅に住んでいました。山の上ですね。

 

揺れ始めた14時46分は、ちょっといつもと違うような感じはしたでしょうか?

そうですね。仕事中でしたので、みんなと一緒にまず会社の前の広場に集合して、部長が点呼確認して全員いることがわかって、それが100人くらいいたんですけども、それが終わってから全員で部長の後について避難しました。

 

会社は低い土地にあったんですか?

そうです。目の前の駐車場に停まっていた車が揺れで波打っていました。何だかめまいがするような感じで、テーブルの下に隠れるとか、そういうのも無理で、立ったまま「いつもと違う、おかしい、揺れが強い」と思いました。その時は、津波が来るというふうにはわからなかったので、まあサイレンとかも聞こえませんので。二階の天井が落ちてくるんじゃないか、つぶれてくるんじゃないかっていう不安から、すぐ部屋を出たいと思いました。窓の外では配管が壊れて、水が噴き出ているのが見えました。本当に「あー、どうしよう」と思いましたが、部長に「今外に出てはだめだ、とにかく大事なもの、貴重品を持って、準備しなさい」と言われ、待機していました。その後、避難をしました。建物がつぶれるんじゃないかっていうことだけが心配で、とにかく逃げることができて安心していました。揺れが収まった頃に自宅に戻ろうと思ったのですが、会社の同僚が15時ちょうどくらいに「危ないから戻ってはだめだ。ここで待っていた方がいい」と声を掛けてくれました。私はなんでだろうと思っていました。まだ津波が来るイメージが無かったので。その理由がわかったのが15時30分くらいです。実際の津波を目の前にして「あ、津波が来たからか。だからここにいろって言ったのか」と理解しました。そのあとは同僚と一緒に流れていく津波を眺めていました。大きな船が海の方からすごいスピードで流れてくるのが見えて、どこまで行くんだろうと思いながら見ていました。他にもいろんなものが流れてきて、家がその形のまま流れてきたり、車も流れてきて。「きっと会社も車もダメだろうな」と思って、みんなで足が震えてきて、帰れないっていうことがわかりました。

 

部長さんと皆さんが避難した場所は、高台だったということですね?

そうです。狭い道なので、車は通れません。そこをみんなで歩いて逃げました。会社からだいたい5~10分くらいの距離です。

 

当時の会社では、津波を想定した避難訓練などはありましたか?

いえ、なかったです。

 

では、ここが避難場所だと決まっていたわけではないんですね?

はい、初めて行きました。部長が他の上司とも相談して、あそこの山に逃げようと決めたそうです。その時に食べ物も準備して、リュックに入れていきました。

 

食べ物は何を持ったんですか?

缶詰です。缶詰を作る会社でしたので、それを持っていきました。

 

松田さんのお住まいの地域では、津波を想定した避難訓練はありましたか?

それもなかったです。

 

では、避難のための知識などはあったわけではないんですね?

わからなかったんです、本当に。何も考えてませんでした。今と昔では、地震があってからでは、本当に意識が変わっていると思います。

集会所での2日間

高台に避難した後、100人近い職員さんはどうしていたんですか?

自宅の様子や家族の様子を見に、徐々に帰っていく人もいました。近くに家がある人は歩いて帰って行きました。私は集会所に2日間いました。地域の人も集まってきて、家が流されたりつぶれたりした人は1ヵ月くらいいる方もいたようです。

 

集会所は水は出ましたか?

出ませんでしたね。他の人が車で遠くまで行って、山の水をタンクで運んできてくれました。みんなで少しずつ飲み水として分けていました。食べ物は1日1食、同僚と夜に缶詰を食べました。二人で半分ずつ食べて、お腹は空いたしすごく疲れました。

 

集会所は広かったですか?

だいたい20畳くらいですね。10畳くらいずつの二部屋です。

 

ぎゅうぎゅう詰めでしたよね?

ほんとうにいっぱいでした。布団もないし。裏の家の人が毛布なんかを支援してくれて、本当に感謝しています。とても寒かったので、隣の人とピタッとくっついていました。足を伸ばすくらいのスペースも無かったので、ずっと曲げたまま眠るような感じでした。会社の作業着のままだったので、とても寒かったです。

 

周囲の同僚とはどのような会話をしていましたか?

ちょっと会社の人に「何話してるの?」と聞いてみると、周囲の同僚は家族の安否確認をしていたようです。家族のことが心配だから帰りたいと。私も3月12日に帰りたいということを伝えましたが、会社の近くは火事になっているからと止められました。それで、3月13日に同僚と一緒に娘の学校まで歩いていき、無事娘と再会することができました。

前日の3月12日に会社の上司から「娘の名前は何?歳はいくつ?」と筆談で聞かれました。それを子供のいる人たちみんなに聞いて回って、メモを取っていて。上司が歩いて1時間くらいの小学校・中学校に確認に行ってくれました。「お母さんは大丈夫ですよ、お父さんは生きていますよ」と、先生に連絡をしてくれたんです。そして「娘さんは元気ですよ、無事ですよ」ということをみんなに伝えてくれて、本当に安心しました。

 

会社の方々とのコミュニケーションというのは、普段はどうしていたのですか?

筆談です。震災の時はたまたまカバンに「筆談ボード」を入れていたので、それを使ってやり取りをしていました。もし、紙が無ければ…身振りとかで何とかするか、何も言えなくて情報の伝達の仕方がなくて我慢するしかなかったかもしれません。

 

避難する時には、周りの方に手を引かれて避難したのですか

いえ。前後を同僚に挟んでもらって、前の人に付いていく形で避難しました。

 

会社には松田さん以外に聴覚障害がある方は働いていたのですか?

いえ、私だけでした。他には知的障害をお持ちの方がいらしたんですけども、その方も一緒に逃げました。

避難所 お寺での生活

3月13日に娘さんと再会された後にどのように行動されましたか?

娘と県営住宅に帰ろうと思ったのですが、会社の同僚に止められました。帰らない方がいいよ、近くの避難所に行った方がいいと。何でなのか自分ではわからなかったのですが、電気が止まったままで、水もガスも使えない、ご飯も食べられないということを同僚はわかっていたんです。聞こえるので、情報としてわかっていたんですね。「水、だめ」とかを身振り手振りで示してくれたので、それを見て理解することができました。私が聞こえないので、娘と二人だけでは心配だから避難所に行った方がいいと言われて、一緒に避難所まで付いてきてくれて、事情を説明したうえで紹介もしてくれました。避難所はお寺だったのですが、そこで娘と二人でしばらく生活していました。自分だけでは全く情報が入っていなかったので、電気やガスのことを教えてくれて避難所に行けたのは本当にホッとしました。

 

お寺にはどれくらいの期間いらしたのですか

だいたい1ヵ月半くらいですね。電気が復旧するまでですね。

 

食事はどんなものが出ましたか?

パンとかおにぎりですね。あ、それからカレーライスですね。本格的な、鶏肉が入ったやつ。それを食べた時は本当に一生懸命作ってくれたというのがよくわかったので、「満腹!」っていうくらい、美味しくいただきました。それでもまだ量があったようで、私には少し多すぎるくらいでした。他にもレタスのような野菜もたくさん届いたので、それも食べました。煮炊きをして何かを食べるというのは、頻繁にはできなかったので、毎日たくさんのサニーレタスをそのまま食べました。本堂の入り口近くにはお菓子や飲み物が置いてあって、それは自由に食べることができました。後は、新聞があったので、それを読んだりして過ごしていました。

 

お寺に避難されていた方は多かったですか?

だいたい100人くらいはいたと聞いています。トイレに行く時は、寝泊まりしていた本堂の入り口に置いてある懐中電灯を持っていきました。たくさんの人が隙間なく寝ているので、踏んでしまわないかという心配もあったんですけど、間を摺り足で歩いて行きました。

 

お寺に避難している間に一番困ったことは何だったでしょうか?

避難所に行ってすぐの頃なんですが、私が聞こえないということを周りの人がわからなくて、誤解があって。特に困ったのが朝なんですけど。「おはようございます」なんて声を掛けあう時に「無視された」と勘違いされたことがありました。おばちゃん二人から「若いくせに失礼な…」みたいな視線で見られていて、「なんでだろう、おかしいな…」と思って、隣にいたおばあちゃんに「あの人達に何か悪いことしたかなぁ」と聞いたら、「負けないで、強くいきなさい」ということを言われて、気づいたんです。私が聞こえないことを周りの人たちがわからないんじゃないのか、自分から伝えないといけないんじゃないかと思って、紙に「私、聞こえないんです。この前はあいさつに気づかずにすみませんでした」と書いて、次の日の朝におばちゃん二人に見せに行きました。そうしたらそのおばちゃん二人が「あぁそうだったんだ、聞こえると思ってた」というふうに言っていただいて、誤解が解けて笑いあえる仲になりました。その後、「あの人聞こえないんだって」ということを周囲の人にも伝えてくれて、私のことを呼ぶときはみんなが肩をトントンして呼んでくれるようになって、そのお二人には本当に助けられました。大事なのは、待ってるだけじゃなくて自分が聞こえないんだということを伝えていかないといけないな、と思いました。

 

良かったな、と印象に残っていることはありますか?

最初はすごく苦しかったという所があったんですが、聞こえないっていうことを伝えたら、スッキリしたというか、周りの皆さんとの交流もスムーズになって、本当にホッとしました。そこからは安心して生活が出来るようになりました。コミュニケーションはなかなか難しい部分もありましたけど、筆談とかでやりとりをしました。

 

着る物などはどうされていましたか?洗濯とかもなかなか難しかったと思うんですけど。

洗濯は水が使えなかったので無理でしたね。仕方がないのでずっとそのままでした。お風呂も無理ですし、髪の毛もゴワゴワしてきました。靴下がなくて裸足のまま逃げてきた人もいました。寒そうにしている人の様子も多く見ました。

他にも、携帯電話の充電ができない状況だったので、充電が一杯されている私の携帯を貸し借りしたり、発電機が来た3月の下旬からは、充電コードの貸し借りをして、みんなで充電していました。無くなると困るので、名前を書いて貼っておきました。

3月の末くらいには東京や大阪から支援物資がたくさん届いて、服なども届きました。「婦人服が届きました。希望がある方並んでください」っていうアナウンスがあったことを娘が知らせてくれて、近くにいたおばあちゃん達も「若い人に合う服が来たよ。一緒に並ぼう」と声を掛けてくれました。「アンタは若いから赤い服が似合うよ」っていっぱい勧めてくれました。自分の好みではなかったのですが(笑)それをもらって帰ってきました。他の人達も、苦しい現状を忘れて、あれが似合う、これが似合うなんて話をたくさんして、笑顔でいる様子が見られました。何かあった時に、お互い様っていう気持ちでやっていけたら気持ちも温かくなるものですね。

自宅に戻って

お寺の次に、また別な所に移動されたんですか?

電気の復旧があったタイミングで、自宅に戻りました。電気が付いたときはみんなとても喜びました。

「水道はまだ2~3か月かかるみたいですよ」と言われましたが、自衛隊の方々がトラックで支援に来てくれていることも聞いたので自宅に戻りました。電気が付けば夜でもコミュニケーションが取れるので。ですが、食べ物は無い状態なので、どうしようかと娘の同級生のお母さんに相談しました。「ご飯ってどうしてるの?」とか、「給水のトラックは何時くらいに来るの?」ということを筆談で教えてもらいました。日曜日にはボランティアさんがカレーを作ってくれるのですが、最初のうち、私はそれを聞いていなかったんです。たまたま娘がその情報を聞いてきて、みんなが向かっていく場所にお鍋を持って向かいました。給水のトラックには時間を確認して並んでいましたが、自分の順番が来る前に水が無くなってしまった時には、ジェスチャーなどを交えて次の給水時間を教えてもらいました。自宅のガスがLPガスだったので使うことができましたが、水が豊富に手に入る状況ではなかったので、お風呂には入れませんでした。3月下旬くらいに岩手から友人が車で来てくれて、「一緒にお風呂に行こう。ご飯も食べに行こう」と言ってくれました。娘と3人で岩手まで行ってお風呂に入り、ご飯を美味しくいただいて戻ってくることができました。

水道はだいたい2か月後くらいにようやく復旧したっていう状況でした。そこからはお風呂にも入れるようになりましたし、ご飯も炊けるようになりました。

 

普通の生活サイクルが戻ってきたのは、ご自宅に戻ってからどれくらい経ってからですか?

仕事が無くなってしまっていたので、苦しい状態っていうのは1年、2年…。「前と同じ生活」っていうことにはならなかったですね。本当に全く変わってしまったと思います。前はそんなに深く考えなくても生活できていたのに、震災の後は買い物に行くための道路も通行止めや浸水ばかりで、本当に不安になりました。以前は手話サークルの友人と飲みに行ったりお話をしたりもできていたんですが、また地震が来るかもと思うと怖くて夜に出歩くことはできませんでした。2~3年経って久しぶりに友人と集まりましたが、前は家いっぱいあった所にも何も無くて、当時の辛い気持ちが思い出されて苦しくなってしまいました。

娘が高校に入る時に、娘とも相談をして、これから仕事をしていくことも考えて、仙台に引っ越すということを決断したんです。そうしたら娘の気持ちも落ち着いてきたようで、だいぶ元気になってきたようで、ほっとしました。娘も自分もお互いに元気になっている状態です。ここまでいろいろありましたけどね。

震災を経験して思うこと

 震災の前と後で、精神面あるいは体調面で変わったと感じることはありますか?

あります。すごく痩せたんです。娘も同じです。当時中学校1年生だった娘にはいろいろ助けてもらいましたが、ただ、やはりパニックになる所もありました。一番娘がイヤだといったのは「警報」です。雨が降ると水かさが上がりますとか、道路が通行止めになりますっていう放送が鳴るたびに怖がっていました。余震があればすぐに目が覚めて、荷物を持ってすぐに家を出ることの繰り返しで、本当に精神的に疲れました。

LEDの携帯用ランプや懐中電灯を部屋にたくさん置いて、寝る時も光がある、何かあったらそれを持ってすぐに逃げられるようにしていました。それは今も変わらず置いています。食べ物もそうです。備蓄というのは今もしています。

 

防災意識が高まったということですよね。緊急情報の取得というのは、震災前はどのようにされていたんでしょうか。

テレビ、スマホです。アプリなどを活用していました。娘が学校などでいない時は耳からの情報が入らないので、スマホとかテレビを観て情報を得ます。街中のことでいえば、電光掲示板のようなものがあればいいなぁと思うことがあります。私の場合は、筆談などで「何があったの?」と聞きに行ったり、周りで話している人の会話を読み取るために気を巡らせないといけない。何度も何度も聞いているうちに、聞こえている人もこちらも互いに気を遣ってしまうんです。できれば音声放送以外にも、見てわかる物も示してもらえるとありがたいですね。

 

震災を経験して、聴覚障害の方に向けて備えておいた方がいいと思うことやアドバイス等があれば教えてください。

熊本地震のニュースなどで、家族に聞こえない人がいる時に、情報が入らなくてご飯の配給が3日間もらえなかったというのを見ました。避難所ごとに状況はまちまちだと思うので、隣近所の人たちには、自分が聞こえないということを伝える、ちょっと面倒だけどニコッとして(笑)伝えることが大事かなと思います。苦しい表情とか不満な表情を見せるのではなく、「よろしくお願いします」っていうふうになれば、周りの人たちも「いいよいいよ」って言ってくれると思います。「多くの健常者の中にろう者の自分が一人だけいると、遠慮してしまったり、何か恥ずかしい」というろう者の方のお話を聞きました。「障害の無い人と障害のある人の部屋を分けるっていうのも一つの案なのかな」と言っている障害者もいました。

 

聴覚障害の方を健常者がお手伝いする際に、どういったことを意識しておくといいか、教えてください。

聴覚障害は見た目ではわからないという部分があるので、自分が聞こえないんだということを周囲に向けて表す必要があると思うんです。自分から発信していく。中には黙っている人もいるんです。個人の性格的な部分でもあるんですが。「聞こえていないのに、サポートされない」という不満を持つ方もいるんです。なので、支援してくださる方には、最初に「聞こえない人いますか?」「障害のある人いますか?」「病弱の方いますか?」「薬飲んでる人はいますか?」なんて紙に書いて出してもらう、確認してもらう、そのうえで対応してもらえるとその後が楽だと思います。みんなに見てもらって共有できたうえでサポートしてもらえる形だといいなと思います。

 

聴覚障害を持った方とコミュニケーションを図ろうと思った際に、手話ができなければ、簡単な方法としてはやはり筆談になりますかね?

そうですね、やはり筆談とか、あとは身振り手振りもいいですよ。

 

健常の人に知ってもらいたいことや訴えたいことはありますか?

あります。聞こえる人は津波が来るいうことも会話や警報を聞けばわかる、でも聞こえない者はそれがわからない。どうしたらいいんだろうってなった時に、聞こえる人が手をつないだり服を持ったりでもいいから、一緒に行動してもらえるとありがたいと思います。聞こえない人は自分で勝手に動くというよりも、聞こえる人達の様子を見て、真似て一緒に避難するっていうのが多いと思います。紙とかが無い場合は仕方がないから手の平に書いたり身振り手振りだったり、表情だったりで示してもらって一緒に逃げる。その後別れるとかでも構わないです。それが発災直後の話ですね。

あとは懐中電灯が必要なんです。筆談をする時や、携帯電話の画面に文字を打って、それを聞こえる人に見せるとコミュニケーションが取れるんです。暗い場所で見てもらうためにも、懐中電灯は欠かせませんね。今、便利なアプリがあって、打った文字を大きく見せることができるんです。筆談するものが無い時には、こういう携帯電話とかを使って、情報を伝えたり、情報を得たりしていくんですよ。ただ、バッテリーが無くなるとそれで終わりなんですね。電池残量が少なくなるとハラハラしてしまいます。

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