みどり工房若林

(注)みどり工房若林は2019年5月1より「みどり工房長町」に施設名称が変更となっております。

お話:特定非営利活動法人 みどり会 地域活動支援センター みどり工房若林
施設長 今野真理子さん(当時)

地震発生と被害状況

震災発生時は何をしていましたか?

あの日は、工房の中でレクリエーションの日でした。通常の作業は14時40分までですが、この日はレクリエーションがちょっと早く終わって2時半ぐらいに、休憩をしているときに地震が来ました。ちょうどソファーで休んでいる時でした。
利用者さんは、ただただ、驚いていた感じですね。パニックになったりとかはなかったですね。

地震の揺れへの対応、被害状況は?

休憩していたリビングの照明はガラスの照明だったので、それを避けて別のところに避難してもらい、また、食器棚の前にいた方もいたので、その方も、安全な場所に避難誘導しました。
工房では、震災前から避難訓練を常々していました。そして「工房の中の安全な場所はどこか、危ない場所はどこか」っていうのを目で分かるように記載し壁に掲示していました。
日ごろからそういった防災意識を持っていました。あの日も、これまでの訓練や準備に基づいてみんな対応してくれました。
工房内の安全な場所の確保や危険な場所の確認と合わせて、施設内の棚も全部固定していました。おかげで誰1人ケガもせず、かつ、何1つ物が倒れることなく、地震による被害はまったくありませんでした。

津波への意識

地震が収まった後の行動は?津波の危険性の認識は?

 津波への危険性は考えていました。しかし、認識していたものの、確実で安全な避難先などの検討に甘さがありました。
津波の危険性は予期していました。

では、すぐ避難の指示に?

 はい。そうですね。

利用者さんも、日々の訓練の賜物で指示に従ってくれて避難行動に移られた?

 そうですね。そこまではスムーズにできました。

避難場所の決定について

避難場所は小学校とのことでしたが、それは、津波とかの際にはそこに行くって決まりがあったのですか?

はい。ひとまず町内の荒浜小学校に避難しました。
震災前から工房として、避難先は、町内の指定避難所とは、決めていました。しかし津波の危険性もわかっていたので、それを考慮しての確実な避難場所はあの当時まだ検討段階でした。
荒浜の地形や津波避難に対する見解を防災に長けている方とお話したこともあり、この地域の構造上、津波が川のように押し寄せる可能性があると聞いていて。
実際、海水浴場から一本道の先の真正面にガソリンスタンドがあるんですけど、そこで津波や流れた建物などはぶつかりました。
そこでガレキがスタンドに留まり、追い打ちをかけるように次の津波が来て、波の方向が変わったと聞きます。それで、私たちの事業所がある新町2丁目のほうに波が分かれたわけですよね。
それもあってか、私たちがいた事業所の建物は津波で持っていかれてまったく何もないのかなと思うんです。ちょっと波からそれたところは家が残ってたりするんですけど。
どういう風に避難するかは、検討してましたが、津波の通り道になるであろう荒浜小学校への避難は、あの当時まだ検討段階でした。津波から逃れるために具体的にどこに避難するかまでは最終決定に至っていませんでした。

避難行動の中で

最初の避難場所までの移動は徒歩ですか?

徒歩と、車も平行して。

避難行動中の動きはどうでしたか?

工房の近くにコミュニティセンターがあったんです。その後ろに公園がありました。
公園のような広いところ、何もないところに行ったほうが安全じゃないかっていう情報も、移動避難する中、聞こえてきました。
公園に避難している方もいました。あの位の揺れだったら、建物がなくて倒れるものが何もないところの方が、安全な気がしますよね。
あの時もし、地震の発生が工房からの帰宅時間だったら、利用者さんの自己判断で公園を選ぶ危険性がありました。
個々の判断にゆだねたら、もしこっちおいでって言われたら、付いていくこともあったのではと、今考えると怖いですね。

避難時の利用者さんは何名でしたか?

当日、利用者さんは7人いました。一緒に避難したのは6人。1人は、レクリエーションで早く終わったこともあって、地震発生前に先に帰っていました。私たちは工房にいた利用者さんと一緒に避難しました。

そのあと、津波は何分くらいで来ましたか?

私たちはその後、荒浜小学校ではなく内陸の小学校に逃げたので、津波自体は見ていません。

その内陸の小学校へ逃げるという判断も、ここもまずいんじゃないかってことからですか?

そうですね。ラジオから聞いた津波の高さの情報が、あの時、時間と共に変わっていったので。
荒浜小学校に行って混乱していたのもあって。車で敷地内に入れなかったこともあり、また、小学校の周辺も渋滞していました。そういうこともあり、一旦、小学校の近くのコンビニに避難したんです。
交通量の多い県道も近くにあり、渋滞していたし、その人たちが避難する場所となれば荒浜小学校しかないと思いました。そういう流動性のある県道を走るドライバーの人達も校舎入りきれるのかなって、心配になり、一旦私たちは近くのコンビニに待機しました。
コンビニ前は県道で、目の前で渋滞も見てますし。避難場所の再検討を始めたんです。
その時に、ラジオの情報が変わって、「10メートルの津波が来る」と。10メートルだと、3,4階しか、安全な場所って確保できないですよね。なので、このままここにいるのは危険だなと判断しました。
荒浜から4キロ先に七郷小学校があるんです。そこが、数年前、工事をしていたのを思い出しました。耐震工事をしてたということで。そうしたことも含めて安全を考えて、避難先を七郷小学校に変えました。

七郷小学校で避難生活の開始

七郷小学校にはどのくらい滞在しましたか?

 地震発生日から利用者さんと10日間いましたね。

居場所は確保できたのですか?

 校舎内の部屋には入ることができました。偶然にも荒浜近辺の人たちが入っている部屋だったんです。部屋に入り、ひとまず居る場所を決めて座ったら、隣に荒浜の人たちがいました。

利用者さんの避難場所での様子は?

 不安はあったかと思いますが、一見落ち着いていましたね。理由を聞きましたら、工房で防災訓練をしてたこともありますし、かつ私が防災の勉強ずっとしていたことも利用者さん知っていて、それが少しでも安心感につながったようです。

防災に対する意識

 勉強の1つとして災害ボランティアコーディネーターの講習を受けていました。災害が発生した時に避難所で、ボランティアを受け入れるコーディネーター。コーディネーターは、災害に関しての知識や起こりうるニーズ・避難所運営を知っていないと難しい。受け入れ窓口や避難所等の運営方法とかをロールプレイングして学びました。
 例えば、資機材など何もない状況から、被災した家屋や在る物で救助や活動に必要なものを使って、どういう風にこの状況を打開していくか、いかに運営していくか等、学びます。もともと、防災に関して興味があって、数年いろいろ勉強してました。
 その学びを震災前から利用者さんに常々伝えていました。そういう蓄積もあり利用者さん自身も、今野が勉強してるから大丈夫だっていう安心があったと思います。
 だから、あの時も「今野さん次はなにすればいい?」とよく聞かれました。
 本当に勉強していてよかったと実感しています。勉強し備えていた防災用品や家具の固定を徹底していたので、物も一切倒れなかったし、怪我する人もいなかったです。
 あの時、誰か一人でも怪我をしていたら、救護する時間で避難が遅れ、津波にのまれていたと思います。また、無事だった人は先に避難させたりすると、何班かに分かれますよね。今回誰一人怪我をすることなく避難できた初動も良かったと思います。備えや学びが生かされた面がありました。

その勉強を始めたきっかけは?

 何年も前からずっと宮城県沖地震が起きるというのは周知のことで、もともと、個人的に防災に対する興味があって勉強していました。私たちの仕事は、利用者さんを守らなきゃいけないですし、いつの間にか防災に対する備えを重ねていったんです。

避難所生活中の出来事

避難所の10日間の様子は?困ったことはありましたか?

 うーん。全部が困ったことでしたね。利用者さん・職員に必要な情報が、受けることも、発信することもできなかったことが困りました。誰とも連絡が取れない孤立状態になっていました。
 私たちスタッフは、利用者さんを守る為に色んな情報が必要ですよね。家に安全に帰すためにも。バスが動いてるのかとか。周囲の状況などの情報。あと薬の確保のための情報。そういった情報を得られないと現場で確実な対策が立てられない難しさがありました。
 あとは、避難所内でパーソナルスペースが確保できなかったのは利用者さんにとっては大変だったと感じています。

ずっと、一般の方々と一緒の部屋にいたのですか?トラブルなどは?

 はい。一般の方と同じ部屋で10日間過ごしました。特別な配慮というのは、なかったです。周囲とのトラブルはありませんでした。

それは、地域の人たちのご理解が得られていたから?

 そうですね。仲良くさせて頂いていた元町内会長さんがちょうど同じ部屋にいて、おかげで面識のない町内の方とも仲良くさせて頂きました。私たちも積極的に部屋の方にお話していったので、お互いを知ることが出来、トラブルもなくお互いに支えあうことができました。

避難所運営側との関係性はどうでしたか?

 避難所では学校の先生たちが主に動いていました。私たちは積極的にコミュニケーションを図り、先生方に福祉事業所の職員であること、現状などを話していました。

運営側からの配慮はなにかありましたか?

 特にありませんでした。しかし災害時誰もが混乱している状況で、支えてもらうっていう考え方のみでいると、たぶん、上手くいかないんだと思います。災害時は支えてもらう人はみんな避難している全員同じだと思うので。
 自分で避難所運営に入っていって、一緒にやるっていうスタンスでないとたぶん避難所で過ごす上で上手くいかないんじゃないかな。
 なので、私たちは、七郷小学校に避難した後、すぐに職員室の方にいって、今どうゆう状況か?何か情報は?など情報共有をして自分たちができること、運営のほうに自然と関わっていきました。

周囲の方々と利用者さんの関わり方

避難所生活で、良かった点、助かった点はありましたか?

 利用者さんがとっても立派でした。どうしても、一般の方の感覚だと、障害者は弱い立場だっていう風に平時から思ってる節が残念ながらあるかと思います。
 ご本人さんたちも、病気があって生きづらさもあることから、ちょっとこう、身を引いてしまうところがあるんですけど。
 あの時は、たぶん誰もが自分も何かやらなきゃいけないなっていう状況を感じていたと思います。
荒浜に「潮音荘」という老人ホームがあり、そこの入居者さんも避難されていて、工房の利用者さんは、その方たちの2階に昇る避難介助もして下さいました。
 守られると人って弱くなっちゃうことってあると思います。動ける人は動く。避難所では高齢者が多かったので、利用者さんは歩くのが大変な高齢者のために校舎4階まで食事を運んだり、お掃除をしたりしていました。
 あと、グランドで自主的に皆さん火起こしをしていました。赤ちゃんのミルクの為にお湯を沸かすなど。そういった薪割りや火起こしに利用者さんは一緒に行きました。本当に工房の利用者さんはとても立派でした。
 私たちもだけど、気持ちが落ち込んだ時など、ネガティブな考えに行きがちだと思います。
 災害時のような状況では自分自身動くことにより少しでも何かこう一歩変わっていくことを感じたほうがいいと思うんです。
 日中、避難所に残ってる人って、高齢者が多いんです。若い世代は避難所から朝、仕事に行っていました。
 そうすると、避難所では残った高齢者が日中手持ち無沙汰になっていることがあって、その中で私たちみたいな福祉事業所だと、利用者さんも若い人もいっぱいいますよね。力仕事だけではなく、若い人がやれる役割・仕事って色々あるんですよ。
 例えば、おじいちゃんたちは携帯電話、普段そんなに使わない。でもこういう災害時だと連絡を取るために使わざるを得なくなります。携帯電話の扱いが苦手な高齢者に、利用者さんは使い方を教えるなど、自分の出来得ることをしてくれました。
 普段なら何ていう事ないかもしれないけど、災害時家族の安否確認や連絡を取るためには、こういったサポートは助かります。
 「どうやるんだべ」「うちの娘っこの連絡先どこに入ってんだ」って質問があったり。携帯の電話帳の開き方を教えたり。電話かかってきてもどこを押せば良いか分かんない。そこを身近にいる私たちが一緒に教えました。ほんとに年配の方には助かったみたいです。
 こういう何気ない生活のことは、一般のボランティアや運営で精一杯の学校の先生方にはできないことだと思います。やっぱり身近に毎日同じ部屋で、生活しているからこそお手伝いできることですね。

避難所からの解散

ご家族等と連絡がついた方から解散していったのですか?

 そうですね。迎えに来ていただいたり、工房としても車で送りました。

10日後にはみんな居なくなったと

 日に日に避難所にいる利用者さんが少なくなりました。最後は一人残りました。様々な事情で、お一人で頑張って地域で生活している方でした。アパートは半壊、病気や障害のこともありますし、帰れる状況・サポート体制を整えてから避難所を出るという流れを考えました。
 避難所生活での10日間の間に、本人が安心して帰れる準備を利用者さんと一緒にしていきました。完璧ではなかったですが、状況が整ったのが発災から10日後。
 懸念としてその後、家に戻ってから程度自分の力で生活していかなかきゃなりません。スタッフも他の利用者さんもいるのでその方のサポートだけする訳にはいかない状況でした。
 利用者さんが自宅に戻ってある程度生活が成り立つように、避難所から利用者さんと一緒に出かけて、かかりつけの病院の先生に繋げたら、アパートでひとまず暮らせるように自宅の片付けもしました。
 銀行の通帳やカードも家の中でどこにあるかわからないということで一緒に銀行に再発行したり、お金の心配がないように様々な手続きをし、少しでも安心して生活できるように整えました。
 もちろん避難所を出た後も工房としてサポートは続けるし、まずは自分の力で暮らしてみよう提案し、本人の同意を得て、避難所での生活は解散という形になりました。

解散したときの利用者さん達の様子や施設に対しての思いは?

 避難所を解散する時点で、利用者さんは荒浜の工房が流された事実を知っているのは一人だけでした。なぜなら発災時からすぐ避難して避難所にいた為、知る由もなかったから。また、発災当日、工房に来ていなかった利用者さんも同様です。
 避難所での10日の間に最後に残った利用者さんと荒浜に入って、工房が全て流されているのを確認しました。なので、その利用者さんと私達スタッフしか知らなかったんです。
 それ以外の利用者さんはきっとラジオの状況しか聞いていないので、工房がなくなったことを描写的に感じるってことは多分できなかったと思います。避難所にいた利用者さんはまず家に帰れる、家族が生きてたというのに安心感をもって帰られたのだと思います。

工房再建へ向けて

3月30日に、来ることができる利用者さん・スタッフで1回集まり、工房の現状報告をしました。その時期にはもう皆さん新聞などで荒浜の情報を知っていました。
荒浜の状況をある程度把握していたこともあってか、「工房はもう基礎しかなく全て流れた」ということを伝えると、「あ、そっか」って、それ以上の多くの言葉はありませんでした。
あとは利用者さん報告として、畑もやってたので農地も浸かり使えないこと、近所の方々も亡くなったこと、手芸の製品や材料等も全て失ったことを伝えました。
まず現状を報告することがスタートと考えました。事業所は利用者さんが主体となる場所なので、運営する事業所だけの意向ではなく一方的に再建をするっていう考え方はなかったです。
だからこそ、「なんの後ろ盾もないこと、スタッフも2人なること、今再建する資金もないこと」をお話した上で「どこに作るかも何も決まってないけど、工房を再建しますか?」と利用者さんにお聞きしました。
すると、皆さん「工房作ろう」「工房は必要だ」と言ってくれました。
その気持ちを受けて、「工房を再建する」と、行政と法人に報告し、動き始めました。
利用者さんと一緒に歩んでいくことが大切と思っていましたから。

新しい工房の場所探しへ

みなさん再建に進もうということで動き出して、次の流れというのは?

 すぐには工房を作れないのでひとまず集まれる場所をつくらないといけないなと思いました。
 工房がもうないので4月初めは利用者さんの活動を休止せざるを得ませんでした。
 利用者さんのお家を訪問したり、居場所がないので、みんなで公園に集まったりしました。私達スタッフはスーパーにある外のベンチで打ち合わせをしたりしていました。
 どこか一時的にでも集れる場所を作らないといけないと色々探し始めましたが借りるにしても資金がないので困りました。
 行政に懇願して4月17日頃から、5月末までの短期間でしたが、障害者福祉センターの1室を間借りさせていただきました。午前中はみんなと集まる時間・作業にして午後は物件探しや挨拶回りなど色々準備していました。
 4月の時点で、荒浜の時からの取引先がもう動いていました。その企業さんも津波の被害が甚大でした。その状況でも工房に声をかけて下さり、利用者さんとボランティア活動をしました。津波で流されて泥だらけになったその企業さんの資材を拾い集めて、高圧洗浄機で洗うというお仕事でした。
 工房もその後作業準備をし、何か手芸品を作れないか、他になにかできることがないか考えて動いていました。工房が流されたのにすぐに取引先と引き続き関係性が持てるのはありがたかったです。

利用者さんと共に物件探しと偏見の壁

障害者福祉センターを借りられる期限は5月末だったので、活動と並行して物件探しもしていました。利用者さんは再建に向けてのスタッフの苦労も見えていたようで、利用者さん自ら「何か自分達にできることはないですか?」って申し出て下さいました。そこで、利用者さんに負担が少なくできることを考え、物件探しをお願いしました。
しかし、物件探しでは障害者に対する偏見の言葉を幾度も受けました。
業者としては福祉施設だと何かトラブルが起きるのでは?とも想像していたのかなと残念ながら思います。私たちは虐げられるような、恥じるようなことは一切していないのですが、悲しかったです。福祉施設への理解をもっと持っていてくれればと感じました。
利用者さんと一緒に不動産屋に行くと「障害者の施設には貸さない」と言われました。利用者さんの前で「障害者なんかに」って。あんな悲しい思いはもうしたくないです。
今の物件が決まるまでも大変でしたが、利用者さんと一緒に動いたことはとっても良いことだったと思います。
何とか現在いる若林のビルを見つけて、6月7日に開設しました。でも障害者福祉センターとの契約が5月末までだったので、開設までの6日間は利用者さんに申し訳ないけど活動は休止と伝えました。利用者さんもこの件を理解してくれました。その間も電話相談などは受けていました。
でもやっぱり再開まで利用者さんも一緒に動いたからこそ、工房が出来たことのありがたみや応援して下さった皆さんのありがたみもわかりました。そして、その過程の中で一緒に物件を探したりすることにより「自分たちの工房なんだ」っていうのも実感できていますね。

震災前後の仕事の変化

再開前後の仕事の変化については?

作業の変化は大幅にありました。荒浜の時は農作業がメインでした。900坪の畑で農作業をやっていましたが、津波で畑もなくなったので、手芸をメインにすることになりました。
利用者さん達もやるしかないと、すんなり受け入れてくれました。やることがあるだけで嬉しい、仕事どうこうじゃなくて、みんなで一緒に過ごせる場所でなにか一緒にやれるっていうことがまず嬉しかったんだなぁと思います。もともとみんな仲が良かったですしね。

震災前後の利用者さんの変化

利用者さんたちも仕事のありがたみをより強く感じていたということでしょうか?

 そうですね、仕事というか、生きること自体の考え方が変わったと思います。その変化は、彼らにとってすごく強みっていうか、生きていく上でなにか変わったことなんじゃないかなって思います。それは、本人達も言ってました。
 発症によりご自身と社会との関係が変わることがあります。精神疾患は特に社会の理解も低いこともありますし、病状がしんどくて会社も辞めざるを得なくなったり、友達との関係も疎遠になったり。家族とうまく関係性が作れなくなったり、多くの当事者はとてもつらい経験をされています。
 自分への疎外感とか、病気になったから自分はもうダメなんだっていうような否定的な考えになってしまうことがあります。
 だけど、これまで自分を否定的に捉えがちだったけども、この震災を通して自分が今出来る役割を見出し、自己肯定感が広がったんです。生きていること自体がすでに一歩進んでいる・ありがたいと思うようになりました。
 生きていることが0じゃなくて1からスタートになってるという捉え方ですよね。その捉え方って大きく違いますよね、今までと。前向きにというか、自分をもっと大切にできるようになりますよね。そういう自身への捉え方・気づきの変化は、私達の支援ではなかなか超えられない壁です。
 自分で気づいた存在感っていうのは、自分のものですよね。それを震災は気づかせてくれました。
 つらい体験の中で見出したそういう変化は、今後の利用者さんの人生にとって代えがたい大きな力になっていますね。

偏見と理解ある協力

今活動している中、思うことは?

まだまだこれからです。作業も含めようやく運営の基盤が整ってきたところです。
選択肢もないまま今の物件に至ったので、次の本拠点も探したいところですが、なかなか難しく、課題もあります。現工房を探す時も障害者施設への偏見もありましたし。
現入居しているビルは施設への理解があった不動産屋さんでしたので、ありがたかったです。今のいる地区の核になっている方に相談して紹介いただきました。
今振り返ると、前の工房があった荒浜の人達はすぐ受け入れてくれましたし、すごい優しいなぁ、ありがたかったなと思っています。
だからこそ今回なおさら、世間の目の厳しさを実感させられて。利用者さんがこういう想いを日々していると考えると悲しいです。

経験を伝えるということ

今伝えたいことや思いはありますか?

 あの震災以降、震災経験やどんな備えをしていたか等、お話する機会があります。
 やっぱり、全国の海岸沿いにある福祉施設とか、同じように災害・津波が起きたらと不安を抱えているんです。
 この数年各地でお招きいただきお話しているのですが、果たしてそれが皆さんの防災に対する意識に届き、活かしてもらえているかなと不安に思うことがあります。
 熊本の地震が起きた時も私すごくショックで、私たちと同じようにつらい想いをしないように、私たちの震災の経験や想定して備えてきたことなどを活かしてもらえたらと伝えてきましたが、熊本やいろんな所で起きた人たちが同じ体験をしてしまい、お役に立てなかったのではと、つい思ってしまいます。
 災害発生を知るたびに、すごい悔しい想いをして、私みたいな者が伝えてどうにかなる問題ではないのは分かっているのですが、そう思ってしまいます。
 風化もありますし、その各地の人達の意識的な問題のところにどういうふうに訴えかければ、今後の災害時に彼らの生活を少しでも守れたり、災害時の福祉の課題とかをより理解してもらえるのかなというのは日々思っています。
 結局、私にできることはこうして話すことしかできないんです。
 まずは、私たちが経験した災害時の現状を知ってもらうことが、それぞれの考え方の何かの気づき・一歩になってもらえればと思っています。
 やっぱり福祉施設は災害時には、一般の方とはまた違う問題も発生しますし、だからこそこういう関わっている方には特に知ってもらいたいです。なぜなら、利用者さん・スタッフ含めて本当に震災で大変な思いをしたので、全国の仲間たちに、今後災害が起きた時に同じような思いをして欲しくないからです。
 震災後、県外海沿いにある福祉施設が法人全員で工房のお話を聞きたいと来られたところもあります。その後、私たちの経験談を踏まえて、防災対策に動いたことを聞きました。
 いろいろお話させて頂いたことが、今備えとしてその福祉施設に実際に役立ててもらえていることを聞くと、何か、ほっとします。そして、利用者さんを守るために行った私たちの備えや対応をそのまま生かすのではなく、その法人さんの中で協議してアレンジしていることもとっても良いです。どういうことが起きうるか知らないということは怖いことです。

自分たちの役割とは

不動産屋には偏見を受けましたが、でも世の中の人って本当はとっても優しいのも一方で感じています。それは避難所にいて感じました。
皆さん、「障害とは?」って知らないだけで、例えば施設のスタッフが間に入って説明すると皆さんに普通に、「そうなんだー」と自然に受け止めてくれます。私たちは障害や病気のことを知識としてまだ知らない人に、つなぐコーディネーター的な役割もあるかと思います。
避難所生活でそれを体感しました。万が一の時にサポートを受けるためにも、利用者さんに障害があることを部屋の人に伝えてよいかをお聞きし、同意を得た上でお伝えしました。
薬を飲んでいるとき「あのお兄ちゃんどこが悪いの?」って聞かれたことがあります。気になっていたようです。「精神科にかかってて薬飲んでるんだよ」って答えると「そうは見えないね、わかんないね」って。
そういう風にうまく間に入ってお話すれば、安心感を持ってお互い、相手も知ろうとしてくれるんですよね。そして見守りまでして下さいました。それっていいですよね。相互理解ですね。知ることは大切。

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