かなん

お話:社会福祉法人 石巻祥心会 就労継続支援B型事業所 かなん
利用者 今野さん(男性/当時37歳・知的障害)
施設長 柳橋さん

一般就労先で

当時はどこにいましたか?

今野さん:地震の時は一般就労していたケーキ屋の工場にいました。すごい揺れたので、外の駐車場に避難したんですよね。その時、雪も降ってきました。
社長とか他の職員とそこにいました。
 工場の中はかなり揺れたせいで物が落ちていました。重かったオーブンも1センチずれたし、卵割るときのボールとか、色んな材料が落ちて全部だめになっちゃったんです。
 揺れがおさまったあとに、家族が心配になったから電話してみたけど、連絡が取れなかった。

上品(じょうぼん)の郷へ

駐車場に避難したあとの行動は?

今野さん:揺れが収まった後、すぐ家には向かわないで、働いている人達と一緒にいました。でも、心配だから夜になって家のほうに行こうとしたけど、途中の道には船はひっくりかえっていて油が流れてて行くに行けなかった。一旦、上品の郷(近くの道の駅)まで歩いて行ったのですが。

そして、上品の郷から自宅を目指してまた歩いたということですね

今野さん:すぐ自宅に行かなかったのは、行ける状態かなぁって、一応様子を見ていたんです。とりあえず上品の郷に行ったけど車がいっぱいで。寝泊りする人がすでにいたんで、そこには居れない状態だった。電気は止まって真っ暗な状態だったし、自分も食料もない状態で。
 それで、夜になって暗くて結局家に帰るのは無理だったから、(職場の)工場にまた戻って寝泊りしたんです。朝になってから家に帰った方がいいのかなって思って。

ご家族について

ご家族の安否は?

今野さん:(※家族構成は、お父さん・お母さん・お兄さん・お姉さん・今野さん)
津波で家もなくなって、父と母は行方不明だったんですね。兄は偶然、人に助けられて無事。姉も、地震の時は働いていたけど無事で。
兄は、橋浦小学校にいて、姉は北上中学校に避難していたんですね。姉が言うには、(避難当時)軽トラックの人に乗せてもらって助かったって聞いてます。(その後、二人と)合流した。

福祉避難所へ

今野さんは以前から就労移行支援で相談にのって貰っていたということですが、そういう支援者や保健師さんとお話して避難所に来たんですね

今野さん:はい。(現在、今野さんがいる施設と同じ法人の)「ひたかみ園」に。

柳橋さん:(震災後)今野さんは一般の避難所に身を寄せていましたが、すぐに兄弟で親戚の家にお世話になったそうです。けれど、(震災で)両親が亡くなられたので今後の事を考える必要があって、兄弟三人や親戚の人だったり、周りの支援者等で話し合いを行ったそうです。結果、うちの同じ法人内にある「ひたかみ園」という入所施設がちょうど避難所になったので、そこに入る事になりました。それから兄弟3人で、避難所での生活になったんだよね

今野さん:はい。「ひたかみ園」には兄と姉と3人で居たので、そこでお昼食べたりとかお風呂入ったりとか。

柳橋さん:そこから仮設に移って、今は3人で公営住宅に入ってるんだよね。

「かなん」へ

今野さん:(震災後)一般就労していたケーキ屋で、地震で落ちたものとかを片付けたりしながらまた働いてました。その頃はもう仮設で暮らしてました。
でも、大雨が降った時に、車にぶつかる事故にあって足を痛めて…。
(その頃心身が不安定だったりして)仮設に入った時にはもう仕事は行ける状態じゃなかったんですよね…。ずっと休んで、ケーキ屋も辞めることになって。
そのとき、ここで働いてみたらって紹介されたので、「かなん」で働くことになったんですね。

柳橋さん:うちの法人の就労関係者が今野さんの相談を受ける中で、事業所さんと関わりを持てるようになりました。今野さんは災害に遭って、家庭環境が変わったことや事故に遭ったことだったり、特にご両親の事があって、仕事を休みがちなってしまいました。お仕事を続けていくのが出来なくなってしまったんです。それで以前から、就労移行(就労移行支援)で今野さんと繋がっていた職員とで相談し、しばらく落ち着くまで行ってみてはと、「かなん」を紹介したんですね。

好きな仕事

「かなん」で働くようになってどうですか?

今野さん:しいたけ栽培の仕事はおもしろいです。今は10人くらいで栽培の担当をやっています。(しいたけの菌床を岩手より仕入れ、それを1週間ほどかけて栽培し、パック詰めをして販売する)
自分は水やりと、売り物にするためのパック詰めをします。シール貼りだとか、いろんな作業をしていますね。大きくなったものをハサミで切り取ります。毎日やることがあります。

今野さんの作業についてはどうですか?

今野さん:だいぶ慣れて、出来るお仕事が増えてきました。新しく入所して来た人達にも教えたりします。

避難所になった「ひたかみ園」

避難所だったという「ひたかみ園」の様子についてですが

柳橋さん:うちの「ひたかみ園」という入所施設がある場所は、近くに川と繋がっている大きな堀があります。その堀より土手を越えて水(遡上してきた津波)が溢れたんですが、奇跡的に施設周辺だけ津波の被害が無かったのです。
 それで、海側の津波の被害がひどかった所から、自衛隊のヘリコプターが吊り上げて救助された方々がいました。その方々を無事な大きい建物があるということで、「ひたかみ園」に集めたんですね。入所施設なので、避難所を運営するつもりはなかったんですが。
 「ひたかみ園」の職員や利用者はすでに内陸に逃げていたので、その時は施設に誰も居なかったんです。それで波が引いて戻ってみたら、「誰か住んでる!?」という状態だったんです。それが避難所の始まりです。
 ただ、その中で一般の被災者と、障害を抱えた被災者とでは求める支援の内容も違うし、一緒にいる事に互いがしんどさを感じてしまう事から、別々の避難所生活を送ってもらう事にしました。一般の方には申し訳なかったんですが、入所施設内の違う建物の方に移っていただきました。一般の方の滞在期間は1ヶ月2ヶ月くらいかな。違う地域の避難所に移るまでは、ここでどうぞという形で。(避難所になってから)4日目、5日目くらいにはそういう分け方をしていたと思います。

障害者が集まった経緯

「ひたかみ園」が避難所だった当時は、一般の方も含めて何人くらい居たんですか?

柳橋さん:地域の方々は、最初は2,30人くらいだったと思います。小さい子なんかも含めると。
障害を持つ方は最初は少しだけでした。ですがやはり、(一般の方もいる、学校などの)各避難所でも色々な問題が起きてきていたという話がありました。
 それでうちの法人が、バスで(地域の)一般の避難所をそれぞれ回って、うちでこういう避難所をやっているので、「よかったら移動しませんか?」っていう声がけをさせていただいたんです。それから、「ひたかみ園」の避難所にじわじわと集まってもらったという感じですね。
 最初の1週間くらいには、近くの大きな病院さんも、もういっぱいの状態で。身元がわからないとか、うまくお話が出来ない人とか、怪我をしたけど治療が終わっていても帰る事が出来ない方々は、結局看護師さんが見れないので、私達の避難所の方に移送されては来ていましたね。
 避難所を開始してからの数日は、お名前が分からないんだけども、「一般の方ではないようなので」という理由だったり、痴呆を抱えた方々とか。意思疎通の出来ない、でも、「医療行為はあまり必要ないよ」という方々が集まってきて、ただ夢中で皆さんのお世話をさせて頂きました。

「ひたかみ園」に避難した人

(学校などの)一般の避難所から移ってきた方はどのくらいいたんですか?

柳橋さん:その数を今は把握していませんが、ご本人だけ、というのは少なかったと思います(ご家族で移動された方が多かった)。多分数名はいたんですが、結局、お家も家族も被災されているので、さみしい思いをされている方も多かったように思います。
 入所施設なので、お部屋は6畳でした。通常、入所の時は2人1部屋で利用者さんが使っていたんですが、そこを各家庭に、一世帯ずつに分けて入っていただきました。
 3月11日に地震があってから、避難所で共に過ごす中で、被災された皆さんの新しい今後の問題が出てきました。ほとんどの皆さんは、お家もない状態でした。そこで、日本財団さんや各関係各所にご協力いただいて、小国(石巻市内の地名)のところに仮設住宅(福祉仮設)を建てて、被災した方々が次の事を考える場所を法人として提供させて頂きました。 
 これらの事を、法人内のスタッフだけで支援をさせて頂くのは難しく、避難所には多くのボランティアの方々が関わってくださいました。その方々の長い支えもあって、避難所を続ける事ができました。 1ヶ月2ヶ月経ってくると、ラーメン屋さんだったり、ケーキを持ってきてくれるなどの支援をしてくれるボランティアの方々がありました。なかでも、(福祉)施設でケーキを作っているという事業所が、わざわざ愛知・新潟・からケーキを持って来てくれたことがありました。本当に遠くから色んな方々にお世話になりました。

避難所での困難

避難所での困ったことや印象に残っていることはありますか?

柳橋さん:個人的には、私はこれまで認知症のひどい高齢者の方にお会いしたことがなかったんです。
 お年寄りの利用者さんで、暴言を吐かれるなどの話を実際に聞いてはいましたが、体感したことがなかったので(目の当たりにして)びっくりしました。
 けれど(避難所に来た)ボランティアの中には、そういう介護が上手な方がいらっしゃったんです。色々お手伝いして頂いたり、教えて頂きました。私には、とても勉強になる事ばかりでした。
 最終的に、身寄りのないお年寄りの方達も何人かは家族が見つかったんですけど。結局、現状では面倒をみる事が難しいという理由から、県外の老人ホームにご家族と移られた方々がいらっしゃいました。中でも、「誰も居なくて…」って言って、スタッフをずっと頼ってくれたおばあちゃんと別れるときはちょっと辛かったですけどね。
 その他、被災された方々が他の避難所と様子を比べられるというか、「なんであっちにはちゃんとご飯出てるのにここは来ない」のとかを言われることがあって。
 確かに、正式に元々避難所指定を受けたところではないので、認知されて自衛隊が確実に、定期的に支援に来るまでには時間がかかったんですね。
 避難所になった「ひたかみ園」にあった材料とか、法人内の物をそこに運んで食べていただいてたのですが、一般の方が時々違う避難所に行って色んな情報を聞くと「なんでここの避難所は○○なの?」等の意見を聞くと、悲しい気持ちになった事を覚えています。
 その時にできる最前の事はさせて頂いていたという気持ちがあっただけに、互いの気持ちが理解しあえない、今の環境が震災の被害という事がこんな所にも表れてくるのだと
自分の気持ちも踏まえ、災害の辛さを感じました。
 一般の方々はそのような中でしたが、利用者さん方はご家族と一緒だったのであまり不安になることもなく過ごしていたように思います。

公営住宅へ

公営住宅に入ったのはいつからですか?

今野さん:引っ越したのは平成28年の初めかな…1年経ったかな?おじさんとおばさんに引越しの手伝いをしてもらって。

柳橋さん:一軒家なんです。障害のある方とか足腰が弱い高齢の方々のために作られた大きい一軒家の平屋。早くそういう公営住宅に入ったほうがいいねと思っていたところなので、うれしかったです。

今はそちらから送迎バスで来られるんですね。お仕事は何時から始まるんですか?

今野さん:いつもは…朝は6時頃に起きてご飯食べて、9時頃に家を出るんですね。(作業は9時30分から開始)
 あと、新しい家で暮らすようになって、お隣さんも友達になって。優しい老夫婦。

柳橋さん:隣のお家の組み合わせなんかも配慮があったと、引っ越しを手伝ってくれた親戚の方が話していました。

今野さんのコレカラ

今後、やってみたい仕事はありますか?

柳橋さん:もう一回、外に働きに出てみようかって話をしているんだよね。

今野さん:今後やってみたいとかはまだないんですけど…あと外に出るのは今はまだわからない。でも、ここの仕事は楽しくやりがいを持ってやってます。

震災を経験して思うことはありますか?

今野さん:やはりもう、地震はこれ以上来ないでほしいなと思います。これ以上、家族を失ったら、どうやって生きていられるのかよくわからなくて。兄弟が大好きなので、これからも仲良くやっていきたいです。(今野さんは、震災でお父さんとお母さんを亡くされた)

柳橋さんの思い

震災の経験を通して、今思うことやこれからに向けての思いはありますか?

柳橋さん:震災を経験しては、ここは内陸ですが安心してはいけないと思っています。何かあったらどこにどう逃げようという想定の元、送迎にしても活動中にしても対応できるようにしたいと考えています。実際に、避難マップや災害対応マニュアルというものに力を入れています。利用者さんを守れる方法ってなんだろうと考えながら、そういう所に力を入れている状態ですね。
(津波の遡上で)氾濫しても1メートルも水は来ないだろうとは言われているんです。でも1メートル未満の水の中でも、利用者さんが立ってられるかというと、そうは言い切れないない所もあるので。そういう時にどうやって守っていくかというために、職員も含めての避難訓練には力を入れて行きたいと思いますね。
利用者さんの中には避難訓練する度に、未だに吐き気を催したり、パニックになったりする方はいらっしゃるんです。命があっても家族がなんともなくても、被災の状況をどこかの時点で見て、「地震だよ、火事だよ」と言われただけでビクッ!ってなってしまい、体が硬くなってしまう。当時のことを思い出しちゃう。あの時、親御さん達と離れて何日か嫌な思いをした事が思いだされるのだと思います。そういう所を少しずつ克服というか、私たちも一緒に見つめ合いながら強くなっていけるようになれたらいいなと思いますね。

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