写真:基礎だけが残った閖上の渡辺さんの自宅
渡辺征二さん(男性/当時70代/聴覚障害)写真:基礎だけが残った閖上の渡辺さんの自宅
渡辺征二さん(男性/当時70代/聴覚障害)どうやって避難したのですか。
慌てて兄の車に乗せられて避難しました。
気づいたら道路に30センチくらい既に水が来ているのが見えて、道路に散乱したブロックや瓦礫に乗り上げながら走りました。
海沿いや孫のいる小学校の方まで車が渋滞していて、中学校の校庭にも車がいっぱい停まっていたので、別な狭い道路を抜け高速道路の下に車を置いて高速道路によじ登って避難しました。
海の方を見たらすごい津波で船や松の木、車などものすごい数が浮いていて大人も子供もみんな流されていてとても怖かったです。
松の木が家にぶつかったりしていて、その勢いや流れがものすごい速さでした。水面の上昇もすごくて、ここも危ないと感じました。
下に停めていた車はまだ大丈夫だったので、再び兄の車に乗って高速道路の下の細い道路を逃げました。内陸部の袋原方面や名取市文化会館、増田中学校へと走りましたが、行く先々が渋滞で車等もいっぱいで停められませんでした。姪が名取市の内陸部山沿いにある愛島団地に住んでいたので最終的にそこまで逃げました。
そこにたどり着いたのは何時頃でしたか。
5時頃だったと思います。2時間少しくらいですね。
それは早かったですね。姪の住む愛島団地まで行って難を逃れたということですよね。
そうです。息子夫婦や親戚たちもみんな山沿いの愛島団地に避難してきたのでそこで再会して無事を確認することができて嬉しかったです。ここの姪宅で5日間お世話になり、その後仮設住宅に移るまでの間、仙台の中心部にあるお嫁さんの実家の青葉区西勝山で過ごしました。
その間生活するにあたり、お嫁さんの実家では困ったことはありましたか。ご飯などはどうしていましたか。
食べ物も少なかったし、水道、ガスも止まっていて、煮炊きはできなかったので食事は思うようには食べられませんでした。ですから、ホームセンターでおにぎりやパン、水、そういったものをもらいました。
あとは市の方から配食が所々にあり、そこからもらっていました。
停電していましたし、家屋は瓦が落ちたりしていたのでブルーシートでカバーしていました。古いお家だったのでだいぶ壊れていました。1ヶ月間お風呂も入れず体はかゆいし、洗濯も出来ず、服の支援が無かったので着の身着のままだったのが辛かったです。
お嫁さんの実家の仙台市西勝山周辺にある避難所や支援センター又は公民館などには移ることはしなかったのですか。
移ろうとは思いませんでした。家の方が広いので。