その時点ではもう息子さんにメールをしていたんですか?
ええ、もうメールしていましたね。息子は二人いるんですね、千葉と、イギリスと。両方にメールしました。その後、津波と火が落ち着いてきたところで、再び建物内に降りることにしました。外は寒くて凍死してしまいそうだったので。まずは子ども達を男の人がおんぶしてくれて、調理室に移動させてもらいました。私達職員は保育所の子ども達の様子を見ながら最後に移動しました。どこかのご老人が持ってきたラジオに耳を傾けながら、情報を取っているって感じでしたね。そんな感じで一晩明けて。その間もかなり揺れるし、怖かったですね。
翌日(12日)、何時頃かわからないけどヘリコプターの音がしてきて。「何だろう?」と思っていたら、「マザーズホームの園長先生いますか。息子さんからの要請で助けに来ました」って、東京消防庁の方が。最初は何のことだかわかんなかったです。「千葉の息子が要請してくれたのかな」とチラッと思ったんですけど、とにかく助けに来てもらったからいいや、と思って。救助は、一人ずつ吊り上げるようにして進んでいきました。医療が必要な人や妊婦さんや、優先順位の高い人から。そして夕方になって「今日はこれでおしまい」って言われて。人はいっぱいいましたからね。私はそうでもなかったけど、ある職員は本当にショックを受けてましたね。「ようやく助かった。今日中に家に帰れるかな」と思っていたのに、「明日」って言われたもんだからね。「でも明日は必ず助けますから」って言われたのがすごく嬉しかったって言ってました。そこでもう一晩過ごすことになりました。
では子ども達全員が一日目で救助されてはいなかったんですね?
全員が救助されたのは…二晩泊まってから、13日の朝ですね。公民館のグラウンドがあったんですけど、そこを整備してヘリコプターが離着陸できるスペースを確保して、東京消防庁と自衛隊が交互に来てくれて。14,5人くらいずつピストン輸送していただいて、それで助かりました。
素朴な疑問なんですけど、息子さんがツイートしたんですよね?それをたまたま見た方が信じて、それを猪瀬さんに言ったんですか?
そうなんです。息子のツイートを見た鈴木さんという方が「大変だ」とすぐ信じてくれて、この情報を誰に渡そうかって思った時に、東京都副知事の猪瀬さんがツイッターをやっていることを知っていたので情報を流したそうです。副知事だから何とかしてくれるんじゃないかと思ってとのことでした。で、猪瀬さんが東京消防庁の職員と話して「これはウソの情報じゃない。場所やいろんな状況がきちんと載っていて、救助手段まで書いてある」とすごく評価してくださって。「今は火が治まってるみたいだから、明るくなった翌朝一番で助けよう」ということになったらしいんです。
初めてヘリコプターに乗ったんですけど、公民館が足下に見えた時は「わー、助かった」と本当に思いましたね。それはすごく嬉しかったですね。そして小学校の校庭に着いて、お水をもらって、後から来る職員をずっと待った後、みんなと合流して、無事を喜んでから帰りました。私の場合は事前に情報が入っていた主人が迎えに来てくれました。それで自宅に帰って朝ごはんを食べて。うちは井戸があったので、緊急時は煮沸して水を使っていたみたいですけど。
ということは、内海さんのご自宅は高台にあるんですか?
高台でもないんですよ。国道45号線の近く。田んぼを埋め立てて作った45号線のバイパスが結構高いから、堤防みたいになって水が来なかったんです。電気も早めに復旧しました。私は家に帰った後、食事してから主人に支援学校に連れて行ってもらって、子ども達の様子を聞きました。たまたま支援学校に子どもを迎えに行った職員と車は、学校にいたので助かったんです。その職員はその車で自宅待機していたので、そこまで行って他の職員の無事を伝えることができました。
17日からマザーズホームの再開に向けて動きました。市役所に行って状況を話した後、福寿荘という老人福祉センターがある社会福祉協議会の事務所に行きました。二階に一部屋空きがあるとのことだったので、館長さんにお願いして八畳の部屋をお借りすることができました。そこをマザーズホームの仮の施設としてスタートしました。
仮の施設はどれくらいの期間続けたんでしょうかね?
新しいマザーズホームができるまでですね。一年半くらいでしょうか。
福寿荘に来ていた子供達が精神的に不安定になったようなことはありましたか?
特にこの子が大変みたいなのは…。アスペルガー的な人はそれはそれで大変なんですね。で、そうでないタイプの人達は音がすると怯えるとかそういうところがありましたけど、でもパニックになってどうしようもないというような相談をしてきた人はいなかったですね。
わりと早い時期から子ども達は福寿荘に戻ってきたんですか。
はい。受け入れを始めたのは3月29日頃からですね。
これは親御さん達からの要望というわけではなくて、内海さんや職員の方の自発的な意志で再開したという感じですか?
お母さん達から「早く早く」とは言われなかったけど、早くやった方がいいだろうなとは思いましたね。それと、やっぱり経営者として給料を払わないといけない、そのためには開業しないといけないっていうのはどこかで考えてましたね。環境が変わることがすごく大変なお子さん達なんで、そこはやっぱり〈慣れた顔があるとか、場所が変わっていてもいつもと同じ動きがある〉っていうことで保障してあげたいなと思いましたね。
そして、再開するということは、私達もやることがあるってことですからね。ある職員が「何もなく、怖かった思いだけを抱えて家にいたら、精神衛生上悪かっただろう。でもやることがあるってことで助かった。」って言ってましたね。
他に助かったことは、もちろん物資もそうですけど、職員の勉強会もできたことですね。保育所の先生達もお呼びして、やりました。また、お母さん達と支援の先生方で話し合える時間を設けました。そういうことでもメンタルが安定したのかなと思います。
震災後は歌のグループの方が支援に来たり、絵を描くグループの方が来たり、乗馬体験をさせてくれる人が来たり、震災前よりもいろんな方々が来てくださったし、いろんな勉強をすることができました。
具体的には、どのような方々がいらしたんですか?
カウンセラーさんとか、言語療法士さんとか、臨床心理士さんとか、発達心理の先生とか、音楽療法の方とかね。今までだったら仙台まで研修会に行ってもなかなか会えないような方達が来てくださったのでありがたかったですね。いまだに続いている方もいらっしゃいますしね。
…こんなことをいうのは不謹慎かも知れないけど、八年経って、あの仮の施設の方が楽しかったって思う。変でしょ?
そうですか。
んー、法律が変わっていろいろ厳しくなってきたんですよね。職員の配置条件だったり、営業開始時間だったり。支援計画もちゃんと立てて、他の施設とも共同で話合いを持たなきゃいけないとか。すごくそういうところが厳しくなってきたんです。当時は本当に命からがらでいたので、そういうところも若干薄かったので、本当に今その日だけを何とか生きていくという状況だったんですけど。いろんな人が来てくれて、いろんな経験もしたし。福寿荘という建物に拒否感を持つ子供っていなかったんですよ。建物に拒否感を持つ人って自閉症には多いんですけど、みんな入ってくれて。二階だったんですけど、階段を使って体力作りをしてました(笑)。あるもの何でも使ってやっていたので、何かね、面白かったんですよ。工夫する楽しさみたいなことかな。
ある種の充実感みたいなものですかね。
そうなんですよね。今になって思えば津波や火事は怖かったけど、大丈夫だったし。一年目の夏は暑かったんですけどプールがないので、両手を広げたくらいの大きさのワカメを冷やす水槽があるんですけど、それにブルーシートを敷いてプール替わりにしたりね(笑)
普段やれないようなことですよね。
そうですよね。本当に工夫のし甲斐がある生活で。あの頃は大変だったけど、今振り返ると楽しかったなと。
東京の支援学校の先生方がボランティアで来てくれるんですけど、本の読み聞かせが上手なんですよね。子供達も本当にうれしそうに笑っていましたね。毎年夏には〈わいわい企画〉といって、いろんな所に出向いて普段できないことをやろうという企画をやっていたのですが、すぐ再開しようということになって、千厩の方に電車で行って。その時東京から来ていた先生方にも同行していただいて。本当にいつものことができたって。子ども達には合言葉は「いつもと同じ」って。それはすごく大事だなと思いました。
いつも同じってことは普段実感しないけど、それは幸せなことですよね。
リズムを崩さないで済むっていうかね。知的に重いお子さんはなかなか伝わりにくさがありますでしょ?だけど体で覚えているので、マザーズホームに来たら、こうやって、ああやって、こうして帰るんだなという流れは分かってますんで、それが変わらないということは精神の安定につながっているのかなと思います。よくいわれますけど、安全、安心、安定というのは本当に大事だなと思います。