当時のマザーズホームの場所を確認したいんですけど、海沿いでしたか?
そうですね。周りに建物があるから、建物の中から海は見えなかったんですけど、震災後は「海がこんなに近かったんだ」と感じました。道に出ると船が漁に行くのが見える場所ではありましたけど。
避難された公民館というのはどのあたりでしたか?
すぐ近くなんです。大人の足で走って1分かからないくらい。2-300メートルくらいでしょうか。14時で幼児保育が終わって、マザーズホームの利用者さんはいないタイミングで揺れが来ました。職員は三人が園内にいて、小学生の担当二人が学校に迎えに行っていました。ものすごい横揺れだったので、園庭の藤棚の鉄骨にしがみついていました。揺れながら隣接の一景島保育所の様子を見ていたら、保育者が少ないんですよね。お昼寝の終わり頃なので「あっ、助けに行こう」と思って、入っていきました。そして園児に服を着せたり、避難車に乗せたりして手伝っていました。
一景島保育所は健常児の保育所ですよね。
そうです。0歳児からのお子さんが60-70人くらいいたんですよね。3歳未満のお子さん達は避難車に乗せて避難しました。もっと小さいお子さん達がたくさんいるけど、保育士さんが二人くらいしかいなかったんですよ。「これは大変だ」ってことで、一景島保育所の子どもを、マザーズホームの職員もおんぶして公民館の方に向かうことにしました。
公民館へ行く前に、マザーズホームの事務室に行き、重要書類や避難用品を持ち出そうとしました。その時一番怖かったのは、津波が来るだろうとは思っていたんですが、「津波ってどうやって来る」のかわかんないんですよね。「見たことのないものへの恐怖」っていうのかな、「ザザザ…」って水の音がしてくるのか、「ヒタヒタヒタ…」と迫ってくるのか本当にわからないので、とても怖かったです。
背中におんぶしていたお子さんの命を預かっているわけだから、「早く逃げなくちゃ」っていう気持ちはもちろんありました。だけど、私は施設長なので「何か持って逃げなくちゃいけないんじゃないか」っていう、その辺の判断というところですごく迷いましたね。
施設の入り口に避難グッズは用意していたんですけど、それって絵本や水が入っていて、結構重かったんです。そして背中に背負うタイプのバッグだったんです。私はすでにお子さんを背負っていたので、背中の子優先だと思って「絵本も水も無くても、何とかなるだろう」ということで自分のバッグと施設の書類データが入ったUSBを持って逃げたんですね。そういう状況と判断のもと、何とか逃げました。
以前から地震があったら津波が来るぞ、という意識は地域の防災訓練などで言われていたんでしょうか。
もちろん、宮城県沖地震がさかんに言われていたので。やっぱり海に近いということで、保育所では「いつ津波が来るか」ということを想定して「お昼寝の時に来たら一番大変だよね」っていう話をしていたんです。それで近くの一般企業と連携して、男の人にも手伝ってもらいながら逃げる訓練をしていたんです。他にも民生委員さんとの合同訓練もしていました。消防の方にも「いざという時に私達は来られないかもしれない。自分達で何とかできるようにしないとだめだよ」ということは言われていたんですね。まさにその通りになりました。
普段から避難すべき場所というのはわかっていたということですね。
公民館しかなかったので、もう決めていましたね。あの日は公民館長さんが「早く逃げろ!」って迎えに来てくれました。年長・年中・年少さんはいつも訓練していたので、職員も冷静に「服着ましょう」「バッグ持っていくよ」と声をかけて。当時から「走るな、話するな」って教えていたので、整然としていました。で、公民館に逃げました。一部三階建てで、後は二階建ての構造です。二階に和室のスペースがあって、訓練の時はいつもそこに逃げていたので、その時も同じ場所に逃げました。マザーズの職員も、保育所の子どもと一緒に入りました。次第に地域の人も入ってきたんですけど、誰かが「こんな所にいたら死んでしまうぞ、上さ上がれ!!」って言ったんですよ。後でわかったんですが、その人は南小学校にお子さんを迎えに行ってきたお父さんで、「放送で10何メートルとか言っていたから、ここじゃ死んでしまうから上に上がれ」と教えてくれたんですね。それで慌てて三階に上がったんです。それから近所の人達がどんどん上がってきて、車いすの人とかもみんなで上げたりして。年配の人が多かったですね。そのうち「来たぞ来たぞ」っていう声がして。はっと思って窓の方を見たら黒い波がザーっと迫ってきて、窓にぶつかってドドン、と音がするんです。あの辺は埋立地ですし、古い公民館なんで、建物にヒビが入ったりして大丈夫かなと不安でした。
そうしているうちに本当に人がいっぱいになって足の踏み場もないくらい。そのうち「三階にいても危ない」ってことになって、屋上に逃げることになったんです。屋上に行く梯子に登るには120㎝くらいある金網を超えていかないといけないんですが、金網を開ける鍵がないんですよね。男の人達が叩いたりしてもなかなか開かないので、見つけてきた箱を足場にして、一人ずつ抱えて移動させました。保護者や男性陣が子どもを一人ずつおんぶして屋上へ上げていきました。年長さんだともう体格のいいお子さんもいたりするから、男の人達は大変だったと思いますよ。点検用の梯子なので、大人も大変な思いをして上げました。
時間が経つに連れて、雨がみぞれになって雪になってどんどん寒くなってきて。そうしたら誰かが公民館のカーテンを持ってきて、それを体にかけて暖を取りました。
その時点で屋上には何名ほどいらしたかわかりますか?
後で公民館避難者の名簿を作ったら400数名いたようです。一景島保育所のお子さんは60数名ですね。夕方、暗くなってから海に火がついているのが見えました。南のタンクがあった方で。その火がだんだん内湾の方に来たんですね。それが内湾と鹿折地区の方に伸びていって。「こっちに来なければいいな」と思っていたけど、公民館の方にも火の手が伸びてきました。ガレキに火がついて、どんどん押し寄せてくるんです。これが公民館に引火したらどうしようという恐怖がありました。それに加えて揺れもあるもんですから、建物が壊れなきゃいいなとも思っていました。
その時点ではもう息子さんにメールをしていたんですか?
ええ、もうメールしていましたね。息子は二人いるんですね、千葉と、イギリスと。両方にメールしました。その後、津波と火が落ち着いてきたところで、再び建物内に降りることにしました。外は寒くて凍死してしまいそうだったので。まずは子ども達を男の人がおんぶしてくれて、調理室に移動させてもらいました。私達職員は保育所の子ども達の様子を見ながら最後に移動しました。どこかのご老人が持ってきたラジオに耳を傾けながら、情報を取っているって感じでしたね。そんな感じで一晩明けて。その間もかなり揺れるし、怖かったですね。
翌日(12日)、何時頃かわからないけどヘリコプターの音がしてきて。「何だろう?」と思っていたら、「マザーズホームの園長先生いますか。息子さんからの要請で助けに来ました」って、東京消防庁の方が。最初は何のことだかわかんなかったです。「千葉の息子が要請してくれたのかな」とチラッと思ったんですけど、とにかく助けに来てもらったからいいや、と思って。救助は、一人ずつ吊り上げるようにして進んでいきました。医療が必要な人や妊婦さんや、優先順位の高い人から。そして夕方になって「今日はこれでおしまい」って言われて。人はいっぱいいましたからね。私はそうでもなかったけど、ある職員は本当にショックを受けてましたね。「ようやく助かった。今日中に家に帰れるかな」と思っていたのに、「明日」って言われたもんだからね。「でも明日は必ず助けますから」って言われたのがすごく嬉しかったって言ってました。そこでもう一晩過ごすことになりました。
では子ども達全員が一日目で救助されてはいなかったんですね?
全員が救助されたのは…二晩泊まってから、13日の朝ですね。公民館のグラウンドがあったんですけど、そこを整備してヘリコプターが離着陸できるスペースを確保して、東京消防庁と自衛隊が交互に来てくれて。14,5人くらいずつピストン輸送していただいて、それで助かりました。
素朴な疑問なんですけど、息子さんがツイートしたんですよね?それをたまたま見た方が信じて、それを猪瀬さんに言ったんですか?
そうなんです。息子のツイートを見た鈴木さんという方が「大変だ」とすぐ信じてくれて、この情報を誰に渡そうかって思った時に、東京都副知事の猪瀬さんがツイッターをやっていることを知っていたので情報を流したそうです。副知事だから何とかしてくれるんじゃないかと思ってとのことでした。で、猪瀬さんが東京消防庁の職員と話して「これはウソの情報じゃない。場所やいろんな状況がきちんと載っていて、救助手段まで書いてある」とすごく評価してくださって。「今は火が治まってるみたいだから、明るくなった翌朝一番で助けよう」ということになったらしいんです。
初めてヘリコプターに乗ったんですけど、公民館が足下に見えた時は「わー、助かった」と本当に思いましたね。それはすごく嬉しかったですね。そして小学校の校庭に着いて、お水をもらって、後から来る職員をずっと待った後、みんなと合流して、無事を喜んでから帰りました。私の場合は事前に情報が入っていた主人が迎えに来てくれました。それで自宅に帰って朝ごはんを食べて。うちは井戸があったので、緊急時は煮沸して水を使っていたみたいですけど。
ということは、内海さんのご自宅は高台にあるんですか?
高台でもないんですよ。国道45号線の近く。田んぼを埋め立てて作った45号線のバイパスが結構高いから、堤防みたいになって水が来なかったんです。電気も早めに復旧しました。私は家に帰った後、食事してから主人に支援学校に連れて行ってもらって、子ども達の様子を聞きました。たまたま支援学校に子どもを迎えに行った職員と車は、学校にいたので助かったんです。その職員はその車で自宅待機していたので、そこまで行って他の職員の無事を伝えることができました。
17日からマザーズホームの再開に向けて動きました。市役所に行って状況を話した後、福寿荘という老人福祉センターがある社会福祉協議会の事務所に行きました。二階に一部屋空きがあるとのことだったので、館長さんにお願いして八畳の部屋をお借りすることができました。そこをマザーズホームの仮の施設としてスタートしました。
仮の施設はどれくらいの期間続けたんでしょうかね?
新しいマザーズホームができるまでですね。一年半くらいでしょうか。
福寿荘に来ていた子供達が精神的に不安定になったようなことはありましたか?
特にこの子が大変みたいなのは…。アスペルガー的な人はそれはそれで大変なんですね。で、そうでないタイプの人達は音がすると怯えるとかそういうところがありましたけど、でもパニックになってどうしようもないというような相談をしてきた人はいなかったですね。
わりと早い時期から子ども達は福寿荘に戻ってきたんですか。
はい。受け入れを始めたのは3月29日頃からですね。
これは親御さん達からの要望というわけではなくて、内海さんや職員の方の自発的な意志で再開したという感じですか?
お母さん達から「早く早く」とは言われなかったけど、早くやった方がいいだろうなとは思いましたね。それと、やっぱり経営者として給料を払わないといけない、そのためには開業しないといけないっていうのはどこかで考えてましたね。環境が変わることがすごく大変なお子さん達なんで、そこはやっぱり〈慣れた顔があるとか、場所が変わっていてもいつもと同じ動きがある〉っていうことで保障してあげたいなと思いましたね。
そして、再開するということは、私達もやることがあるってことですからね。ある職員が「何もなく、怖かった思いだけを抱えて家にいたら、精神衛生上悪かっただろう。でもやることがあるってことで助かった。」って言ってましたね。
他に助かったことは、もちろん物資もそうですけど、職員の勉強会もできたことですね。保育所の先生達もお呼びして、やりました。また、お母さん達と支援の先生方で話し合える時間を設けました。そういうことでもメンタルが安定したのかなと思います。
震災後は歌のグループの方が支援に来たり、絵を描くグループの方が来たり、乗馬体験をさせてくれる人が来たり、震災前よりもいろんな方々が来てくださったし、いろんな勉強をすることができました。
具体的には、どのような方々がいらしたんですか?
カウンセラーさんとか、言語療法士さんとか、臨床心理士さんとか、発達心理の先生とか、音楽療法の方とかね。今までだったら仙台まで研修会に行ってもなかなか会えないような方達が来てくださったのでありがたかったですね。いまだに続いている方もいらっしゃいますしね。
…こんなことをいうのは不謹慎かも知れないけど、八年経って、あの仮の施設の方が楽しかったって思う。変でしょ?
そうですか。
んー、法律が変わっていろいろ厳しくなってきたんですよね。職員の配置条件だったり、営業開始時間だったり。支援計画もちゃんと立てて、他の施設とも共同で話合いを持たなきゃいけないとか。すごくそういうところが厳しくなってきたんです。当時は本当に命からがらでいたので、そういうところも若干薄かったので、本当に今その日だけを何とか生きていくという状況だったんですけど。いろんな人が来てくれて、いろんな経験もしたし。福寿荘という建物に拒否感を持つ子供っていなかったんですよ。建物に拒否感を持つ人って自閉症には多いんですけど、みんな入ってくれて。二階だったんですけど、階段を使って体力作りをしてました(笑)。あるもの何でも使ってやっていたので、何かね、面白かったんですよ。工夫する楽しさみたいなことかな。
ある種の充実感みたいなものですかね。
そうなんですよね。今になって思えば津波や火事は怖かったけど、大丈夫だったし。一年目の夏は暑かったんですけどプールがないので、両手を広げたくらいの大きさのワカメを冷やす水槽があるんですけど、それにブルーシートを敷いてプール替わりにしたりね(笑)
普段やれないようなことですよね。
そうですよね。本当に工夫のし甲斐がある生活で。あの頃は大変だったけど、今振り返ると楽しかったなと。
東京の支援学校の先生方がボランティアで来てくれるんですけど、本の読み聞かせが上手なんですよね。子供達も本当にうれしそうに笑っていましたね。毎年夏には〈わいわい企画〉といって、いろんな所に出向いて普段できないことをやろうという企画をやっていたのですが、すぐ再開しようということになって、千厩の方に電車で行って。その時東京から来ていた先生方にも同行していただいて。本当にいつものことができたって。子ども達には合言葉は「いつもと同じ」って。それはすごく大事だなと思いました。
いつも同じってことは普段実感しないけど、それは幸せなことですよね。
リズムを崩さないで済むっていうかね。知的に重いお子さんはなかなか伝わりにくさがありますでしょ?だけど体で覚えているので、マザーズホームに来たら、こうやって、ああやって、こうして帰るんだなという流れは分かってますんで、それが変わらないということは精神の安定につながっているのかなと思います。よくいわれますけど、安全、安心、安定というのは本当に大事だなと思います。
マザーズホームの再建過程についてお聞きしたいのですが。
ユニセフがおこなっている支援の一環で、マザーズホームが再建できるかも知れないという話が市役所を通じて入ってきたんです。それで、ユニセフに対してアピールをしなきゃならないということになり、OBのお母さん達も昔の写真をいっぱい持ってきてくれて、ビデオレターのようなものを撮ることになったんですよ。お母さん達も「マザーズホームとはこんな所で私達にとって絶対に必要な場所なんです」って言ってくれて。市も大きな被害を受けて大変だったので、再建については私達のような施設は後回しだろうなって思っていたので、再建が決まったという知らせを受けたときは本当にうれしかったですね。
再建が決まってからはスムーズに事は運んだのでしょうか?
ユニセフは市内の業者に頼みたかったようなんですけど、材料も手に入らないということで、遠くの業者に頼んだようで当初の見積もりよりお金もかかったみたいですね。落成式は9月11日でした。それには猪瀬さんと鈴木さんも出席されたんです。
猪瀬さんと鈴木さんはそこで初めて会ったそうですね。
そうです。新幹線の中で初めましてって感じだったようです。
新しいマザーズホームになって新たに備えたようなものはありましたか?
はい。今の場所は高台にあるため津波の心配はありませんが、考えられるのは火事ですね。その場所で考えられるあらゆる災害を想定することが一番大事なことかなと思っています。やっぱり子どもさん達を連れて逃げるとしたら、どうしたらいいのかなというのをみんなで考えたんですけども。子どもを安定というか、パニック状態にさせないことが優先順位として高いかな。避難訓練のやり方、方法を安心してできるものにしようみたいにものには変えてましたね。あと、避難場所もいつも同じ場所じゃなくて、変えていましたね。いろんな所に行けることって大事かなと思って、学校の往復だけじゃなくて、こういうところ(インタビュー場所であるシャークミュージアム)にも遊びに来てみたり、いろんなお祭りに行ってみたりするとか。そういう体験や経験を通して、彼らが安心できる場所を増やしていくことが大事かなと思っていますね。
災害があった時の親御さんとの連絡手段は?
あの時は、メールが一番いいねってことになって。今だったらラインとかかな。一人一人に連絡とるのも大変なので、一斉に繋がるものがいいだろうなって思いますね。あとは物資については地区で助け合おうみたいな協議会みたいなものが設立されて。支援学校に○○がストックされてますとか、そういう情報を流すシステムができたので、マザーズホームで全て備えなくても近くの支援学校などからすぐにもらえるようにしていこうとか。
どこの支援学校にはこういうものがあるというのが情報として共有されているんですね。
はい。入るようになっています。中学校と小学校と支援学校と公民館と保育所関係と…。
各施設みたいな感じですね。
そうですね。今までは施設だけで全て調達しなきゃいけなかったんですけど。
内海さん個人のお話をお聞きしたいんですが、被災してもとの生活に戻れたなと実感したのはいつ頃でしょうか?
もとの生活…。微妙ですね。落ち着いたのは、マザーズホームが新しい場所に移って、しばらくしてから…5年目くらいですかね。
なるほど。マザーズホームが再建して安心して、それがなじんできた頃ですかね?
新施設になかなか入れないお子さんもいらしたので、みんなが安心して生活できてから、新しい事業のことについて考えられるようになってからですかね。
次の展開ですね。
はい。それは現状を踏まえたうえで次やろうかってことだったと思うので。
確かに余裕がないと考えられないですよね。
その日暮らしだったからね。5年くらいしてそれから震災後のいろんな片付けなどは終わりにしようと。やっぱり療育などを充実しなくちゃいけないよねって思い始めて。
3.11から退職されるまでの間で、一番大変だったことは何でしょうか?
いつも大変でしたけどね(笑)。一番大変だったのは…。8年も過ぎると、これが大変といったものはないんですけどね。仕事に関することじゃないんですけど、近所の方で亡くなった方がいらっしゃいまして。一人は娘の同級生で、市役所で亡くなって。一人は消防の方で亡くなって。ウチだけ助かったみたいなね、そういうのはしんどかったですね。それも華々しく取り上げられてしまっていますからね。それは今でもしんどいですけどね。
直接外部から言われたとか、そういったことがあったということですか?
言われたことはないです。ただ、亡くなられて申し訳ないなって勝手に思っているだけなんですけど。我が家で孫が生まれたとかってそういうことが言いにくいですよね。そういうところ
がちょっとしんどいですね。未だにね。ほんとうにいつ何があるか分からないから、一日一日頑張って生きるのが一番大事なのかなって思いますね。
一日一日を精いっぱいみたいな。
そうですね。だんだん年も取ってきてますし、もしかしたらあの時死んでいたかも知れないって思うことが今の力になるっていうか。だから毎日がありがたいなって思って。
内海さんのお話を聞く中で「一日一日を精いっぱい生きる」と「いつもと同じなのが大事」という言葉が印象的でした。
はい。あと必要なのは体力ですね。逃げるにしても人を助けるにしても体力がないと。本当に思いましたね。
なるほど。
ハシゴを上る時に一番思いました。サポートしてくれる男性もいましたが、これって体力がないと逃げられないなと。そして、避難所などでもインフルエンザにかかったりするでしょ。免疫力というか、体力がないとどうしようもないですよね。
今後地震が来ると言われる地域に住む人に伝えたいことはありますか?
現金を持っていることですかね。今はカードとかキャッシュレス化が進んでいますが、電気が止まれば使えませんからね。だから、息子達には言っています。せめて2万円くらいの千円札とコインを持っていろと。
これは意外と大事なことですよ。
多分ね。経験からくるものです。小さなことですけど、常に車のガソリンは満タンを心がけるとか、お風呂に入る時でもすぐに下着とか着られるように用意して入るとか。あと寝る時は服やスリッパを準備しておくとかね。できることはしといたほうがいいかなって。
今も備えているのですか?
備えってほどでもないんですが、ひとまとめにして、寒い時は雨や雪に備えて厚めの服も準備して。パジャマだけでは寒いから。津波から逃れても屋根の上で寒くて亡くなった方もいたでしょう?やっぱり人にとって寒さはだめなんだと思うんですよね。だから、冬の寒い時に何も来なきゃいいねって気がしますね。東北の人は寒さでやられるから、寒さ対策と体力作りとか、そういうところですね。とにかく自分が達者でないと人なんか助けられないですからね。
そうですよね。
自分のマインドがだめだったら、とても人なんて助けられないから…。辛いけど無理やり良い方向に考えていくとか。施設の職員はそうでなきゃだめじゃないかと思うんですよね。職員から暗い顔していたら、お母さん達だって大変だしね。そういう意味では職員が笑いあって過ごせたのは良かったかな。冗談を言い合ったり、食べ物を交換しあったり。ささいな事で笑ったりね。
普段から職員同士で良い関係が築けていたのが良かったですよね。
そうですよね。やっぱり笑い合える、許し合えるような雰囲気っていうのは家庭でも職場でも大事だなって。だから、助けられたし、いろんな人と繋がれて楽しかったなって。こうやって退職して家にいるようになると、本当にありがたかったなって思いますよね。
繋がりはどんな時でも大事ですよね。それとストレスのはけ口というか、発散する手段が大事ということですね。
大変ですけど、支援に来て下さる人には感謝したいですよね。だって私達が行くとしたら勇気がいりますよね。
私も思います。同じことが自分にできるだろうかって。
そうですよね。関西から軽自動車に乗って支援に来てくれた人とかね。すごいって思いますよね。できないなって。
本当に分からないですよね。
だから、まずは自分の身を助ける、それから周囲の人と助け合いながらやれる力っていうんですかね。お互いにムカッとする時もあるけど、こうやってよって思う時もあるけど、でもそこを取り繕っていくということも大事かと思いますね。やっぱり職員と利用者の間に溝ができるようなことがあると大変なので、そこをうまくまとめていく力っていうのも大事なのかなと思いますね。でも職員が一生懸命やっているとお母さん達は感じてくれるので。職員が前向きでいることは大事なのかなって思います。